233話 魔女と三兄弟と巻き込まれる人々 (3)
A氏の一人称。
次回は兄弟集合と言いながらラスト一瞬だけです(汗)
暗闇が薄れ、樹々の差し交わす枝葉の隙間からほのかな黎明が差し込む。
広々としたリクライニングルームの天井が染まり、徐々に明るさを増すまでの間隔が早くなった。
中央に置かれたシンプルなベッドマット、適当に敷いた布団の上ですやすや寝息をたてる城の主の瞼に光が触れ、覚醒を促す。
やがて何度か寝返りを打ち、ぼんやり見開かれた目が、早朝の空を映し出す円天井を見つめる。
そしてマスターの一日が始まる。
だいたいは洗顔と口内洗浄だけで済ませるが、まれにシャワーを浴びる。寝覚めの悪い朝や、前日に気分的に疲れる出来事があった場合、その確率が上昇する。
最近は連日朝シャワー。原因は判明している。三兄弟の長男が、最近マスターにとって青天の霹靂な行動を取っているのだ。
当分この先もやめるとは考えにくいことから、朝シャワーの習慣化が予測される。
良質な水が潤沢にある土地は、それだけで生活上の不安要素の大半が消える。節約をあまり気にせず、濾過や殺菌消毒の手間が減り、料理や飲料、薬類の作成でふんだんに利用できて、腹を下したり病にかかる確率も低い。
そしてマスターが罪悪感を抱かず、バスタイムを存分に堪能できる。
むろん排水の浄化も完璧だ。
〈黎明の森〉――代々この地を治めてきたデマルシェリエ家の伝承において、ここは別名〈神域の森〉と呼ばれているようだ。
文字には書き記されておらず、口頭で親から子へ伝えられ、それを知っているのは本家から二親等以内の血族のみ。
辺境伯親子の会話からその事実を拾い上げたのは五日前。彼らはこの〈森〉の内部で起こる事象、発された言語のすべてを〝私〟が把握していることを知らない。訂正は不要と判断している。これはマスターも同様で、移住した者達が暮らしにくくなってしまうのを案じてのことだ。気にする必要のない根拠の説明は難しく、相手に存在しない概念を理解させることは、この件に限っては出来ない。
精霊族や半獣族などは薄々勘付いており、暗黙の了解で普通に生活しているふしがある。誰もがなんとなくそうではないかと感じつつ慣れている環境で、はっきりそうだと突きつけてしまう発言や行為は、ほとんどのケースにおいて悪い結果しか生まない。ゆえに私もマスターも、あえてはっきり肯定する予定はなかった。
デマルシェリエも移住した者達も、客観的に見て信仰に近い感情をマスターに抱いているようだ。「デマルシェリエの魔女信仰」とパナケアの女王が語るには、この地で女性の魔法使いが非常に好まれる傾向は、余所から見れば信仰の域に映るというのだ。それを狂信や、神殿からの弾圧等といった非生産的で面倒な事態に発展させぬよう、世論をそれとなく誘導していくのが肝要である。
この世界に魔女狩りは存在しなかった。だが一部の権力者が神殿の暗部と結託すれば、近い状況をこれから作り出すことはできる。たとえば「魔法使いの正体は魔族だ」と言いがかりをつけ、さも事実であるかのように広める方法などがあるだろう。先日の魔王討伐の立役者が、誰あろう〈黎明の森の魔女〉であることは広く認知されており、マスターを邪魔に思い陥れようと目論む輩が出ないとも限らなかった。その時は慈悲も容赦も無用と既に許可を頂いている。
情報戦こそが我々の領域。
踏み入る者には相応の報いを。
――唯一弱点を挙げるとすれば、明確に情報化されていない情報。
書物、絵画、建築物、いずれにも記されず、滅多に言葉にされることもない、普段は人の頭の中にだけ存在する情報だ。
それらは私でも捕捉できない。読心能力者は精霊族にさえ現存せず、人族の土地で過去に存在したわずかな前例は、どれも非業の死を遂げている。
ゆえに天魔鋼や神輝鋼などを使い、この世界の精神感応力なるものを研究しているのだが、捗ってはいない。精霊族の協力も期待できなかった。他者の思考を読むのではなく、彼らが普段しているように〝感情〟という現象を捉え、その中から〝実行される危険性の高い悪意〟をピックアップできればいいのだが、もし彼らにその意図を伝えた場合、我々のほうが危険視される恐れがあった。
彼らがマスターに害をなす恐れはない――彼らが誓約を破ることはない――それでも、距離を置こうとするか、もしくは監視者になる恐れはあった。そうなればマスターの快適な生活が脅かされてしまう。
効率は落ちるが、現状維持で独自に研究を続けるのが最善であった。
「うん。やっぱこれにしようっかな?」
マスターが姿見の前で仁王立ちになり、満足げに頷いている。
これも毎朝の日課のひとつだ。
オリジナルの〈東谷瀬名〉はインドア派らしく体形維持が苦手で、服装で外見体重を何割か誤魔化すタイプだった。脱いだ時に己の身体を直視するのが年々苦痛になっていたという。
現在は違う。うっすら腹筋が割れて全体的に筋肉質、加えて長身。一般的な成人女性と比較すればかなり逞しい、成人男性と比較すれば「細身の少年」と表現される体形。マスターいわくの隠れおばさん体形では断じて有り得ない、マスターにとって理想的な身体つきだった。
この身体になってから、もともと豪華な下着を好んでいたマスターの趣味に拍車がかかった。秘密のクローゼットをいっぱいに埋め尽くすのはドレスではなくブラジャーとショーツである。「今日はこのパンチィのセットがいいかな♪」などと変態的な台詞と一緒に怪しげな鼻歌を歌いながら、なかなかに攻めたデザインの下着を装着して全身鏡の前に立つ。
そして笑顔で頷くのだ。実に幸せそうに。
が。
今朝はいつもと違うものを身につけていた。
《マスター。もしや本日、泳ぐおつもりですか?》
下着ではなく、水着だった。
「うん。だって久々に外へ行くんだしさ。なんか陽射しが見るからに暑くなってそうじゃん? ついでに泳ごうかなって」
《本日は三兄弟と会うご予定では?》
「――そうだけど」
言いながらマスターの目も泳ぐ。最近の三兄弟の〝おかしな行動〟でも思い出されたのだろう。
しかし引きこもって丸三日。これ以上会わないでいると、次に顔を合わせづらくなると説得し、渋々ながら納得して頂いたのが昨日の朝だ。
「そんな改まったお話なんてするわけじゃないし、なんなら皆を水遊びに誘っちゃえばいいんだよ、うん」
《賛同できかねます》
「なんでさ?」
《この世界に水着はありません。彼らはその水着と、豪華総レースの下着の区別がつきませんよ》
「…………っっ!!」
失念していたようだ。
人付き合いの増えた影響か、以前よりも少しだけ表情が豊かになっている。ささやかな変化だが、当初の完全な無表情を知っている者は、かなり打ち解けてもらえたのだと感慨深さを覚えるらしい。
《ビキニじゃなくてスポーツタイプだし、などと主張されても、この世界では通じないかと》
「い、いやいや、あきらめたらそこで試合終了なんだ……この機会に、水着の着心地と安全性を布教してしまえば……」
《そうですね。装備を外して水棲の魔物に喰われるか、装備をつけたまま溺死するかを天秤にかけましたら、おそらく前者のほうが苦痛は少ないでしょう》
「悪意満載の例えを出すんじゃありませんよ! この森ん中なら魔物リスクなんてゼロでしょーが!?」
《そうですね。布教の際、マスターがどなたかに取って食われる程度のリスクしかありませんね》
無言で断念された。
以前なら「無い無い無いそれは無い!」とコンマゼロ秒で笑い飛ばされるパターンなのだが、色々と心境の変化がお有りの様子だ。
選んだ下着は〝初心に帰ろうデザイン〟とマスターに命名された、飾り気の少ないシンプルなベージュのセットだった。
「……こんな、あるかないかもわかんないよーな洗濯板を見てムラっとくる奴なんていないと思うけどね……」
《マスター。〝完全に無い〟と〝無いようで有る〟との間には、天地ほどの差があります》
反論はなかった。
◇
Alphaの用意した朝食に舌鼓を打ち、食後のコーヒーを味わわれる。最近の好みはエルフ豆のブレンドだ。
人族の国家では酒以外に茶が好まれ、北方諸国では紅茶に近く、南方諸国では日本茶に近い。だが意外にも、精霊族はコーヒーに似た飲み物をことのほか好んでいた。
こちらの国々で該当する訳語がなく、マスターが「コーヒー」と呼んでいるうち、そのまま〝コーヒー=精霊族産の黒い色をした苦い飲み物〟の意が定着した。
灰狼は香りが好みに合った様子で、茶と半々で飲んでいる。鉱山族はお気に召さなかったらしい。
ドーミアに広めるほどの量はないので、人族の国では〈黎明の森〉の限定取り扱い品となった。
コーヒーを飲み終えたあとは、腹ごなしと運動不足解消を兼ねて朝の散歩へ。
何故これで未だにインドア派を頑なに自称しておられるのか理解に苦しむ、素晴らしい運動神経で樹々の間を駆け抜けてゆく。
途中、勇者の少年の真上に落っこちるというハプニングがあった。
この少年、勇者らしくラッキースケベの星のもとにでも生まれたのだろうか。興味深い確率である。
事故で揉まれたマスターが「ごめんごめん! じゃ!」と爽やかな汗を光らせつつ去っていく一方で、揉んでしまった青少年のほうが慌てふためいて真っ赤になっていた。
《マスター。あれを「じゃ」で片付けるのはどうかと》
「え。何が?」
ご理解頂けないようだ。
これは例の長男にチク……ご相談し、注意喚起をして頂こう。
相談といえば。
エスタローザ光王国の王位継承問題について、そろそろ辺境伯から相談がある頃だ。どうするかはほぼ決まっているようなので、今後の打ち合わせ程度で済むと思われる。
これに関してマスターは一切関与しない方針だ。政治問題には完全ノータッチ。関わり始めるときりがなく、まったりスローライフが光速で遠のいてしまうからだ。
その代わり〝小鳥〟の気が向いたら、たまに辺境伯の相手をする。
エスタローザ光王国という国は、蓋を開ければ国家として非常に危うい国だった。豊かな水と豊かな緑、充分な食糧があり、衛生観念が比較的まともで大衆浴場の文化があり、国全体で見れば間違いなく豊かな大国である。
だがその豊かさを、国の頂点にいる者が滅茶苦茶にしてしまいかねないリスクを常に孕んでいた。
ゆえに前々から、辺境伯の前でさえずりながら、それとなく情報を流していた。――「もしこの人物の首が落ちた時は、この人物を後釜に据えればいい」と。高位貴族が次々と短期間で消えたにもかかわらず、その影響がほとんどなかったのは、その人物が表舞台から消えた後の対処をあらかじめ想定してあったからだ。
もとより、日頃から下の者に仕事を押しつけ、怠惰に贅沢に色事に耽溺したりと、いなくなっても支障のない連中である。
そして〝働く野心〟のある者は、意外に少なくない。
ひととおりアスレチックマラソンをこなし、菜園の前まで戻り軽くストレッチ。
簡単に汗を拭きつつ水分補給。Alphaが用意していたパラソルの下、リクライニングチェアに身体を預け、のんびり野菜や薬草畑を眺め。
〈スフィア〉に入って再度シャワーを浴び、汗を落とす。
非効率だが、朝の散歩を思い立つのも、散歩がマラソンになるのもその時の気分次第なのだ。頭がさっぱりしたから走りたくなる、という気分もあるらしい。
クーラーのきいた室内に感動し、「涼しい。さいこー。お外もう出たくない」――いつものことだ。
三兄弟との約束の時間は夕方頃。それまでに〈門番の村〉を見回る予定だったはずだが、それについては誰に約束をしているわけでもない。
ソファにダイブしたままスヤァ……と旅立たれてしまいそうだったので、壁に南班の戦闘を映し出せば、途端にピョコンと身体を起こした。
実際にあった戦闘の光景なのだが、まるで映画か、webで公開されていた体感型RPGのレイドボス戦にしか見えないらしい。
規模の割には戦死者が出ていないので、心おきなく楽しめるのだろう。既に十回以上は視聴しているのに、まだ飽きないようだ。
Alphaがコーラとポップコーンを運んできた。
まあ、敵モンスターや各戦士の戦闘力を分析しているのだと前向きに捉えよう。実際、結果的にそうなっているのだし。
パナケアの兵士の統率は素晴らしい。
ウォルドやゼルシカ、加護持ちの戦い方もこれでよくわかる。
気弱でパニックを起こした過去が想像できないシモンの立ち回り。
アスファとリュシー、エルダと高ランク討伐者もなかなかの活躍だ。
それぞれの甘酸っぱいシーンに「ひょおおおお♪」と奇声を発しつつ身悶えるマスター。追加報告各種も既に上映済みなのだが、この映像のこのシーンが一番のお気に入りらしい。
エルダの腕も問題ないようだ。骨も神経も自然に繋がり、魔力も肩から腕、腕から指先へと流れて滞りがない。略詠唱もかなり上達しているのが見て取れた。発動光が他の魔術士と比較してやや派手めかもしれないが、逆にそれを他のメンバーへの合図に利用していた。
《これならば、ビームセイバーを仕込んでおいても》
「なんっっっっつーことしやがるんだてめえはああぁッ!?」
《仕込んでおいても良かったなあ、という実現しなかった過去の単なる振り返りです。お気になさらず》
「気になるわぁッ!! やるな絶対にやるな永遠にやるなよおぉッッ!!」
◇
引きこもり回帰中に何度も繰り返した記録映像の視聴会を引き続き行う。おやつをたっぷり食しながらだったので、昼食は抜いた。
必要な栄養は朝食と夕食で充分にとれる。
約束の時間を忘れてはいなかったマスターが、見るからにがっくり肩を落とした。
三兄弟のおかしな振る舞いが頭から離れず、気が向かないのだろう。
「やっぱりお外でたくないよARKさん……って言ったらどうする?」
《そうですね。まず、〈スフィア〉内部の開口部すべてに気密シールドを下ろします》
「……うん?」
《そして〈スフィア〉外部の気圧を一時的に下げます》
「――うん?」
《次に、エントランスからマスターに続く最も近いドアすべてを開け》
「あ、私お出かけしたいな♪ さあ行こう、すぐ行こう♪」
納得して頂けたようだ。
洗浄・乾燥を済ませてあるブラジャーを再び身につけ、下着選びの一割も時間をかけずに引っ張り出されたズボンをはいてシャツを着る。討伐者風の衣類には、通気性の良い夏仕様の工夫を随所に加えてあった。
マスターの前で〈スフィア〉の出口を開けた瞬間、地上には待ち構える三兄弟の姿が。
ええ、別に怪しい者ではありませんのでご報告しませんでしたが何か問題でも。
今朝がたのドキドキ☆ハプニングについては、とうに長男がもう一方の当事者からの自白を引き出し済。
マスターの情緒が改善されるかはともかく、御身の安売りは言語道断と、しっかり念入りに釘を刺してくれるものと期待しよう。




