222話 壁に挑む者
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遊び疲れた幼い弟達の寝顔に微笑みを落とし、シェルローヴェンは寝台から立ち上がり、母ラヴィーシュカのもとへ向かった。
ちょっとした話があるとのことだったが、弟のいない時に、という条件をつけた時点で怪しい。
彼が成体になってから生まれたエセルディウスとノクティスウェルは、傍目には親子に見えるほど年齢差がある。しかし彼らを親子と間違える者はなく、シェルローヴェン自身もこの子らが他人の子ではなく己の弟だとわかり、弟達も彼のことが兄だと理解できている様子だった。
これは同胞皆そうなのだが、気配や魂の波長などで親や兄弟の区別がつくのだ。ときに子の取り替えを行う種族からは嫌がられやすい。血の繋がりなどあろうがなかろうが、親が親であれば子は子であろうに――それとも、そういう問題ではないのか。
懐いてくる弟達は可愛かった。遊びと仕事の違いもきちんとわきまえ、重要な話を遮ったり邪魔したりもしないので、ラヴィーシュカがあえて「この二人のいない場所で」と付け加えた時には不可解に思った。
導かれるまま、世界樹の城、女王の住まいを通り抜け、王族しか立ち入りを許されぬ場所を進む。
水底のように静まり返った回廊を抜け、大樹の根元の深淵まで潜り続ける螺旋階段をえんえんと下り。
【これは……】
【代々の王族が大地へ還る前、大切な物語を遺していった森です。いつかこの森のどこかに、わたくしの生きていた証も飾る日が訪れるでしょう】
【…………】
【あなたに見せたいのは、しばし先。おおよそ一万年ほど前の場所です】
ラヴィーシュカは道すがら、幼くしてこの世を去った〝星予見の姫〟についてぽつりぽつりと語った。
数少ない虚弱体質の子であったこと。
これから向かう先の物語は、彼女のためにその父親が遺したものであること。
姫の見ていた夢が本当は、予知である可能性が生じていること。
やがて、端の少し崩れた壁画が目の前に現われた。
幼女のつたない説明と下描きがもとになっている壁画は、子供にもわかりやすく、微笑みを誘われそうな幼い雰囲気で描かれていた。
古過ぎるため、残念ながら全体的に色合いがぼんやりしていたものの、そこに描かれているものは充分に判別できた。
深い深い森の中。
赤い実のなる樹の傍に、黒髪の人物が立っている。
髪は短く、纏う衣装も黒い。
年若い少年のようにも、年を重ねた賢者のようにもとれた。
樹はその人物の背丈ほどしかない。ウェルランディアにこのぐらいの大きさの赤い実をつける樹はなかった。あれは何の樹なのだろう。
それとも、単なる幼子の空想上のものか。
黒髪、黒衣の人物の足もとには、とても小さな子供達が三名。
どれも似通った淡い色合いと同じぐらいの大きさの子供達で、顔立ちは定かではない。
けれどそのうちの二人は、つい先刻まで弓に剣術に盤上遊戯とさんざん付き合ってやり、遊び疲れてコトンと寝入った弟達によく似ている。
陽射しのような白金の髪の子供と、よくこの微妙な色合いが出せたと感心するような、銀虹の髪の子供。
【三人とも、あなた方によく似ていませんか?】
【え?】
言われて気付いた。淡い金にけぶる髪、翡翠の目の子の特徴は、彼自身と同じものだった。
その子はひとりだけ赤い実を腕に抱えている。小さな子の手には、たったひとつでも抱えるほど大きな実だ。
ほかの二人の子はたくさんなっている実を夢中で見上げていたけれど、何故かその子だけは、黒衣の人の顔をじっと見上げている。
【…………】
その人は注がれる視線に気付いている様子はなく、樹の一番高い場所になっている実に目をやっていた――いや、よくよく見れば、角度がずれているようだ。
もっと上。もっと遠くに心を向けている。
どこに?
かすかに、胸がざわついた。
【最初、わたくしもオルフェもハイルも、この子はあなたのことではないかと心配していたのです。けれど、どうやらそれは杞憂だったみたい】
ラヴィーシュカはどことなく安堵したふうに、小さく苦笑をこぼした。
そうだ、確かに。これが自分達だとするならば、明らかに三人の年齢が合わない。
胸のざわめきは少し落ち着いた。
【ですから、可能性としては……あなた方の、誰かの子供なのではないかしら】
【これがいずれ、本当に起こることだと?】
【そのつもりで備えておいたほうが良い気がするのですよ。あなた方ではないにしても、この子らは他人のように見えなくて。偶然にしても揃い過ぎているでしょう?】
【そうですね……】
三兄弟の特徴と、ここに描かれた子供らの特徴は年齢以外、完全に一致している。
しかし、だとすればこの黒衣の人物は、いったい何者なのだろうか。
【魔女、なのだそうです。どこか遠い空から来たのだと】
【――女性、ですか。それに、空から?】
魔物ならば、そう言うだろう。
しかし、空を飛べる魔術士など聞いたこともない。
かといって翼種には見えないし、人に化けた竜に〝魔女〟という呼称は使わない。
そもそも太古に存在したとされる竜は、とうに滅びたとも、別の世界へ旅立ったとも言われている。
だとすれば……。
荒唐無稽な思いつきが不意によぎり、そのまま唇から漏れた。
【……神々?】
【さあ……どうなのでしょうね】
――神殿で語られる神々と、彼らの間で語り継がれる神々は、実は完全に同じものではない。
一定の年齢に達した精霊族の間で、決して文字には残さず、親から子に口頭で伝えられる神話がある。
神々には、二種類存在した。
旧時代の神々と、新時代の神々だ。
この世が滅びの危機に瀕した際、死滅したのは前者であったとされている。生き残ったわずかな後者が新時代の神々となり、現代においては時に人々に加護を与え、神聖魔術の恩寵を与える存在となった。
旧と新、両者が別種の存在であると示す、決定的な相違点がある。
この世に存在するあらゆる種族が、その身に魔力を帯びていた。種族ごとに魔力の性質は異なり、神殿に漂う〝神気〟と呼ばれる清浄な気配も、根底は同じ――要は〝神々の帯びる魔力〟のことだ。
しかし旧時代の神々は、一切の魔力、すなわち神気を持っていなかったという。
作り話や勘違いではないのかと思わずにいられないが、そう疑う者を想定して「事実だ」と前置きされるほど、念をおして伝えられている話だった。
なのにどうして、彼らが神たり得たのかは誰にもわからない。神気もなく、さまざまな奇跡の力をどうして振るえたのか――だからこそ奇跡と呼ぶしかないのか。
(だがそれでも、わたし達の祖先はこれを語り継いできた。眉唾と言い切るのは早計だ。何らかの真実がそこにあったはずなのだから)
新時代の神々とも異なる不思議な存在を、幼い姫が〝魔女〟と呼んだのだとしたら。
もちろん、これが予知のたぐいではなく完全な空想であり、やはり単なる偶然の一致だったという線も皆無ではない。
だが念のため、自分達と近しい子孫を描いたものであるかもしれないと、それなりに心構えだけはしておいたほうがいいだろう。
この時はまだ、その程度の認識でしかなかった。
◆ ◆ ◆
リンゴの樹の頂を見つめながら、〝魔女〟が何か不思議な言葉でささやいていた。
その言葉を幼いシェルローヴェンは理解できなかった。抑揚のない、詠うような、何かを懐かしむような声に聴こえた。
元の姿を取り戻した後に記憶をなぞっても、やはり彼女が何を話していたのか、まるでわからない。似た発音の言語すら心当たりがなかった。
思えば彼女の視線は樹そのものではなく、もっとどこか遠くを見つめていた。
――自分は彼女に、何を問いかけてしまったんだろう。
幼い少年の胸はぎゅっと引き絞られ、呼吸が少し苦しくなった。
それは彼自身が感じているものではなかった。目の前の、彼女が抱いている痛みだった。
空虚で、やり過ごすしかない、救いのない痛み。
泣きたくなるのをこらえ、必死で〝魔女〟を見上げた。
どうか少しでも、こちらを見て欲しい。
自分がここにいる。どうか気付いて、と。
彼女はとても大きな存在だった。わずか三年しか生きていない彼らからすれば、とてつもなく大きくて、強くて、揺るぎのない存在だった。
遥かに弱く小さな自分が、こんなにも大きくて強靭な相手を「支えたい」などと、想像するのもおこがましい。
誰の助けなどなくとも、彼女は何でも知っているし、自力で何をどうとでもできる無敵の存在だった。記憶がなくとも、彼はその〝魔女〟が今まで会った誰よりも強い相手だと感じ取っていた。
だからこそ悔しかった。
どうして自分はこんなにも無力で。
どうして自分は、彼女を助けてあげることができないのか。
【私の名前は、とても複雑だよ】
東 谷 瀬 名
見たこともない複雑怪奇な線で綴られた、彼女の名前。
誰ひとり知る者のない文字を前に、この〝魔女〟が本当に、本当に遠い所から来たのだと突きつけられた。
感情の抑制がきかない幼い子供らしく、ぼろぼろと涙をこぼした。本当は彼女こそが泣きたかったかもしれないのに、先に自分達が泣いてしまったせいで、彼女はそれができなくなってしまった。
――どうしてわたしはこんなにも小さく、弱いのだろう。
こんな小さな手では、あなたを抱きしめることもできない。
あなたがわたし達に与えてくれた、すべての不安を取り除き、包み込む安心感を、どうしてわたしはあなたに与えることができないのか――。
腹が立った。自分自身に。
強くなりたかった。大きくなりたかった。
彼女が安心して、寄りかかってくれるように。
悔しくてならなかった。この広大な〈黎明の森〉――何者も踏み入ることを許されない不可侵の森の奥で、彼女をまた独りきりにせざるを得なかった自分が。
最強で、無敵で、己より遥かに大きな存在なのだから、だから独りで放置しても平気だと、どうしてそんなことが言える。
本当にそうならば、彼女がずっと耐えているこの痛みは何だ。
◆ ◆ ◆
(何よりも怒りを覚えるのは、わたし自身に対して、だ……)
瀬名と彼らの間には、壁がある。
その頑強な壁はほかでもない彼女自身が築いた。
彼らの知識と記憶にある限り、誰よりも強く比類なき存在である瀬名は、しつこく己を凡人と自称し、好意的に近付いてくる者であれば、だいたい誰にでも気さくに対応する。
相手の身分や種族には頓着せず、言ってしまえば敵か味方かで対応を天地ほどに変える。
精霊族もそういうところがある種族なので、それ自体は構わないのだが……瀬名は敵対しないと確定した相手、それも親しくなった相手にさえ、決して踏み越えられない明確な壁を築いている。
見えない壁の存在を、聡い一部の者は気付いていた。その上で指摘せずに付き合っているのだ。
いくら親しいからといって、何もかもさらけ出せというのは極論でしかない。
それに、変に指摘したが最後、この魔女は何の後腐れもなく、平気であっさり自分達の前から消え去りかねなかった。
大部分の者は、それは彼女が「強いから」だと捉えていた。
それは確かに間違いではなかったが、それだけではない。彼の考えはさらに深層にまで及んでいた。
彼女は本気でその気になれば、見事にあっさり消え去るだろう。
今まで積み重ねた時と信頼、好意、それらすべてを切り捨てて――いや、違う。
はじめから切り離しているのだ。
自分とそれ以外のすべてとを。
だから、いつ失くしても構わない。その時のために、常に備えている。
壁は彼女を護るためにあり、同時に彼女を孤独にしている元凶でもあった。
その内側に踏み込めそうで、どうしても越えられない己の不甲斐なさに彼は苛立って仕方がない。
厳重に隠された傷にうかつに触れれば、却って苦しめる結果に繋がりかねないのだが……つまるところ、単に彼は彼自身の勝手で、そうしたいだけなのだ。
それが一番、どうにもこうにも、腹が立つ。
「あのう……シェルローさん? もしもーし?」
ブラシを片手に、くだんの魔女が困惑の声を落としてきたが、寝たふりを返した。「もうこのぐらいでいいんじゃない?」とは言わせない。
整然と美しい菜園の前。小さな広場に置かれたカウチの上で、膝枕とブラッシングの取り立てをしている最中である。
自分からご褒美を約束したくせに、どうせころっと忘れていたのだろう。その分もしっかり徴収するつもりだ。
ここで丁度いいと要求した青年に、瀬名は「なぜ誰がカウチなんぞこんなとこに置いた」とぶつくさ言っていたが、だいぶ前に「ここにこういうのあればいいな」と呟いたのは彼女自身だった。聞き耳を立てていたであろう青い小鳥が、主の要望を叶えないはずがないではないか。
あきらめたか、それとも膝に乗せている男が眠って幾分安堵したか、落ち着きなくもぞもぞ動いていた〝感情〟が少し凪いだ。カチコチに固まっていた身体から力を抜く気配があり、やがてブラシではなく、しなやかな指の感触がゆっくり髪を梳きはじめた。
いつもしている手袋を外せば、思いのほかしんなりと綺麗な手指が現われる。貴族令嬢ほど華奢ではなく、骨格もしっかりしていた。けれど男の手指とは完全に違う。
手荒れや傷もなく、世辞抜きに綺麗で、なめらかな手だ。
思いがけない心地良さと、少しの気恥ずかしさに、不自然にならない程度に寝返りを打った。
さらさらと風にそよぐ葉。
低い背もたれの向こうには、空と森を映して輝く、白く美しい真珠の城があるのだろう――。
(…………)
丸い形をした城の下部は地に埋もれ、地上に現われた部分には、無粋に目立つ黒い文字。
そう、あれは文字だ。模様でも、ただの線でもない。
叡智の森の種族たる彼をしてさえ、いったいどこの国や民族の言葉なのか、まったく見当もつかない。
けれどそこに書かれているのは……おそらく、〝名前〟ではないだろうか。
この城の近くにいる時、あの青い小鳥はよく瀬名の傍を離れ、どこかに姿を消すのだ。
主が安全な場所にいるから、安心してどこぞで諜報活動に精を出しているのかと最初は思った。しかしそれなら、姿はないのに会話ができる理由を説明できない。
もしや、ひょっとしたら。
そう思い至るのは、さほど遅くなかった。
(…………〝アーク〟……)
夜空を裂いて進む、煌々と燃え盛る炎のかたまり。
あれは森の彼方に消えた。――この〈森〉に。
幻視した星の海。暗いのに白いとわかる部屋。獣のようにうろつく男の頭部が朱くはじけ。
それを呆然と凝視する、長い黒髪、白い服の小さな少女……。
やわらかな膝のぬくもりと、優しく撫でる指の感触のもたらす至福感が、どうやら睡魔を誘ったようだ。
その後、本当に眠りこけてしまったらしい。
好みによると思いますが、こんな流れで実は未来の地球展開はありません。
ちゃんと別の場所です。
冒頭で書くかここにするか迷いましたが、一応。




