220話 戦の後 (2)
前後編にしなくてよかった。(2)です。
イルハーナムの魔王は、入れ替わり前のナヴィル皇子や、呪術士ジャミレ=マーリヤなどと波長の合う、精神汚染や呪力の得意な系統の魔王だったようだ。
その支配力は発展途上にあり、まだ完璧とは言い難かったものの、不穏な気配が東の地全土をうっすらと覆っていたらしい。
それは精霊族にとって苦手な気配であり、長居すれば気分が悪くなるほどだったらしく――聞いた症状は車酔いに似ていた――数年前に立ち寄った時はそこまで酷くはなかったとのことで、順調に〝成長〟を遂げていたのは間違いなかったそうだ。
妖精族は本来、彼らからすれば遥か格下の種族だったが、進化した上で人族の肉体を得た結果、精霊族にとって天敵に等しい種類の魔物に変質していたのだそうな。
ようだ、らしい、そうだ、そうな――すなわち、瀬名の感覚では他人事の域である。
おまえが倒しただろ?
そんな声が方々から聞こえてきそうだ。
が、瀬名としては「へぇ、そうだったんだね~」としか言いようがない。
何故なら精神汚染だの呪いだの、それらを得意とする者達にとって、瀬名こそがまさしく天敵だったからだ。
効く効かないを論じるのも無意味なほど、まるで通用しないのである。精霊族の嫌がっていた不快な気配など、彼女は微塵も感じていなかった。鈍いからではなく、平気だからいちいち意識する必要がなかったのだ。
精神攻撃耐性の強い精霊族ならば、むしろそういう連中に強いんじゃないかと瀬名は不思議に思ったことがある。けれどそれは前提が逆だった。鋭い精神感応力を持ち、悪意をもろに受けやすいからこそ、彼らはその耐性を備えてきたのだった。
つまり、強靭な精神力で耐えるは耐えられるけれど、ダメージはそれなりに食らう。平気ではない。
呪詛の嵐を真正面から浴びたとしても、まるっと気にせず平然としていられる瀬名がおかしいのである。
が。そんなもの、瀬名にはどうでもいい。
目指せご近所の皆々様の平和な未来、自分の生活圏の恒久的な平穏確保。それを脅かす無粋な方々には速やかにご退場いただくべきである。
そんな彼女のささやかな主義や目標は、当初からコンマ一ミリのズレもない。誰に何と言われようとだ。
その主義に基づいて、ある大きな歴史的脅威がこの世界からひとつ去った。水面下で世界中に猛毒を含む根を張り続け、いつか恐怖と絶望の花々を咲かせ(略)そんな夢を見ながら長年地道に準備してきたであろう【彼】は、後で詳細を聞いた関係者の皆様がつい「不憫な…」と同情しかけてしまうほど、あまりにも呆気ない最期を迎えたのだった。
さて。
そのようにしてこの世に訪れかけていたらしい脅威は、ひとまず問答無用で片付けられたのだが。
瀬名にとっての本番は、まさにその後に控えていた。
◆ ◆ ◆
ドナドナドナと連行され、現在地・魔の山近くの森。
この辺りは既に魔素量が多く、危険度の強い魔物との遭遇率が非常に高くなっているはずなのだが、どうしてさっきから一匹も出現してくれないのだろうか。
おかしい。何かが変だ。こんな時に限って平和なんて、もしや気付かぬうちにかけられていた呪いの効果が、今頃出てきたとでも言うのか?
(鮮血熊、出てこい! 暗黒蜘蛛よ、おまえの根性はその程度か!? こんな時こそキミ達の出番だろう、何コソコソ息を潜めてるんだ! なんなら人喰巨人の群れ諸君も遠慮せず出てきたまえ、いつもやられてばっかりで悔しくないのか、ひょっとしたら名誉挽回のチャンスかもしれないぞ!?)
心の中で叫ぶ瀬名であった。
今、彼女は孤立している。怜悧な容姿に心優しさを秘めた青年騎士も、凛々しく麗しい女騎士も、若く将来有望な領主の息子も、皮肉な笑みと剣の似合う長靴を履いた猫も、彼女の友は皆、いつの間にかいなくなってしまった……。
要するに逃げた。
気持ちはわかる。
とてもわかる。
自分も逆の立場なら逃げてると瀬名は思った。
そしてタマゴ鳥は再びどこかへ飛び去り、珍妙な雪ダルマは自主的にキャリーカートの上に乗ってカプセル形状に戻り、荷物のフリをしている。おのれBeta、きさまもか。
おかしい。〝主〟とは何を指す言葉だったか。
「キミ達…………ちょいと離れてくれんかね?」
「やだ」
「やです」
「何歳だッ!?」
いや、本当に何歳だろう、こ奴らは。
瀬名は拳を握りしめ、しかしどこへぶつけることもできなかった。
右からぎゅうぎゅう、左からぎゅうぎゅう。体格のいい男どもに両側から抱きつかれ、足が浮きそうな勢いだ。
両脇から全身をぎっちり圧縮され、腕をろくに動かせない。さりげに戦闘力の大部分を封じられていた。
苦痛を感じない程度の力に加減してくれるのはいいが、とりあえず放して欲しい。
(つうかもしかしてこれ、お子様バージョンの時にハグし過ぎたせい!? 三つ子の魂百まで現象!? なんてこった……!!)
瀬名は他人と身体を触れ合わせるコミュニケーションが未だに苦手であり、ましてや自分より大きな男にじゃれつかれる状況など、心臓に悪いことこの上なかった。相手がお子様ならばともかく。
しかし色気の有無はともかく、瀬名は古い言い方をすれば彼氏いない歴イコール年齢を年々更新中。異性に対するそっち方面の免疫がゼロだ。
彼氏がなくとも仕事があればいい、女は自立してなんぼという価値観の時代を生きてきたけれど、それはそれ、これはこれ。
おまけに彼女自身はあまり気にしていなかったが、こちらで得た騎士や討伐者の友人達は皆、瀬名を〝男友達〟と認識し遠慮のない軽口を叩きながら、気安く触れるのには最初から遠慮があった。瀬名が魔法使いであり、初っ端で領主親子と親しくなったからだ。
普通の仲間同士で交わされるような、肩を組んだりどつき合ったりという接触は瀬名に対しては一切なく、拳の先を突き合わせるかハイタッチするか、そのぐらいだった。それでもかなり親しい相手にのみ許される挨拶と認識されていた。
そしてその程度でも、ヒキコモリ時代の長い瀬名にとっては破格の触れ合いだったのだ。
要するに彼女は今、慣れない密着度合いに恥ずかしがっている。
(そんなことでいちいち恥ずかしがってる自分の反応が、一番キモくて心底嫌だ……!)
乙女心? いいや、断じて違う。
これはヒキコモリ心だ。それ以外であるものか!
他人には意味不明なこだわりの強い、複雑な心境なのだった。
敵ならば容赦なく吹き飛ばせるけれど、懐いてくる相手にはそうもいかない。そして敵は瀬名のそういう甘さをよく理解した上で利用していた。
――彼女は彼らを子供扱いしようとしているのだ。現実がどうであれ。
(甘いなあ)
(甘いですねえ)
ごく一部からは猛反発必至であろう、特別扱いされている自信と余裕に満ちたエセルディウスとノクティスウェルの思考は、幸い誰にも聞かれることはなかった。
そう、聞かれはしなかったのだが。
「おまえ達……」
ぎくりと固まったのは弟達ではなく、瀬名のほうだった。
低い低い声の出どころに目を向けられない。
何故だろう。声だけで怖い。
というか、最近とみに、瀬名はこの男に恐ろしさを感じている気がする。
前からこんなに恐い男だったろうか?
否、以前はそうでもなかったはずだ。
寛容でいかにも大人な、三兄弟の長男。苦手分野の滅多にない万能型。同胞からも頼りにされる立派な指導者タイプの青年。
保護した頃の記憶が鮮明に残っているためか、ほかの弟達と同様、瀬名に対しては甘えがちな言動が多々見られる。瀬名もついなんとなく、弟扱いしている自覚がなくもなかった。
包容力のある優しそうな笑みを浮かべつつ、それでいて自分が年下であるかのように自然とこちらを立ててくる。――それがシェルローヴェンだったはず。
違ったのだろうか?
本気で瀬名を怒らせる真似はしない、それは今も変わりないけれど。
こんなふうに、怯えさせる人物でもないと思っていた。
(……他人様に言えないあんなこと、こんなこと、そんなこと色々やりまくって、仏の顔を全部使い切らせちまった私の自業自得つーたらそれまでなんだけど。いやでも、エセルとノクトは別に全然怒ったりしないのにな……なんで?)
甘えてじゃれついて、ちょっとどうかと思うぐらい、瀬名の言動はほぼ全面肯定。エセルディウスとノクティスウェルの態度や雰囲気は最初から変わらない。
シェルローヴェンはどうだったろうか。最初の頃、彼はどんな様子だった? 弟達と、どこか大きく違うところはあったろうか。
三者三様、それぞれ違っていて当たり前。そんな話ではない。目立つ差異があれば印象に残るはず。実は彼にだけ存在していた逆鱗に、どこかのタイミングで気付かぬままに触れてしまったのか?
けれどそんな記憶はどこまで掘り起こしても見当たらなかった。少なくともそんなものに触れたら気付くはずだし、彼らは嫌なものは嫌だと存外はっきり言う。
どこからだろう、こうだと思っていた相手の印象にズレが生じたのは。彼らの好き嫌いのポイントは似通っていて、個人差による沸点の違いもそんなにないと感じていたのだが。
瀬名の困惑をしっかり感じ取っている弟ふたりは、ニンマリと実に愉しげな笑みを浮かべた。
それはもう、心から愉しそうだった。
彼らの腕の中で心拍数を上げつつ硬直中の瀬名に、その笑顔が見えなかったのは不幸中の幸いだったのか。
弟達の思惑を察し、苦々しそうに眉をひそめた青年の表情が見えなかったのも。
「どうかしたか? 兄上」
「我慢なさらず、兄上も交ざればいいじゃありませんか」
「………………」




