215話 【魔王】の戦場 (7)
手の施しようがないほどの失敗など、彼には存在しなかった。
魂をも支配した手駒による裏切りなど考えられず、普段はその者達からの報告をもとに指示を出していた。
彼に後悔の二文字は存在しない。
反省はせず、悪意がなければ善意もなく、およそ精神面における人らしい成長とは無縁だった。
彼にはただ事実があり、多少計画通りにいかないことがあれば、それをもとに今後の計画を修正する。
己のミスを悔やみ、のちのちまで失敗の経験に囚われる。そんな無益で無意味な感情は彼にはなく、だからこそ感情に振り回されがちな多くの種族と比較して、彼はずっと有利な所にいるはずだった。
そのはずだった。
(な……ん、だと……?)
南の地。
人族どもの権力者の欲望を煽り、夢を見せ、着実に従順な下僕を増やしていた地。
そこには太古に封じられた悪鬼が地下深く眠り、王からの呼び出しを待っていた。
【ナヴィル皇子】の危機感に呼応し、その悪鬼は目覚めた。海岸線に突如現われた巨大な魚と獣の混合体、鋭い牙に鋭い爪、見上げる小山のごとき威容から咆哮が轟き、周辺の地の小さな獣達を己の支配下に置く。
蝙蝠に似た羽をはためかせ、魚とも鳥ともつかぬ魔物どもを煙のように纏い、悪鬼は海から地上への蹂躙に乗り出そうとしていた。
【ナヴィル皇子】は計画の前倒しをしようとしたのだ。南の地に壊滅的な被害をもたらし、魔物どもにその地を支配させる。
この大陸全土を帝国の名で支配することが彼の最終目的であり、本来の筋書きとは手順がだいぶ異なるものの、もはや手段は選んでいられなかった。魔物どもの強さはまだ充分ではなく、智恵ある魔物へ進化した数もまったく足りていなかったが、急いで〝契約〟を完了させる必要に駆られた。それ以外にこの状況を打破する方法がなかったからだ。
なのに。
(何故だ!? 何故、加護持ちが全員揃っている!?)
よりによってこんな時に、何故。
おまけに今代の加護持ちは、【嵐の神】と【断罪の神】だ。前者は風、水、雷に強く、あの悪鬼は相性面でまったく有利に立てない。後者は罪過ある者に圧倒的な優位を誇り、当然ながら侵略者に対しては強かった。
しかも――
複数の灰狼。
猛者と名高いパナケア王国の戦士。
何より、焦げ茶の髪に、群青色の虹彩を持つあの少年――纏う気配、手に持つあの剣は。
(半神か……! 既に果ての神【エル・ファートゥス】を従えているとは! 何故これほど早く……あれは人族としてまだ幼いはず、神剣に手が届くのは成熟してからのはずなのだが……いや、そういうこともあるのやもしれん。それよりも何故、奴まで都合よく南の地にいる? それも、加護持ちと行動をともにしているとは……!)
おまけにあの若き半神の少年は、まだ粗削りではあるものの、そこそこ神剣を使いこなせているようだ。それも【ナヴィル皇子】にとっては計算外だった。
精神的に未熟な者にたやすく扱えるほど、神剣は手軽なものではない。手に入れさえすれば力が増すという単純な代物ではないのだ。
ただの人族、ただの半獣族、その他平凡な種族の軍勢であれば、あの悪鬼に太刀打ちできなかったろう。
だが、まるで対魔王のために選りすぐったかのような顔ぶれ、戦力では、どう見ても……。
(こんな、馬鹿な……これでは……)
あの万全な準備態勢は何だ。このためだけに集まり、警戒をかためていたようではないか。
もしや、本当に自分の、対魔王のために対策を進めていたとでも言うのだろうか。
情報が漏れていた? そんなはずもないのに。だが、すべてがそうとしか思えない状況だった。
【ナヴィル皇子】は混乱に襲われた。彼の明晰な頭脳をもってしても解答が出せない。
戦う者どもの中にカシムとカリムを発見し、それが己の奴隷であることに気付く。その二人が敵方に潜入していると思い、命令を発そうとしたが、跳ね返される感覚があった。その二人の視力や聴覚、精神への支配を試みるも出来ない。
繋がりが完全に断たれていた。有能で気に入りの奴隷だったので、念入りに施しておいた隷属の術。それが跡形もなく消滅しているのである。
まさか、と【ナヴィル皇子】は秘密裏に建設していた東の海沿いの通路に意識を馳せた。そこで右往左往する奴隷の視界を一時的に奪い、周辺をさぐって、愕然とした。
崩壊した通路。消えた労働奴隷。監督役の奴隷どもは血眼になって、今後の処罰をどのように逃れるかを話し合っている。
いつだ。いつの間にこのような事態になった?
彼のもとに報告は一切なかった。愚かな小物どもがそれを怠ったのだ。それでも日が経てば有能な使えるしもべが事態に気付き、連絡を寄越すはず。それさえないということは、つまりこれは、つい最近起こったばかりということだ。
南の支配への道が潰えていた。彼は今日、たった今、それをようやく理解した。
信じ難くとも、認める以外にない。
さらにまさかと思いつつ、彼は急いでエスタローザ光王国の近辺の様子もさぐった。
――【蛇】がいない。九眼の蛇【ヒュドラム】を送り込んでいたはずだ。どこに行った?
あれの討伐などがあれば、騒ぎになっていようものを、何故。
普段は地下に潜み、まれに地上へ現われて獲物を食らう悪意の【大蛇】。
刻々と成長し、魔王が完全なものとなった暁には、傍らで災厄の名に相応しい怪物となっている、その予定だった。
なのにそれがどこにもいない。自力で世界中の様子を常に把握していなかった――否、それが常時できるほどに成長していなかった【ナヴィル皇子】は、己の力不足、それを些末事と気にも留めなかった慢心を、この時初めて思い知った。
力が充分ではないにもかかわらず、手広くやり過ぎたのだ。障害がなければ上手く転がったのだろうが、思わぬ〝天敵〟の出現を見た今、すべてが引っくり返っている。
それだけではない。今後使う予定で温存していた魔物どもが、デマルシェリエの騎士と、共闘する灰狼の群れによって手際よく狩りとられていた。
さらに。
(なんと……何故奴らが……何故だ……)
先ほどから「何故」しか思い浮かばない頭を止められず、光王国全体の様子に意識をめぐらせる。
南の国々と同様、人族の権力者どもの中に、帝国へ恭順の意を示す者どもを増やしていたのだが。
青みがかった長い黒髪の男。あれは精霊女王の王配、確かオルフェレウスという男だったはず。
白金の長い髪をひとつにまとめた男は、ハスイール。精霊女王のもうひとりの王配だ。
どことなくハスイールに似た男は、もしや次男のエセルディウスか。
ならば銀虹の髪の男は、三男のノクティスウェル。
長男もどこかにいるのだろうか。
叡智の森ウェルランディアの軍勢が、この四名の指揮に従い、エスタローザ光王国の地に集っている。
人の子の裏切者を端から押さえ、かつ、灰狼と同じように、力を溜めつつある魔物の群れを発見しては殲滅していた。
これもおそらく、ずっと以前から行っていたのではない。報告が間に合わぬほど最近始めたことに違いなかった。
南の地と、北の地と。
ちょうど今、この瞬間に合わせて。
寒気を覚えた。
気温の変化など彼には何ら悪影響を及ぼさないのに、どうしてか彼は震えそうになっていた。
西の地は――コル・カ・ドゥエルは、どうなっているのだろうか。
追い詰められる【皇子】。
次はとうとう本体の様子です。




