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212話 【魔王】の戦場 (4)


 どん!


 【ナヴィル皇子】の放った衝撃波は、数百メートルほどの範囲を水平方向へなぎ倒した。

 前のめりに皇子を讃えていた帝国兵が、盾ごと後方へ吹き飛ばされて再び静かになった。

 

(これでも壊れんか)


 鳥は無傷だった。己の〝力〟が表面でするりと滑り、かすり傷ひとつ与えられずに後方へ流れる瞬間を【皇子】は見ていた。

 襲撃者は言うに及ばず。

 この結果を想定していた彼は、放つと同時に跳躍していた。襲撃者とは反対方向へ。

 つまり、空間を飛び越えるすべを持たぬ今、地道で物理的な逃亡手段を選んだ。

 目くらましを放ち、あわよくば鬱陶しい鳥を排除できればよかったが、それは上手くいかなかった。


 鳥はすぐに追ってきた。

 これも想定内。だが、高速で移動する己の周辺を、まるで計ったようにピタリと正確な間隔を保ったまま、相変わらずゆるやかに浮遊している姿は想定外だった。

 二度、三度跳躍を繰り返し、只人より強化された脚力で屋根の上を駆け抜けてもなお、まるで先刻から一歩たりとも同じ場所から動いていないとでも言わんばかりに、ゆったりとついて来る。

 表現し難い悪寒がぞわりと背筋を這った。彼は己の肉体がどうしてそんな反応を示すのか、未だに理解できなかった。


「蠅ごときが!」


 再び衝撃波を放つ。破砕音のほかに大量の悲鳴もあがったが、むろん気にせず二度、三度と放つ。

 壊れない。


(あと二、いや一年もあれば、これほどには……)


 彼らしくない仮定が苦々しく胸をよぎる。

 契約という強固な正当性に基づき、さらに本来の所有者からの許可もあって、彼のそれは一般的な憑依現象とは異なっていた。

 妖精族(フェアリス)の魂と人族(ヒュム)の肉体の組み合わせは、完全に馴染むまで年月を要する。その代わり、あと数年も待てば、進化は完璧なものになるはずだった。

 無意識の下から、徐々に焦りが【ナヴィル皇子】を蝕み始めていた。この時点までついぞ味わったためしのないそれを、彼は焦りと呼ぶことも、どう処理すべきかもわからなかった。


(おかしい)


 頬を撫でる生ぬるい風に眉をひそめる。

 相変わらず不愉快なそよ風だ。

 ……これほど速く走っているのに?

 それに、放った〝力〟と破壊の範囲の狭さもおかしい。

 威力に対して、実際の破壊の度合いがやけに小さくはないか。


(弱められている?)


 まさか。

 だが、だとすれば、この妙な風。

 不可視の膜に包まれ、振り払えない違和感。

 皇宮をぐるりと囲う滑稽なほど長大な壁の向こうにも、ふいに違和感を覚えた。餌へむらがる蟻の大群に見えなくもないあれは、偉大にして無慈悲で名を馳せた帝国軍の――


 抜け殻だった。すべて、こときれている。

 果敢に居残り、裏切られた者達の援軍は、残念ながら来る見込みなどなかったのだ。


 【皇子】は目を見開いた。

 いつだ。いつの間に、何故ああなった?

 血のにおいはない。毒物のにおいもない。彼はこの世の大抵の毒を嗅ぎ分けられる。

 そうでなくとも気配で気付くはずだった。なのに何故気付かなかった。

 制御し難い混乱が頭をめぐり、後方の襲撃者が、未だ追って来る様子のないことに気付いた。

 いや、追跡は少々困る。この鳥どもは鬱陶しいことこの上ないが、必ずや破壊するつもりだ。

 奴があの場から一歩も動かないのは、不可解ながらも、歓迎すべきことに違いない。【ナヴィル皇子】はそう思い直した。


(だが、突っ立ったままで何をしている……?)


 答えはすぐに判明した。

 ちろちろ無作為に閃くだけだったか細い光が、明確な〝法則〟を得て形を取り始めた。

 上空の異常に意識を向けた【皇子】は再び目を見開く。

 光る糸くずは一筋も地上にこぼれ落ちることなく、絡み合い、織り合い、重苦しい灰色の闇の上を、果てから手前へと近付いてくる。

 何かに似ていると感じた。

 何だったろうか。


(ああ。――蜘蛛の巣か)


 合点がいったのは、その中心が己の真上に来た時だった。

 都全土の上空を、端から中央へと美しく鮮やかに編まれる、途方もなく巨大な蜘蛛の糸――


 想像を絶するエネルギーが真上にあった。


 これまで多くの雷の高位魔術を目にし、彼自身が災厄級に分類される存在だった。

 だが、あれは。

 あのような稲光は知らない。

 どうして、たかが人族(ヒュム)ごときにあんな真似が。

 【嵐の神】のしわざではない。あの襲撃者は加護持ちではなかった。半神でもなかった。正体不明でもそのぐらいはわかる。

 本当に?

 皇宮と都を隔てる門の向こう、折り重なっていた蟻の抜け殻の光景。あれさえも気付けなかったのに?


 皮膚がざわりと何かを訴えかける。これがどういうものなのか、だんだん彼はわかってきた。


(我は)


 蜘蛛ではない。

 蜘蛛でないならば、巣の中にいるのは。




◆  ◆  ◆




 この日、イルハーナムの帝都で起こった出来事は、遠く離れた土地からも少なからず見えていた。

 都の空だけではなく、恐るべき勢いで発達した不自然な雷雲は、実際にはもっと広範囲に達していたのである。まるで、今から逃げ出したところで間に合いはしないと、足掻く都人達を嘲笑うかのように。

 そして、かつて見たこともない稲光。

 天からさかさまに伸びた大樹、のちに誰かがそう表現した。

 暗雲に根を張り、地上めがけて一瞬で伸びた輝ける大樹。


 ややして、轟音。

 僻地でさえ耳を塞がねば立っていられないほどの、凄まじい雷鳴であった。




◆  ◆  ◆




「ガッ、…………はっ、……」


 これは何だ。

 何が起こっている。


 今、なにが。


 青年は這いずり、地に爪を立てた。

 彼は生き残ったのだ。

 魔素と魔力を現時点で区別できていない彼は、本能的に魔素をかき集め、吸収し、破壊された肉体は急速に回復していった。

 それでも、あまりの衝撃と、想像だにしなかった苦痛に立つことすらできない。

 結界は常時張っている。それがなくとも、高位魔術士程度の攻撃でさえ、そうそうダメージを受けることはなかった。彼が常に身に帯びているのは魔素であり、己に達した段階でほとんどの攻撃性の魔力を分散させてしまえるからだ。

 魔力は魔素の結合体であり、それを細かく分解できる魔素の制御は、たとえ無意識にやっていたとしても、彼を最強たらしめるに充分な要素だったのだ。


 己の〝力〟が通用しない。

 彼はこの日、そんな相手に生まれて初めて出遭ってしまった。


 彼は痛みに耐えたことがなかった。それは彼が他者に与えるものであり、臣下に命じて与えるものであり、かすり傷程度ならば瞬時に修復できてしまう。

 人の痛覚を、これほどの長い時間、これほどに実感し続けたためしはなかった。

 ゆらりと、自分の身体の上を何かが旋回しているのを感じ取る。

 あの鳥だ。頑丈な奴らと思っていたが、もしや奴らもこれに耐え切ったのか。それとも、しもべならば影響がないのか?

 否、と彼は徐々に思い出した。

 あれが落下する寸前、一瞬にして彼の傍から離れたのだ。常人ならば目で追えないほどの速さで。

 そうして今、戻ってきたわけだ。

 どうやら束の間、記憶が部分的に飛んでいたらしい。

 彼は混乱した。身体が睡眠をとっている時でさえ、たとえ一時的にでも記憶を失うことなどなかったのに。


「ふー……」

「っ!」


 近くから降ってきた溜め息に、【ナヴィル皇子】はぎくりとこわばった。

 動かない頭を押して、視線を持ち上げる。視力はすっかり回復したようだ。


 そこにいたのは、あの襲撃者。

 こんなに近くに来るまで、微塵の気配も感じ取れなかった。

 痛みと回復が急速に襲う全身、それと裏腹にひっそり凍える背筋。


 あの、闇を閉じ込めた琥珀の双眸が、はっきりと輝きながら静かに青年を見おろしていた。

 やれやれ、とでも言いたげに。

 実にやる気なさげに。

 それは疲労感からくるものではなく、明白な失望からくるものだった。


 しぶといな。

 まだ潰れないのか。

 そんな台詞が聞こえてきそうな表情。


(…………)


 滅びた神殿に辿り着き。

 最下層、もうひとつの己、あの聖なる大樹を祀る祭壇を見つけ出し、王手に一歩近づいた者を、是非歓待したいと思った。

 そうして、あの転移の罠を大樹の前に置いた。あれは知恵なき魔物が来ても面白くないので、そういうものが踏んでも発動しないよう選別する仕組みになっている。


 勇敢なる者を褒め称え、その者の実力を高く評価してやりたい。

 進化した強き存在として、寛容な態度を。

 そして何より、妖精族(フェアリス)の本能が、からかって遊んでやりたいと囁いた。

 もう少しのところで、いきなり自分の目の前まで飛ばされたら、さぞかしびっくりするに違いない。

 転移の罠はそこそこ大きく、一度で数名は運べる。コル・カ・ドゥエルの環境は一部の種族を除いて過酷極まりない環境になっており、大勢での侵入は不可能。

 半獣族(ライカン)鉱山族(ドワーフ)精霊族(エルフ)でさえ、少数精鋭による突破が関の山と思われた。

 少ない戦力がさらに減少し、取り残された者はあの大樹を前にして呆然と立ち尽くす。代わりに置いてきた少年、心地良い大樹の寝床を提供してやったあの魂は、【ナヴィル皇子】に劣らぬ愉快な遊び好きだった。久しぶりの来客に大はしゃぎで、時間も相手の耐久力も忘れ、たっぷり遊んでやるだろう。

 彼は遊び過ぎて、玩具をすぐ壊してしまうきらいがある。いつかそれを忠告してやったほうが良いか、そう思いながら、いつも【ナヴィル皇子】はすぐに別のことへ関心が移り、少年のことを忘れてしまうのだった。

 たまに思い出し、飛ばされて来る者の表情を想像しては内心でくすりと笑う。悪戯好きの子供の思考。

 現実としてそんなことはそうそう起こりはしないと、冷静に指摘する大人の思考。


 もしそんな日が来れば、さぞかし愉しいだろう。

 自分が愉しめるものだと彼は信じ、そこに疑いを挟む余地は欠片もなかった。

 絶対の自信からくる増長。彼も、知らずその罠にはまった一人だった。

 こんなに早く訪れる者がいるとは計算外だ、そんな言い訳が通じるはずもない。

 彼はこの襲撃者を、いくらでも翻弄できる弱き存在だと決めつけていたのだから。




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