207話 あどけない神々の贄
光球の中に、十歳ぐらいの子供の姿がある。
人の子と変わらない大きさだ。一行は大樹から遥か手前で足を止めた。
知らずこの場所に迷い込んだ者だったならば、奇跡を前にしているのだと誤解したかもしれない。
清らかな太古の神殿の奥底で、太陽と大地に祝福された神秘的な存在の胎動を目撃している――そんなふうに。
「…………」
息をつめて見守る中、光球の内側で微睡む子供が身じろぎをした。
そのはずみでこちら側に気付いたのか、気配に気付いて身じろぎをしたのかは不明だが、よくできた人形のような双眸が何度か瞬きをし、つかのま侵入者達をじい、と見つめた。
そして、みるみるうちに丸くいっぱいに見開かれる。
【そなた、ら……幻ではないな?】
瀬名は苦笑を浮かべそうになった。半歩ほど後ろに立つ仲間達が、振り向かずともどんな表情を浮かべているのか想像がついた。
きっと、微妙な味の料理を口にした時のように困惑しているに違いない。
それはこの場合、こちら側から出るべき問いかけだった。自分は幻でも見ているのだろうか、と。
まさか幻のほうから「おまえは現実か」などと尋ねてくるとは。
【やはり! 夢や幻ではないのだな!】
幼子特有の、庇護心をくすぐる高めの声が歓喜に満ちた。
水底から響く――否、反響しやすい歌劇場のように、独特な明瞭さをもってその声は辺りに響く。
【なんということだ! ああ、この時をどれだけ待ちわびたことだろう! 騙され閉じ込められ、いったいどれだけ経ったのか……ようやくだ! ようやくこんな所から出られる……!】
「…………」
【何をしておる! 気がきかぬな。さっさと我をここから出さぬか!】
「――は?」
「んだと?」
「?」
【この忌々しい檻から出せと言うておる! 言葉の意味がわからぬのか? これだから下々の者どもは、愚鈍な輩の多いことよ。だがよかろう、我は今、機嫌がよい。我をここから救い出せば、それをもって功績となし、我の専属の護衛に取り立て、多少の無能さなど大目に見てやろうではないか。――その奇妙な玩具、動いておるが魔道具か? 実に珍妙な形をしておるが面白い、我の所有としてやろう。ありがたく思うがよい。それからそこな女、一丁前に騎士の格好などしておるが、所詮女子ごときには荷が重かろう。我の侍女にしてやろうぞ】
「何ですかこのクソガキは」
グレンが言いそうな単語を真っ先にローランが口にした。
珍しく青筋も浮かんでいる。
「ローラン。子供の言うことだぞ? 大人げない…」
「子供だからこそ、言っていいことと悪いことを早い内からきっちり叩き込むべきでしょう。将来ろくでもない大人にならないために、教育はとても大切です!」
「そうかもしれんが…」
「おおーい、お二人さんよ? ちぃと冷静になれや?」
グレンが光球を指差しつつ、呆れ声で突っ込んだ。
ヒートアップしていたローランは即座に「あ」と赤面し、ズレた部下の勢いに呑まれて一緒にズレていたセーヴェルも、ばつが悪そうな顔になっている。
「つうかこいつ、見た目どおりのガキなんか?」
「怪しいよね。出せって言われても、本当にそうしていいのか悩ましいし。閉じ込められた、っていうのが事実なら、何らかの被害者なんだろうけどさ」
「出さなくていいのでは? 何か悪さをしでかして、罰として閉じ込められたのかもしれません」
【なんだと!? 無礼者め!! 愚鈍な上に我を疑うか!? 本来ならば、きさまらごとき下賤の者どもが声を交わすことも許されぬのだぞ!! ここを出た暁にはたっぷりと鞭をくれてやるわ!!】
「あ、やっぱり出さないほうがいいですよ、ほら」
「だなぁ」
「うん、やめておいたほうが無難かな」
【きっ、きさまらぁああ!! 我を誰と心得る!?】
「いや、知らねえし」
「どうしてこの手合いの人種って、自分の存在は誰でも知ってて当然と思い込んでるんでしょうね?」
温和なローランも加わったいつになく辛辣な掛け合いの数々に、瀬名は拍手を贈りたくなる。
この世界にもやっぱりそういう人種がいるんだな、とつい共感してしまった。
「瀬名。要するにコレは誰だ?」
焦れたシェルローヴェンが尋ね、視線が瀬名に集中した。
そうだよ、そうですよ、何者なんだこれ、どこのどいつですか? 異口同音の視線が刺さり、相変わらず視線というものが苦手な瀬名はちょっと逃げたくなった。
が、そうも言っていられまい。
「ナヴィル=ウル=イル=ハーナム。帝国の第二皇子。だった者、と言うべきかな」
◇
声変わり前の子供――少年特有の声が傲慢の塊となって反響し、妖精のごとき愛らしい容姿を台無しにする。
【ふん、そなたは多少ものを知っておるようだな。だが我を呼ぶ時は敬称をつけよ、無礼者めが。――いかにも、我こそがナヴィル=ウル=イル=ハーナムである! 伏して崇めるがよい!】
「うえ……めんどくせーニオイしかしねえ」
「どうなってるんだ? 何故帝国の皇子なんかがここに?」
【『なんか』!? きさまら、先ほどから我に対し生意気が過ぎるぞ!! ここを出ればその口、縫いつけてくれるわ!!】
「救いようのない生意気な馬鹿ですねこいつ。何でさっきから、自分が出られる前提でもの言ってるんでしょうね?」
「ローラン……」
「ローランの言う通りだよ。鞭をくれるとか口縫うとか言われて、誰が助けてあげる気になると思うんだろうね?」
「そもそも状況からして、出すか出さないかっつーと出しちゃいけねえヤツだろこれ」
この最奥の広間に踏み入った瞬間、神々の祝福を浴びているかのような光景に感動しかけただけに、幻滅感が酷い。
皆の軽快なやりとりにもっと聞き惚れていたい瀬名だったが、あいにく時間は有限だった。
「とても残念なお知らせだがね、ナヴィル君。キミはとうの昔に皇子様ではなくなっているんだよ。なんたって帝国では今、二十六歳のナヴィル=ウル=イル=ハーナム君が大活躍してるんだからね」
【何? 妙なことを申すな。我こそが――】
「だからもう違うんだよ。思い出してみてくれないかな? キミ、〝咎の末裔〟って知ってるよね?」
【咎の末裔? ……ああ、あの汚らわしい魔族どもか! そ奴らならば、我が兵にて一掃してやったぞ!】
仲間達の顔色がサ、と変わった。
「一掃、かあ。〈祭壇〉は彼らを敵と見做さなかった。それでも彼らが魔族だと?」
【魔族であろうが! 皆も言うておる! 人の姿形を真似てもぐりこみ、偉大なる神聖帝国の地を穢した者どもだ。一匹残らず狩りたててくれたわ、はははは!】
いかにも神経を逆撫でする甲高い哄笑が響き渡った。
グレンの爪がキラリと光った。セーヴェルの視線からも温かみが消える。
リュシエラ。
今はリュシーと名乗っている彼女の故郷は、とある皇子のお遊びで滅ぼされたという。
【と、そのようなことどうでもよかろう! さっさと我をここから出さぬか!】
「出るのは無理だし、出られたとしてもどうにもならないよ? さっきも言った通り、ナヴィル皇子はもう既にいるんだからね」
【我はここにおると言うていように。気でも違ったか? 多少は頭のマシな輩と思ったが、とんだ過大評価であったな。 おい、そのほうら、こ奴をさっさとどこかへやってしまえ。偉大なる皇帝の御子の前に無様なモノを放置するでないわ】
「清々しいぐらい腐った子だね~。腐ったまんまの状態で十六年もこんなとこにいたんじゃ、再教育はもう無理だなこりゃ。だよねシェルロー?」
「……その通りだな。なまじ、知能だけはそこそこ高いのが災いしたようだ。記憶が明瞭なせいで、却って精神の穢れが魂の隅々まで及んでしまっている」
「記憶が曖昧になってたら、新しい記憶を上書きして矯正っていう手段もなくもなかったからね。おかげで話が単純に済みそうでよかった」
外見だけは十歳程度の、容姿の整った少年。こういう相手は始末が悪い。罪悪感に訴えてこられると、躊躇いが生じてしまいやすいのだ。倒した後も弱い者いじめをしたような嫌な気分が残る。
けれどこれで、皆もしっかり理解してくれただろう。そんなふうに心を砕くほどの価値はないと。
「人族はすぐに見た目に惑わされる。これは手加減をしたら後悔させられるたぐいの、処置しようのない性悪だぞ」
シェルローヴェンは駄目押しまでしてくれた。時々鋭過ぎて困るが、こういう時は阿吽の呼吸で本当に頼りになる。
己の唇に笑みが浮かぶのを感じながら、瀬名は続けた。
「早い話がこの坊や、皇帝やその側近にさえ『こいつヤベえ!?』って危機感抱かれるぐらい、限度を超えてやり過ぎちゃったの。賢くて可愛いだけならよかったのに、残虐性もすくすく育っちゃって、各地でいろいろやらかしてたらしい。今でこそ帝国内では〝人格者の素晴らしい第二皇子〟って評判だけど、幼少期のエピソードを紐解くと、血みどろのえらい話が大量に出てくるんだよ。当時の〝残虐さが気違いじみていた恐ろしいナヴィル殿下〟を知る連中は、皇子様もご成長なさったなぁ、なんて呑気な解釈に落ち着いてるみたいだけどね」
このまま育てば、自らが皇太子になるために、兄である第一皇子を排除しようとするのではないか。
どころか、ほかでもない皇帝に牙をむくかもしれない。誰もがこの坊やの方向性に頭を悩ませ始めた。
けれどある時から、臣民を戦慄させてきた第二皇子殿下の悪さは、ぴったり鳴りを潜めた。
別人のようにまともになったことで、一時、処刑説が流れたこともあったらしい。
「ってこたぁ、帝国にいる第二皇子ってのは?」
「器だけは本物」
【……わけのわからん妄言も、過ぎれば哀れになってくるものだな。のちほど永遠に喋れぬようにしてやろうぞ。静かになれば要らぬ恥もかかずに済もうというもの】
「わお、ブーメラン」
【ぶー……何?】
「何でもないヨ」
どうせ懇切丁寧に意味を教えても聞きはしないので、さくっと次へ行ってしまおう。
堕落した者達は、自分達に都合のいい神をこの地に招き入れた。
魔物ではないそれらを〈祭壇〉の守護結界は拒まなかった。
そのうちの一匹が強い力を持ったのか、最初からそこそこ力の強い個体が召喚されていたかは不明。ここからは日記の記述と状況からの推測が入る。
妖精族が【イグニフェル】の種を持ち込んだ。遊ぶ目的だったとも、力を欲した神官達の要求に応えた結果ともとれる。
この地から正しい加護は既に失われ、案の定、コル・カ・ドゥエルを厄災が蹂躙した。けれどすぐに全滅したわけではなかった。
生き残りは邪神教団のような存在になった。
信仰は細々と続けられた。もはやそれに縋る以外、道はなかったからだ。
そして彼らは再び力を欲した。頭にあるのは輝かしい日々の復活という夢物語。
さまざまな土地、さまざまな国の権力者を美味しそうなエサで勧誘し、かかった獲物が帝国の皇帝だった。
「ナヴィル皇子は生贄に差し出された。妖精族からの要求じゃなく、言い出したのは皇帝のほうからだろう。『人の器の中にいたほうが楽しく遊べる』とでも持ちかけたんじゃない? 皇帝は厄介者を処分しつつ、人ならざる力を己の血筋にとりこめて幸せ。邪神教団もどきは最高権力者の後ろ盾をゲットできて幸せ」
【う……るさい……】
「記憶にあるんじゃないの? 騙されて閉じ込められた、って言ってたろう。あんた、自分の身体を使う許可、軽々しく与えたんじゃない? もっと強くなれるとか何とかそそのかされて……」
【ううぅるさあああいッ!! 黙れ黙れ、この痴れ者がああぁッ!!】
図星を指されたら激昂するの見本である。
しかし、アスファ達を連れて来なくて本当に正解だった。こんなのにリュシーの故郷を滅茶苦茶にされたなんて、いくら彼女が自分の血族を忌み嫌っていたとしても、気分の良いものではなかろう。
ところで、ARK氏は本当にこの展開を読めなかったのだろうか?
――実は、本当にわからなかったらしい。
ARK氏は考えねばならないことが多過ぎるのだ。
考え得るすべての可能性を考慮せねばならないのだから。
まず第一に、ARK・Ⅲの最重要事項は、現在から未来に渡って瀬名の平穏な生活を盤石にすることだ。
現地民との交流を行いつつ、瀬名の防衛についても万全の体制で。
この世界では決して外せない魔素や魔術の研究も行い。
危険種の魔物や薬、毒物、さまざまな鉱物の分析や加工。
世界中の時事情報も常に収集。
天候や竜脈の流れに異常はないかの観測も忘れてはならない。
最近では何故か海の幸の獲得に情熱を燃やしており――これはどうしてなのかよくわからない、まったくもってわからないのだが――是非頑張って恒久的な輸入経路の確保につとめて欲しいものである。
人間なら「テキトーに手ぇ抜いて切り上げちゃいなよ」と言えるところだが、ARK・Ⅲにはそれができない。
なのに、「果たして魔王は普段どこにいるのか? 始めに出現するとすればどこで?」などという荒唐無稽な難問まで振られてしまったのだ。
種族不明、能力不明、生息域不明……不明、不明、不明。人の頭ならパンクするところである。
イルハーナム神聖帝国はわかりやすく怪しい。
かと思いきや実は黒幕はエスタローザ光王国かもしれない。
いやいや、遠すぎて除外されがちな南方諸国かもしれない。
実は有名どころは全部関係なくて、紛れて目立たない小国だったりするのかも。
まさかの島国で人知れず誕生しているとかないよな。
噂にものぼらない無人島とかやめてくれよ……。
情報不足のせいで優先順位もつけられず、すべてを一律に考慮しなくてはいけなかった。
だから瀬名が「ARKさんには敵わないけどさ」と言いつつも、勘でいろいろ口を挟んだのがARK氏には大助かりだったらしい。
瀬名の勘という優先順位をつけられただけで、効率が段違いだったのだとか。お役に立てて何よりである。
瀬名はおもむろに歩き始めた。
どうでもいいことをつらつら考えながらだったので、シェルローヴェンでさえ反応が遅れた。
読めることを逆手に取った彼女のやり方に、彼は大いに歯噛みし、今後、一層油断を排除して死角がなくなってゆくのだが……。
光球の中の子供がわめき、大樹がざわりと呼応し、周辺の草が揺れ、ほかの者達も一瞬反応が遅れてしまった。
明らかに異様な気配を発しはじめた大樹に、瀬名がひとりで向かおうとしている。
「せっ……」
瀬名の足もとから光がたちのぼり、その光が円陣を描くのを見て、シェルローヴェンは目を瞠った。
(――罠か!! こんな場所に……!!)
咄嗟に手を伸ばし――愕然とした。
青年の手は空を切った。
瀬名がス、と身を引いたからだ。
彼の手を避けて。
一瞬だけ振り向いたその顔は……申し訳なさそうな、苦笑い。
口もとが、「この場は任せるわ」と声もなく語り。
彼女の姿は消えた。
「セナ……!?」
「セナ殿!?」
グレン達が駆けつけるも、そこにはもう何もなかった。
転移の魔術式だ。規模が小さく一方通行、あの樹に接近しようとした者を一度飛ばせば、もう使えない。
明らかに罠である。
罠、のはずなのだが。
この成り行きは。
…………。
………………。
(…………瀬名。ここまで来て、わたしを置いて行くか……?)
わかっている。
余裕をもって万全の戦力をと計算した結果なのだろう。
この友人達の帰り道のことを考えても、この場に精霊族は必要だ。
そしておそらく――彼女の向かった先こそが、本当の〝大物〟の居場所なのだ。
(ああ、そうなのだろう。そういうことなのだろうとも。…………だからといって!!)
何も聞いていない。
何故自分にさえ話してくれなかったのだ。
もしや、聞いていれば止めると読んでいたからか。
その通りだ。もしくは無理にでもついて行こうとしただろう。
だから黙っていたのか。
そういうことか。
「おい、あのガキ……」
「禍々しい感じになってきたね。とりあえず僕らは、まずこれを倒せってことかな」
「…………」
友人達がすぐに頭を切り替え、油断なく武器を構える。
雪ダルマもどきの手足から、何やら「うぃーん」「にょいーん」と奇妙な物体が出ていたけれど、とりあえずどうでもいい。
青年を取り巻く空気の密度が、変わった。
◆ ◆ ◆
…………。
………………。
「ふむ。よくぞ来たな。我の前まで辿り着いた者はそなたが初めてだ」
傲慢さの一片もない、万人が心地良さを覚えるであろう青年の声が耳朶を通り過ぎる。
どこかの広くて豪奢な部屋。普段ならば気後れしそうな空間に、しかし瀬名は一切の気が回らなかった。
彼女の頭を占めるのは、つい先ほど、転移術式の罠を踏んだ直後の光景だ。
手を伸ばされ、身を引いた。
巻き込まないように。
こちら側に来るのは自分だけでいい。
「我が名は、ナヴィル=ウル=イル=ハーナム。歓迎しよう、客人よ」
何かノイズが聴こえるけれど、右から左へ通り抜けていった。
瀬名の頭を占めるのは、もっと重要にして差し迫った危機への警鐘である。
それはもう割れる勢いでガンガン鳴り響いていた。
(お……………………怒ってるうううう!! やっぱり怒ってるうううう!! 怒ると思ったけど!! 思ったけど!! やばい、無茶苦茶、激烈モーレツに怒り狂ってるううううッッ!!)
瞬きほどのわずかな時間。驚愕に見開かれた目がすい、と細められて。
視界が別の世界に切り替わる直前の、あの表情を何と言ったら。
有体に言えば怖い。
別の言い方をしても怖い。
角度を変えて眺めてもきっと怖い。
どうしよう、正座と説教のセットだけでは赦してもらえない可能性が出てきた。
むしろ何故そんな甘い見通しを立てた自分と、瀬名は己をののしった。
(速攻でこいつ潰して光の速さで帰ろう!! うんそれしかない!! 何でもなかったよアピールをするんだ!! うんそうしよう!!)
突然の闖入者に人を呼ぶでもなく、紳士的な青年はまだ何かを話しかけてきていたが、瀬名の耳にはやはりまったく届いていなかった。
一刻も早く、危機を脱さねば。
果たして早く帰ったところで怒りは薄まるのか。




