198話 違和感の在処
アスファ君達の登場まで行けませんでした…。
神殿の名に相応しい石造りの建物は、石像や柱、壁などのレリーフが神秘性を醸し出し、失われた時代への想像力を掻き立てる。
長い年月、誰の手も入らぬまま放置され、気まぐれに魔物が徘徊するようにさえなっていなければ。
そんな中、この部屋は常時発動型の浄化の魔道具により、清浄さが未だに保たれているようだった。
(そんなはずない)
おそらく誰かが書斎として使っていた部屋。書棚には貴重な書の一冊ごとに鎖がかけられ、文机にはペン立てと文鎮らしきものがある。
採光用の窓はなく、壁の随所に設置されている陽輝石のみが明かりだ。
書物は丁寧に紐で綴じられた束と、ハードカバーの書物とが大半で、時代は比較的新しそうである。すぐ確認できる資料として一時的に置かれている雰囲気だった。
紙自体が貴重だから、鎖で繋がれている光景は何ら珍しいものではなかった。もっと貴重な、あるいは危険な、関係者以外閲覧禁止の情報が書かれているものならば、それこそ地下金庫やら宝物庫にでもおさめられて然るべきだ。まさしくそれらには宝物に等しい価値があるのだから。
通りすがりに立ち寄れる普通の書斎になど置いたりはしない。
「Beta――あんたが今認識してるこの室内の様子、そのまま映し出してもらえる?」
《アイサー!》
愛嬌のある敬礼とともに、Betaは即座に命令を実行に移した。
記録映像ではない。リアルタイム映像だ。
「は?」
「何だこりゃ?」
変色した木製の家具。
床に散らばる陶器の破片。
文机から倒れ落ちた筆記具。
床のあちこちで撥ねている黒いものは、転がるインク壺から流れ出したものか。
同じ部屋。間取りも、置かれているもろもろの配置も同じ、はず。
なのに自分達の目に映っている清潔で片付いた室内の様子と、Betaの映像に浮かびあがる惨状は完全に別物だった。
シェルローヴェンが不機嫌そうに舌打ちをした。いつも貴公子然としたこの青年には珍しく、苛立ちもあらわな態度で部屋と映像とを見比べ、間違い探しの答えを発見する。
「この魔道具だな。浄化ではない……幻影と認識阻害、精神誘導もか。悪影響や不自然さがなく、神殿全体に満ちている力と違和感がないため気付きにくい。相当に高度な代物だ」
「え!」
「ベータに見えている魔術式と、わたしの見えている魔術式が異なる」
シェルローヴェンは隅に設置された魔道具に近付き、その前に手をかざした。
空気の密度が変わった、そう感じた瞬間、水晶柱のような魔道具の表面にヒビが入る。
ぴしぴし、と氷がきしむのに似た音を立て、水晶柱は細かいヒビで白く濁り、呆気なくぱりん……と砕けた。
「おおっ……な、なんとまー……」
「うわっ……ほ、ほんとに幻だったのか! 全然わからなかった……」
「こうまで見事に騙されると、少しショックですね……」
「いや、シェルロー騙せるぐらいだし、気にしなくていいと思うよ?」
眉根のシワがまだ消えない精霊族の横顔を見やる。
得意分野なのに見抜けず、腹が立っているようだ。
(私もあらかじめ調べてたからおかしいって気付けたんだし。気にしなくていいと思うけどなー)
単純な話だ。タマゴ鳥によって、神殿内部は既に行ける所まで調べ尽くされていた。
その中に、こんな〝綺麗な部屋〟などは存在しなかったのだ。
ずっと昔、ここがまだ廃墟ではなかった頃、この部屋はこれほど目立ちはせず、スルーされていたに違いない。どこへ行っても綺麗清潔な環境だったのだろうから。
Betaやタマゴ鳥はそんなものに惑わされない。色も形状も、実際そこにあるものを捉えている。
逆に言えば、先ほど瀬名達が〝見えていると思っていた〟清涼感あふれる整った室内の様子を、Beta達は〝見ることができない〟という意味にもなる。
瀬名は逡巡ののち、ずっとはめていた手袋を外した。作業をするなら手袋はつけたままのほうがいいけれど、指先の感覚に頼りたければ布を隔てていないほうがいい。
神殿全体の気配に紛れて、巧妙に隠されている。何が通過したかも考えたくない場所で、指先に何の埃汚れかも不明な微粒子がつくのは気分的に嫌なのだが……。
「んー……このへん、かな」
「…………」
「…………」
「ん? 何、どーしたの?」
奇妙な空気が生じていた。何事だ?
「あのー、ちょいと視線がもの凄く気になるんですが?」
「…………」
「…………」
「………………」
「皆様!? 言いたいことがおありなのでしたらスパンと仰ってくださいませんこと!?」
「お、おお、すまん」
「や、ごめん。その……セナの手って、久々に見たかな、と思って……」
「そうだっけ? 買い食いしてる時とか、手袋なんてしない……あれ?」
――言われてみれば、どうだったろう?
……滅多に人前では外していないかもしれない。
屋台のパン料理を食べる時は、包みがあれば手袋はつけたままだ。
手が久しぶりに外気へ晒され、思うさま皮膚呼吸をしている感覚が凄い。
「えーと。食事会の時は、つけてない時もあったような?」
「……瀬名は大抵、黒か焦げ茶の手袋をしているぞ。日常生活でも薄手の手袋をしている。わたしも久々に見た」
「え、そうだっけ」
服や靴と同様、手袋は瀬名のサイズにぴったり合わせたARK製である。薬の材料になるもろもろを採取するのによく土を触り、果物の収穫をしたり、大樹の枝から枝へ飛び移ったり、ゴロツキを倒したり、魔物を倒したり――当初の予定を遥かに逸れたアウトドアな日々、手の保護のために手袋は欠かせなかった。
言われてみれば、入浴時以外は大抵、何かしらの手袋をはめている気がする。
「そいや調合の時も手袋必須だしな。――で、それがどうかしたの?」
「あー、すまん。久しぶりに見るなー、って思っただけだ」
「そうそう。僕は一年か二年ぶりくらいかなって」
「え、そんなにだっけ?」
「そーそー」
「…………」
だから何だと言うのだろうか。
瀬名は訝しく思うも、所詮は手袋の話題だと思い直し、気になっていた書棚に向き直った。
指先が慎重に、触れるか触れないかの距離で書物の上を移動している。
(……爪の形が、違うな)
(筋肉質でしっかりしてるけど、こうして見ると骨格とか関節が……なんか……)
(……肌荒れもなく、傷ひとつない。驚いた。こんなに綺麗な指だったのか……)
令嬢の磨き抜かれた爪や手指とまではいかない。爪は卵形ではなく指の形状に合わせて丸く、つやつや光っているわけでもない。肌は透き通って白いわけでもない。
だが、無意識に想像していたそれよりも、すんなりとしなやかな手の甲から指先までの線に、ハッと視線が奪われていた。
本人の外見や言動ばかりに気を取られ、普段は想像していなかったものがそこにあり、つい動揺してしまったのだ。
(…………)
精霊王子は内心の苛立ちを押し殺した。もう一度舌打ちをしたい気分になっていた。
何故この場で外すんだとつい思ってしまった。何故もなにもない、瀬名の意図はわかっている。鋭敏な手の平の感覚を頼りに、ぼんやりと曖昧な魔力で巧妙に隠れている怪しい箇所を探そうというのだ。
この連中はどこまで行っても果てしなく純然たる友人であり、決してそこから外れることはない。苛立たねばならない要素など皆無である。むしろ晒したのが彼らの前で、まだマシだった。
マシではなさそうな顔を幾人か思い浮かべ、それが複数名存在する事実に、腹の中を何かがぞろりと這って歯噛みしそうになる。
まさかこんなところで、彼女が他者の目を惹きつけるとは思わなかった――。
◇
「シェルロー。ちょっとここ、見てくれる?」
「わかった。……これか?」
「そう。この机の陰の……そう、この壁の部分。開けられる?」
タマゴ鳥やBetaのスキャンでさえ確認できなかった場所だ。
正確には、中にどんな形状のものが入っているかはわかったのだが、今にして思えば読み取れる情報が不自然なほど何もなかった。
引き出し部分には魔術式で鍵がかけられているのに。――タマゴ鳥やBetaの弱点だ。彼らは魔道具ではなく、魔力による妨害に影響されない代わりに、魔力で動く仕掛けを動かすことができない。
「目にした者の意識に働きかけ、文字を認識させる魔術式だな」
「さっきの魔道具と近いやつかな。何とかなりそう?」
「問題ない」