195話 背筋の寒くなる光景
これがホラーであったなら、誰かが早々に単独行動を取って行方不明になったり、よせばいいのに少人数のグループ分けをして別行動を始め、モンスターだかゴーストだかに各個撃破されてしまうものだが。
誰ひとりそんなお約束を踏むことはなく、月も星もない闇夜に呑まれて消えた者はいなかった。
心身ともに鍛えている連中が、一日~二日程度で浮き足立つわけもない。ホラー向きのロケーション、細い道で一列になって進んでいたら狙い澄ましたように何かが起こるのでは……と心配させておきながら、何もなかった。
罠も設置されておらず、仕掛け人がいなければ、少し陰鬱で不気味なだけの、ただの道だ。
本番は到着してからである。
「侵入する側として何事もないのはありがたいけどさ。隠し通路としちゃあ不用心だよねこれって」
「そうだね。ここに来るまで結界のひとつもなかったし。よっぽど見つからない自信でもあったのかな?」
自宅の緊急脱出路には、追っ手や侵入者防止用の罠や術式などを設置している辺境伯家のライナスが同意した。
実際、精霊族にさえこの地に繋がる出入口の存在を気取らせていなかった。自信はあったのだろう。
「つまるところ僕らが一番気をつけなきゃいけないのは、この足もとの狭さだけか」
「それも大丈夫、シェルローいるから」
「え?」
「この場で誰が転ぼうと、わたしが足場を用意する。案じる必要はない」
「えええ?」
「落ちそうになったら氷の魔術なり土の魔術なりで、即席の地面つくってもらえばいい話だから。こっちに来るまで何が一番心配だったかって、シェルローの魔術封じられる環境になってたら超めんどーだなー、ってことだったんだよね。いつも通り使えるみたいだし、これで全問題は解決だぁね」
「ええええ~? ……セナぁ、それ、先に言っておいてくれないかな?」
「あきらめようぜ坊ちゃん、セナは最初っからこーゆー奴だぜ。谷底のシミになる不安がこれで完全に解消されたっつーことで感謝しとこうや」
そもそも瀬名は本当に無理であれば相手に押し付けたりはしないし、彼らを生還させるために出し惜しみの精神を打ち捨てている。
辺境伯の跡取り息子であるライナスも連れてくると決めた時点で、万一の落下時の対策はしてあるんだろうなとグレンなどは最初から思っていた。
「ま、いくら大丈夫だからって、落ちねえに越したこたぁねえよ。氷だってぶつかったら痛ぇのは岩と変わんねえぜ?」
「……そうだね」
ライナスも文句を言いつつ、本気で不愉快になっていたわけではない。
「そうならないよう注意するつもりだけど、もしそうなったらよろしく頼むよ、シェルロー殿」
「ああ」
早朝から歩き続け、昼頃。連なる針山のごとき稜線とは異なる陰影がちらつき始め、徐々にその輪郭は濃くなってゆく。
目隠しがひとつ、またひとつ減るごとに、その建築物は荘厳な姿の一角を現わしていった。
《フ~ンフフ~♪》
「ごめんBeta君、ちょっぴり静かにしといてくれるかな?」
《オット、こいつぁ失礼しやシタ》
雪ダルマもどきが額と思しき部分をぺちりと叩いて静かになり、全員が無言になった。
(よくもまあ、こんな場所にこんなもん建設できたよねー……)
世界遺産があれば登録されること間違いなしの絶景であった。
普通の巡礼であれば、まずは街道を通り、壁門を抜け、市街で宿をとり、それから神殿へ――というのが通常のルートだろう。大きな神殿はだいたい表、中、奥と分かれており、一般人が目にできるのは正面玄関までだ。
総本山と呼ばれるだけはあり、コル・カ・ドゥエルは他の国々の大神殿とも規模が違う。鎖国になる前の記録をかき集めてみれば、裾野にある都がほぼまるごと外神殿のようなもので、最低でも神官見習いの資格を得なければ住民として認められない、とあった。
難を言えば、暗黙の人族至上主義社会であった様子が随所に窺える。神々の不興を買わぬようにか、堂々と虐げたりはしないものの、神職者に他種族はひとりもいない。種族によっては部族ごとにシャーマンが存在するところもあるけれど、彼らは聖霊も信仰の対象に含めているので、正式な神職者とは認められなかった。
これは光王国の神殿もそうだ。人族以外で神聖魔術を扱えた者の前例はないらしい。
(半獣族とか鉱山族については性格の違いって言い訳が通るんだけどね。清廉な神官になるための厳しい修行とか、あいつら向いてないし)
同じだけの魔力を使うなら、魔術士になるほうが楽だ。そういう楽な方向へ流れる連中は、暴力へ直結する連中が多いのも確かで、神職者達は魔術士があまり好きではない。
大元締めのコル・カ・ドゥエルはその傾向が顕著だったようだ。聖霊などという怪しげな存在の力を借りる魔術士を排斥し、神職者以外の外国人をすべて門前払いにし始めたのが数百年前。
少なくともそこまでは健在だった。
滅びたのはいつ頃?
他の国々の神殿に、大ボスからの言葉が完全に下りて来なくなったのはいつ頃からだった?
実はそれがはっきりとしない。
――コル・カ・ドゥエルにも〈祭壇〉があったはずなのだ。魔物を防ぎ、人々を守る、それが消滅したにもかかわらず、他の神殿の誰も気付けなかった、なんてことがあるのだろうか?
イシドールの大神殿からドーミアへ移ってきた神官達も、薄々「まさか…?」と疑惑が生じている程度で、確信に至る者はいなかった。
「あの……向こうの空、なんだかおかしくありませんか?」
ローランがぽつりと尋ねた。
「そうか? よくわかんねえな」
「もしかして、そろそろ降ってくるかな?」
「いえ、そういうのとも違う気が……申し訳ありません、余計なことでした」
「いや、遠慮しなくていい。むしろ少しでも気がかりがあれば言ってくれ。セーヴェルもだよ」
「はっ」
「かしこまりました」
さらに黙々と進み、谷の幅が近くなってきたあたりで橋に差しかかった。
橋は断面が凹形になっており、道はその橋に沿って伸びている。
「これは、水道橋、かな? 水はないけど」
「そのようだな」
かつては地下水が流れ出していたであろう、小さな洞窟の奥を覗き込む。
地中まで落ちていきそうな深い暗闇にぞっとして、瀬名は「さっさとあっちに渡ろう」と一行を急かした。
いつ崩落するかもわからない狭くて息苦しい洞窟は、大の苦手なのだった。
◇
あちら側との距離がだいぶ近いとはいえ、それでも結構な長さだ。つくづく、こんな高所によくこんなものを造れたものだと感心させられる。
水道橋は真っすぐ神殿の建物に繋がり、綺麗な正方形のトンネルが山の反対側まで貫いていた。
扉も罠もなく、奥はかすかに明るい。
「さて、もう目的地へ到着しました。ひとまず皆さん、お疲れ様」
「あんまり疲れてないけどね」
「ひとまず、ここまではな」
人の気配が皆無の建物は、まるで数千年前に見放された遺跡の様相を呈していた。
この建物の内部がどうなっているかは、既に全メンバーに共有済みである。
正式名称は不明なので、コル・カ・ドゥエル中枢の神殿を仮に最高神殿と呼ぶことにした。
最高神殿は大雑把に、都に面した表向きの区画から、選ばれしごく一部しか立ち入れない最奥区画に分けられている。
役割ごとにそれぞれの建物は独立しており、通路や橋で繋がっているけれど、この最奥区画は険しい山中の深い場所にあり、主神殿からさらに数日かかる距離にあった。
修行の意味合いもあるのか、神秘性を高めるためか、ほとんど秘境である。
都から見上げる民の目線で確認できる姿は表側だけで、建物の裏側はもう山になり、一般人は存在すら知らなかったのではないだろうか。
真四角のトンネルは充分な広さがあり、おのおのが軽口を叩きつつも警戒は解かず、慎重に進んでいった。
行き止まりに見える奥には階段があり、上方から差す光のおかげで暗さは感じない。水路は建物の中で分岐し、いくつかは地下へ潜っていた。
なんとなく沈黙が降り、階段をのぼる。扉はなく、そこはもう外だ。事前に共有していた図面から察するに、広い空中庭園になっているはずだった。
「――うっ!?」
「おわっ!?」
「なっ、なんだあれは!?」
瀬名以外の全員がぎょっとして立ち止まった。
はじめにローランが訴えた、空の違和感の正体――。
実はほかにも同様の違和感を覚えた者もいたが、岩山が邪魔をし、この瞬間まではっきりとはわからなかったのだ。
「そ、空に、花……?」
「でけえ……」
「セナ殿、あれはいったい、何なのですか?」
雲の上に、花畑が広がっている。
それだけを言ったらなんのポエムかと思うところだ。
あいにくそんなポワポワと可愛らしい光景ではない。
天高くから地に向けて、色とりどりの花がさかさまに咲いていた。
そして一輪一輪が、おそろしく巨大なのである。
気持ちを和ませるどころか、悪寒をもよおす光景でしかなかった。
「――瀬名。もしやあの花、【イグニフェル】か?」
「さすがシェルロー、大正解」
「えええっ!?」
「なっ、なんだとぉッ!?」
「そ、そんなものが何故あんな!?」
妖花【イグニフェル】。幼体でも数メートル級だったそれの〝成体〟が、遥か彼方の雲の下に無数に垂れ咲いている。
自分は気付かぬうちに地獄界の門をくぐり抜けたのか? 肝の太い面々が蒼白になっていた。
無理もない。
「あれはね、空に咲いてるんじゃないよ。地上の光景が雲に映ってるの。鏡みたいにね」
「鏡……?」
「雲に映る? そのようなことがあるのか?」
「うんまあ、あの通り。近くに見えるけど、あれはちょうど都の上空にあるから、ここからだと結構遠い。気味悪いだけで、このあたりまでは影響ないし、その点はあんまり心配しなくていいよ」
心配しなくていいと言われても――。
そんな視線が集中し、やや身じろぎをしつつ瀬名は続けた。
「生き物って、自分が棲みやすいように周りの環境を整えたりするでしょ? 【イグニフェル】もそうしてるんだよ。あの雲、実はまともな雨雲じゃなくて、太陽光を完全に遮ってるんだ。このへんは雲が薄くて、単なる薄曇りの天候と変わらないけど」
「あれは太陽光を嫌うのか?」
「いや、好きでも嫌いでもない。雲のせいで結果的に光が遮られてるだけ。あいつが嫌いなのは冷気。雪や氷に弱い」
「……そうだったな」
「逆に好きなのは、高濃度の魔素……魔力と、水と熱。湿気が多くてじめじめしてて、あたたかい所を好む。自分達の棲み処を〝温室〟に変えるんだ。周辺から水と地熱を吸収し、余所に逃がさないようにする。気温と湿度を保つために風も吹かせない。だから【イグニフェル】から離れると寒くなって、砂漠地方じゃないのに土地は乾く。――多分コル・カ・ドゥエルは、あの花が全土に繁殖して壊滅した」
「――――」
あまりのことに誰もが絶句し、青ざめたまま声を発せなくなっていた。
「それからこの国の地下には、月輝石が大量に含まれてる」
陽輝石と違い、息を吹きかけずとも常に青白い燐光を放つ石だ。都の地下にもたくさんあり、それが発芽の衝撃で地中からえぐり出されたり、根に掘り返されたりして、むき出しになった。
だから完全な暗闇にはならず、そんな地上の有様が、都の上空をぶ厚く覆う雲に映っている。
「あれがそこそこ高い位置に浮かんでて、この庭園の標高がそこまで高くなかったのが不幸中の幸いだよ。普通の雲なら、内部に入るとただの霧、細かい水分でしかないけどね……あれはヤバイ。奴の分泌したホニャララも一緒にたっぷり浮かんでる超危険ブツだ。間違って突っ込んだら、正気が旅に出たきり戻らなくなるだろうな」
「…………」
「――…………」
ホニャララな成分は一種類だけではない。それを身体に取り込んだ際の、具体的な効能その他の説明は避けたほうがいいだろう。
そんなものまで説明したら皆の食欲が旅立ち、恨まれてしまいそうだった。
グレン氏「しっかし、なんだってこんな暮らし辛ぇ辺鄙な場所に建物なんぞつくるんかね?」
シェルロー氏「あの不気味な花畑がないと仮定して、わたしなら秘境の温泉付き別荘にするが、そうでなくば理解できんな」
瀬名「こ、この私と発想が同じ、だと……!?」
他一同「…………」