191話 空から来た魔女 (後)
前後のつもりが気付けば3話に変身する現象は回避しました(ホッ…)
後編です。
扉の向こうには森があった。
振り返れば壁はなく、濃厚な緑の中に扉だけが悠然と立っている。
【こちらです。ついていらっしゃい】
優雅に裾を翻し、ラヴィーシュカが歩き始めた。
そよ風にゆらめく葉が足もとに様々な影と光を落とす。
ずっと地下へ潜ってきたはずなのに、広大な明るい森の中にいる不思議。
(どこの森に転移したんだろう?)
その森には何のさえずりも生き物の気配もなかった。穏やかで美しく、不快感の欠片も覚えないけれど、普通の森ではなかった。
(そうか。ここは、やはり大地のずっと下にあるのだ)
どこか遠くに隔離された、地下深くの世界。
兄弟達は神話を思い起こす。この世界が滅びに瀕した時、神々が地下へ逃れ、滅びの嵐をやり過ごしたという神話だ。
閉ざされた世界であることを思い出さぬよう、常に快適に過ごせるよう、まるでごく自然な森であるかのようにつくりあげたのか。
立派な根を張る大樹達には充分な間隔があり、それぞれが枝葉を天いっぱいに広げても、明るい光は草花に満遍なく降りそそがれている。
これは何の光なのだろう。陽の光にしか見えないけれど。
【行きたい場所を頭の中に浮かべていれば、目的の場所に自然と導かれるのです。行き先を特に決めずにそぞろ歩いていれば、代々の王族達がこの森に大切に仕舞った〝宝物〟の数々に出会うことができるのですよ】
大切な誰かに贈られた衣類が樹々へかけられていたり。
枝や切り株の上に首飾りや耳飾りなどの装飾品を、店のように並べていたり。
幼い頃、一生懸命につくった木彫りの人形であったり。
それぞれの〝物語〟が遊び心や切ない思い出、心温まる出来事を想起させるように、気に入った場所へ置かれている。
【すべてが落ち着けば、またゆっくりそぞろ歩きに来るといいでしょう。これ以降、あなた方にも自由に入っていい許可を与えます。わたくしとオルフェレウス、ハスイールも、あなた方ぐらいの年頃で初めてここに入ったのですよ】
【父上達も……】
【ええ。――残念ながら今回は寄り道をしている暇はありません。古い時代に遡るほど、遠く時間がかかるのです。あなた方に見せたい場所は、およそ一万年前に置かれた〝宝物〟なのですから】
【一万年……】
それは長命種の彼らからしても、途方もない遠い時代だ。
【その頃、〝星予見の姫〟と呼ばれていた少女がいました。この話は知っていますね?】
【はい……ただ、書物で少しだけです】
【ちらりと書かれていたのを目にしたのみですので、詳しいとは言えませんが】
【そうでしょう。これは代々、この場所に案内して初めて受け継がれる話です。――星予見の姫は、我々の中でごくまれに、数百年にひとりいるかいないかの確率で生まれる〝虚弱体質の短命の子〟だったといいます】
通常は五百年ほど、長ければ七百年生きた者もいる精霊族であったが、その子らはわずか十年も生きられない。
星予見の血筋に生まれ、姫と呼ばれたその少女もまた、幼くして土に還った。
姫の両親は、ほんの瞬きほどの間でいなくなってしまう我が子を心から可愛がった。
健やかな愛情に包まれ、愛らしくほがらかに育った娘は、自分が大切にされている幸せな子だと理解していたらしい。
身体が弱くいつも横になっている娘は、いつも両親に物語をねだった。そしてお返しに、自分が寝ている間に見たたくさんの夢を教えてあげた。七つに満たない年齢で息を引き取るまでそれは続いた。
両親は大切な我が子の思い出に、その子の物語を毎日記した。
そのうちのいくつかは挿絵も描かれている。
娘が「こんなふうで、こんな色で」と描いたつたない見本をもとに、とりわけ印象的な場面は絵師に壁画を描かせたりもした。特に子煩悩な父親が張り切っていたようだ。
娘に見せて喜ばせたいと思ったらしく、もちろん娘は素敵で立派な絵に大喜びだったらしい。
森の深くにその物語と壁画は大切に仕舞われた。
悲しい思い出ではなく、可愛らしい娘との素晴らしい思い出として、ひそやかに。
代々の王族は森を散策し、幼子の夢がもとになっているという絵や物語に出会い、ある者はさして興味を抱かず、ある者は微笑ましげに目を細めてきたという。
ところが。
いつ頃からか、その〝宝物〟がじわりと存在感を増してきた。
最初に気付いたのは、後世の星予見の一族の者だった。
あらゆるものを見通し、誰よりも早く危険を察知し、同胞達を良き流れへ導く星予見の血。
その姫は身体が弱過ぎるせいか、さしたる魔力が備わっていなかったらしい。だから星予見としての力はほとんどないと思われ、実際に能力を示したことは一度もないとされてきていた。
――違ったのではないか?
――逆なのではないか。
器が耐え切れぬほどの能力を持って生まれたがために、魔力と生命力が常に枯渇状態となり、わずか十年未満で儚くなってしまうのではないか?
少女が見ていた夢は、本当は――。
◇
端の少し崩れた壁画が目の前に現われた瞬間、兄弟達は知らず息を止め、立ちすくんだ。
もとが幼女の下描きだっただけはあり、子供にもわかりやく、あえて幼い雰囲気で描かれている。
この空間は内部のものが劣化しにくくなっているようだ。が、さすがに一万年前だ。色合いはぼんやりしており、これほどの時を経る前は、もっと鮮明であったろうと窺える。
けれど、そこに描かれているものは充分過ぎるぐらいにはっきりと判別できた。
深い深い森の中。
赤い実のなる樹の傍に、黒髪の人物が立っている。
髪は短く、纏う衣装も全体的に黒い。
年若い少年のようにも、年を重ねた賢者のようにもとれた。
樹はその人物の背丈ほど。ウェルランディアにこのぐらいの大きさの赤い実をつける樹はなかった。
黒髪の人物の足もとに、とても小さな子供達が――三名。
どれも似通った淡い色合いと同じぐらいの大きさの子供達で、顔立ちは定かではない。
【オルフェレウスと、その子の話になったの】
子供達の中で、その子はひとりだけ赤い実を腕に抱えていた。小さな子の手には、たったひとつでも大きな実。
ほかの二人の子はたくさんなっている実を夢中で見上げていたけれど、その子だけは黒髪の人物の顔をじっと見上げている。
黒髪の人物は注がれる視線に気付かないのか、樹の一番高いところの実に目をやっていた――いや、よくよく見れば、角度がずれているようだ。
もっと上。もっと遠くに心を向けている。
どこに?
【彼は言ったわ。この赤い実を抱きしめた子の髪は、わたくしの髪に似ていると。それにわたくしはこう返した。――けれどこの子の瞳の色は、あなたの瞳にとても……】
それ以上は言えなかった。夫婦はなんとなく沈黙し、まさか、と思った。
やがて何十年も経ち、それが杞憂だと判明した。母に似た髪と父に似た双眸を持つ子は立派な青年になっていたからだ。
ハスイールに似た顔立ちの二人目、母に似た顔立ちの三人目と生まれ、その子達もあっという間に大きくなった。
この子達ではない。違うはずだ。
けれどその符合は無視できず、何故か予感は日に日に強くなっていった。
【大部分は娘の下描きをもとに、絵師が丁寧に描き直している。けれど一ヶ所だけ、気を利かせて〝余分〟に加えた部分があって、そこだけ娘は文句をつけた】
――ちがうのよ。そのみみはそうじゃないの。
下描きのほうが正しいのだと。絵師は首をかしげつつ、言われた通りに修正したという。
◇
器が耐え切れぬほどの能力。
伝承の神域に住まう者達さえ、その能力を有する者がいるかは不明だ。いくら精霊族が高位種族であろうと、生身の肉体を持ち、この地に足を付ける生き物の身には余る能力でしかなかった。
ただしこれは憶測でしかない。その能力の実在を証明できた者はいない――その子達は滅多に生まれず、生まれてもすぐにいなくなってしまうのだから。
まだ人族と交流を保っていた時代、星予見の姫の〝物語〟を彼らに聞かせてやった者がいた。
その物語は徐々に人族の間に広まり、彼らが代を重ねるごとに、どこかのおとぎ話として子や孫に伝わっていった。
伝わる過程でその土地に合わせ、微妙に中身が変化したりもした。中には完全な創作もある。
けれど基本、偏屈で変わり者の魔女が主役の物語は、一癖も二癖もある一部地域や人種の中で根強い人気を誇り、それが現代におけるデマルシェリエ地方の人々であり、灰狼の部族であった。
ラヴィーシュカはこの物語と人族の現状、双方の共通点をできるだけ詳しく知りたかった。
既にいくつもの類似点が結び付けられており、壁画の森と思わしき場所も見つけていた。
そしてラグレインを呼んだ。
辺境に馴染み、偏屈魔女の物語に魅せられた変わり者の研究家ラグレイン。彼は長年追い求め続けた真実を前に呆然とし、やがて徐々に思考が巡るようになってからは感激したようだった。
けれど、最期までそれが続いたどうかはわからない。
望みが叶い、後になって無気力に襲われたか。それとも穏やかな満足とともにこの世を去ったのだろうか。
【……母上。もしや、兄上は既にここへ来たことがあるのだろうか?】
【ええ。あなた方と同じぐらいの年の頃に】
【やはり】
【なるほど。……シェルロー兄様が瀬名にしてた質問、そういう含みがあったんですね】
【?】
首をかしげたラヴィーシュカに、エセルディウスとノクティスウェルは唇に笑みを乗せた。
◇
三兄弟が瀬名と再会して、まだそれほど経っていない日のことだった。
「何が起こるかわからないものだな」としみじみ言ったシェルローヴェンに、瀬名が「そりゃこっちの台詞だ!」と噛みついた。
「私の悠々自適な平和的未来予想図を返せ……!!」
「すまんが予想図を修正してくれ。もし仮に、未来を知り得る予言書が存在するとすれば欲しかったか?」
「いや、全然。いらない」
瀬名は一切の逡巡もなくすぱりと返した。
「いらないのか?」
「いりませんよそんな危ないの」
「危ない? 予言書があればどのような危険も避けられ、この世のすべてを知り得ると、欲しがる者は多いと聞くが」
「じゃあ、あんたはそれが欲しいって思うわけ?」
「……いや。思わんな」
「自分がたいして欲しくもないのに、私が『いらん』て言ったところで不思議がることないでしょーが。それに星予見? ていう凄腕の占者の血族が大勢いて、実際あんたらもそんなに困ってないんでしょ」
「……まあ、そうだが。書かれているものが予測ではなく予知だとしても?」
「いらないって」
瀬名はどこまでも興味なさげだった。
「参考までに、不要と断じる理由を訊いても?」
「いいけど。――まず第三に、そんなもん持ってたら、それこそ『この世のすべてを我が物に!』つー連中からしつこく延々これでもかと熱烈に鼻息荒く追い回される。危ないし鬱陶しいし面倒くさいし気色悪い、そんなんとひたすら付き合いたくない」
「なるほど……」
「で、第二に。――予測じゃなく予知ってことは、そんだけ的中率が高い。つまりこれから危険なことが起こるってせっかくわかっても、高確率で避けられないってことでしょ。誰でもいくらでも変えられるようじゃ予知にならない。かといって、読む者が勝手に誤解して回避できなくなる曖昧な書き方されてたら、それこそそんなもん手にすることに何の意義があるわけ。うっかり不幸な未来を知っちゃって、それを避けようとひたすら頑張ったものの結局予言書通りになるとか、努力で何とかなる余地が微塵もないやつとか超腹立つじゃん? 何コレむかつく! てならない?」
「……そうだな」
「で、第一に。――幸せな未来が予言書に書かれてて。その通りにしたら書かれてる通り幸せになって。それ、幸せなわけ? 幸も不幸も完全に決まってんの?」
「…………」
「とゆーわけでいりません」
そんなものを覗いたら、幸も不幸も、運命だか何だかが勝手に決めた筋書きを、いつだって意識せずにはいられなくなるだろう。
思考するたび、行動するたび、眠りにつく時さえも。
「私ゃそんなつまらない、気分的に疲れるばっかりの人生なんてごめんですよ。やる気失せるわ」
「そうだな」
シェルローヴェンは屈託なく笑った。
弟達も何とはなしに聞きながら、笑みを浮かべた。
◇
【凄く自然な流れだったし、全然疑問に思いませんでしたよ】
【本当にな】
息子達が苦笑し合う前で、ラヴィーシュカは呆気に取られていた。
彼らはもっと衝撃を受けるかと思っていたのだ。
いや、衝撃は受けたに違いない。けれど、すぐに立ち直った。母の予想より遥かに気楽な様子で。
エセルディウスとノクティスウェルは、周りの切り株に並べられているいかにも歴史を感じる書や、周辺の壁画の古代語に軽く目をやった。
【要するに母上。あれらはすべて、かのおとぎ話の祖先――原本、なのですね】
【……そうですよ、エセルディウス】
【デマルシェリエに伝わっているのは、後世で人族によっていくらか脚色されたものや、完全な創作もある。彼らのおとぎ話にはたくさんの魔女が出てきますが……本当は、〝ここ〟にいる、たったひとりだった】
【……ええ、ノクティスウェル。その通りです】
兄弟達はよく似た表情で笑った。驚きを通り越して笑うしかなかったのかもしれないが、それにしては晴れやかな心持ちだった。
【それにしても気に入らんな。あの絵、まるでわたしとノクトが食い物にしか興味のない呑気なお子様にしか見えんではないか。母上、このむかつく壁画、描き直していいですか?】
【あ、わたしも腹立ちますね。なんかこれでは、わたし達が瀬名を全然気にしてないみたいな構図じゃないですか! 兄上しか気遣ってないとでも言いたげなこの構図に物申したいです!】
【まったくだ。兄上ばっかりずるいぞ。そっとしておこうと思ってたが、やはり帰ったら揶揄ってやろう】
【わたしも一口乗らせてください】
【あなた方……大人げないですよ】
ラヴィーシュカは呆れつつ、自分を棚に上げて【およしなさいな】とたしなめた。
同時に、ほっと肩の力を抜く。ことがことなので、ひそかに少々、緊張感を覚えていたのだが。
【ふふふ……わたくし、気にし過ぎ、だったかしら?】
【そうとも言えますし、そうでもないとも言えますが。驚いてはいますよ、これでも。ただ、我々は瀬名の味方なんです。彼女が何者であったとしても結論は変わらない。兄上もノクトも】
【ですね。はっきり言えることは、こういうのがあるって瀬名には言わないほうがいいってことぐらいでしょうか。あの様子だと嫌がりそう】
【だな。彼女が何者でどこから来たのか、気にはなるが。謎は謎、不思議なままで別に構わないとわたしは思う。デマルシェリエの連中も、多分そうだな】
【わたしもです。軽く尋ねてよさそうなものではないと思いますし、彼女には訊けませんけれど。本当、瀬名ってどこから来たんでしょうね?】
【そうね。……星予見の姫は、こんなふうに言っていたらしいけれど】
――このくろいかみのひとはね、まじょなのよ。
――とってもとってもとおい、おそらからきたの。