189話 叡智の森へ
いつも来てくださる方、初めて来てくださった方、ありがとうございます。
前回の話数、9が8に見えて間違ってたので直しました(汗
ウォルドやアスファ達を南へ送り届け、その足でエセルディウスとノクティスウェルは故郷ウェルランディアへと向かっていた。
夜光花がぼんやり照らす幻惑的な光景は、いつ訪れても兄弟達の胸に懐かしさをもたらす。
ひとこともなく、心地良い静けさに浸りながら並んで歩いた。
この花は通常、叡智の森ウェルランディアとその周辺にしか咲かない。水が合わないのか土が気に入らないのか、余所では蕾をつけないどころか、芽吹きすらせず沈黙したままで、酷い時には枯れてしまう。
ところが最近、例外を発見した。〈黎明の森〉だ。
長兄シェルローヴェンが何を思ったか球根をいくつもあの〈森〉に持ち込み、〈聖域の郷〉の周辺に植えてみたら見事に根付いた。
あの〈森〉は長く生きている彼らでさえ驚くほど、多種多様な植物群や鉱物などの宝庫だった。
繊細で気難しい花は今、本来の棲み処であるウェルランディア以上に張りのある葉を茂らせ、清浄にして艶やかな花弁であちこちを飾っている。
あの〈森〉のすべてが生き生きと、まるで〈森〉の主を歓迎するかのように。
(歓迎……)
ぽっと頭に浮かんだ単語に、ノクティスウェルは首を傾げそうになった。
頭の中で無意識に選んだ言葉が、何故か存在感をもっていつまでも脳裏に残った。
【何か気がかりでもあるのか?】
次兄が尋ねた。善意を押し付けるでもなく、彼はいつも親しい誰かが悩んだり困惑したりしていると、ごくさりげなくその原因を尋ねてくる。
そして相手が「なんでもない」と答えれば、変に食い下がらずあっさり退くのだ。
だから却って、どんなつまらないことでも話しやすい雰囲気がエセルディウスにはある。
【気がかりというほどでもないんですが。なんだかすっかり、彼女はずっと昔からあの〈森〉にいたような気がしていたけれど、実際は違ったんだと思い出しまして】
【そうだったな】
瀬名は〝余所からあの〈森〉に越してきた〟のだった。
あまりに馴染み過ぎてすっかり忘れていた。言われて初めて「あっ…」となる者はほかにも多いのではないか。
そういえばそうだった、と。
(瀬名は、どこから来たんだろう?)
彼らの誰にも理解できない言葉を発し、見たこともない難解な文字を書いたあの日のことを、兄弟達は忘れたわけではない。
けれどその秘密を暴こうとすれば、きっと瀬名はどこかに姿をくらましてしまうだろう。
自分達への失望と、悲しみと――そしてきっと誰も知らない、彼女だけの孤独を抱えて。
多少なら構いはしない、きっと許してくれるだろう。そんなふうに、親しさを盾にした気軽で無遠慮な傷付け方などは絶対にするまいと、兄弟達はあの頃からずっと心に決め、他の者に対してもその誓いを破る真似は断じて許さなかった。
【兄上は、どうなさるおつもりなんでしょうね?】
【どうなさるか、というか、実際のところ〝どう〟なんだろうな?】
的確な疑問が返り、末弟はつい微笑む。
アスファ達が後退って逃亡を図りそうな微笑みだった。
三兄弟は三人とも、瀬名という人物が大好きだった。
これは特殊な状況で拾われ、一時的に世話をされて〝育ててもらった〟経験が大きい、その自覚はある。
かつて彼らの父オルフェレウスが辺境伯へ語ったように、他人からすればわずか数ヶ月間ではあったものの、当時数年しか生きた記憶のない幼児そのものだった彼らにとって、それは人生の大部分を占める出来事だった。
あの一件で、瀬名は彼らの命の恩人であり、年の離れた姉もしくは育ての親という錯覚がしっかり刷り込まれてしまったのである。
漫然と日々を消費したのではなく、驚きと楽しさに満ち溢れた日々を送らせてもらい、子供達の心がガッチリ掴まれてしまったのも大きいだろう。
さらに再会した彼女はあらゆる意味で刺激的で面白く、他に類のない存在で、多少の美化を含まれた記憶さえあっさり凌駕する人物だった。
そんなわけで、兄弟達はさらに瀬名に懐いた。
(ただ――どうも、兄上の様子が少し、わたしやエセル兄様と違っているんですよね……)
彼らはとても気の合う兄弟だった。外見や性格はそれぞれ違えど、根底が似通っており、何かに対して抱く印象や感情がだいたい共通しているのだ。
ところが瀬名に関してだけ、ズレが生じていた。
長兄シェルローヴェンの、彼女への態度、咄嗟に抱く感情。
どこがどう、と具体的に説明ができるほど明確なものではない。
不確かで曖昧で掴みどころのないもの。
シェルローヴェン自身が、その正体不明の何かにわずかな困惑を覚えており、それが弟達にも伝わっていた。
無邪気に瀬名を慕うエセルディウスとノクティスウェル、この二人の基本姿勢は最初から何ら変わっていない。
けれど、いつからかどこかで、長兄ひとりにだけ生じていた、なんとも説明し難いズレ。
【……兄上は、〝兄上〟だから、ではないか?】
すとんと呟かれたエセルディウスの推理に、ノクティスウェルは「ああそうか」と頷いた。
弟二人の年齢は、ほんの五歳しか離れていない。年の近い二人には、一緒に遊べる同年代の友人に近い感覚がある。
そして彼らが正しく子供だった頃、長兄シェルローヴェンは既に百歳を超えており、立派な自慢の兄であると同時に、遥か年上の大人だったのだ。
長兄からしても、遥か年下の弟達については、はっきり言って父親と変わらない心境だったろう。精霊族の兄弟間では、こういうことは珍しくもない。
弟達にとって、長兄は誰よりも優れた、頼れる兄だった。
つまりシェルローヴェンにとっては、自分こそが導く存在であり、か弱い者を守る存在であり――それがもう何十年も続いて当たり前になっていた。
そこへきて、導かれ守られる、か弱い存在になったあの経験は、それに慣れている弟達より、ずっと強烈で衝撃的な出来事だったのではないか。
【……どうなんでしょうね?】
【……どうなんだろうな。どちらにせよ、我々が兄上の味方なのは変わらんが】
【ですね】
瀬名は大好きだ。
長兄も大好きだ。
だからもし〝そう〟であったとすれば、エセルディウスとノクティスウェルはシェルローヴェンの味方をするのである。
なんでそうなるんだ!! と、件の魔女が叫びそうな内容であったが、二人にとっては至極当然の結論なのだった。