187話 いつかの約束
初めから自分は何ひとつ持ってはいない――あきらめれば、それは心穏やかで平坦な道。
自分はとても貴重で得難いものを持っている――希望を欲すれば、それは険しい荊の道。
平坦な道を歩きたいと公言しながら、常に足元に荊の存在を感じ続けてきた。
政略の道具として育てられたにもかかわらず、よくもまあ無鉄砲に育ったものだと我ながら呆れなくもない。賢く立ち回るべく貪欲に知恵をつける娘が多いお国柄だったとはいえ、他家の姫君はもう少し、私と比べれば多少は大人しかったろう――少なくとも、表面上は。
でもその飾らない無鉄砲さが、紙一重で自身を助けてきたのも事実。日頃からことさらに己を隠す者は、なりふり構ってはいけない危急の時でさえ、つい足を止めてずり落ちかけた化けの皮を被り直さずにいられないのだから。
かつて「王女ミラルカ」と呼ばれていた。
最後の少女時代、故郷から遠く離れた異国の神殿に預けられた。
私は人質であり、駒であり、尊き姫君であり、単なるふてくされたひとりの小娘だった。
良いことと悪いことがあった。
前者は、ウォルドという名の神官騎士に出会ったこと。
書物が好きで、物語が好きで、エスタローザという王国のおとぎ話に憧れ、なれるものなら学者になりたかったと夢物語を恥ずかしげもなくさらけ出す変わり者の王女に、一緒にいこうかと本気で提案してくる酔狂な神官騎士だった。自称愛想のない口下手の割に、あの言動で随分こちらを振り回してくれたものだ。
後者は、サフィークという名の神官に出会ったこと。
過去をお綺麗に脚色するのは好みではない。だからはっきりと言おう。清らかな聖人のつもりで、異国の汚らわしいあばずれを放逐する機会を窺っていたあの神官が、あの頃から今もずっと嫌いだ。
ウォルドが彼を同僚であり親友のように接していたから、夢を壊さないようにしていたけれど。
あれはあなたの誠意に値する人間ではないと、ほのめかすぐらいはしておけばよかったかもしれない。
いくら私を軽んじていても、ウォルドに対してはまともな友人なのだろうと、私自身がそう甘くみていたのもある。
安全を約束されていた神殿に兵士がなだれ込み、ずっと傍らで見守ってくれていた者達すべてと切り離された。
いつかそんな日が来るかもしれない、いくらそう覚悟をしているからといって、何も感じないわけがないだろうに。
仲間達みんなを救うつもりで、あやしい姫君の悪影響から友を救うつもりで、あの男は正義感たっぷりの自分しか見ていなかった。
当時そこで引き離された私のお付きの者達や、ウォルドを厳しくもあたたかく鍛えてくれたという師匠までも、後の調べでは全員が帰らぬ人となっていた。
結局私は最終的に幼少からの定め通り、再び遠い南の地へ戻り、パナケア王国への供物として嫁いだ。
噂は噂、ひょっとしたら案外、噂より良い人かもしれない――望まぬ政略婚を前にした娘の、よくある現実逃避だ。実際に会ってみれば、そんな一縷の望みなどあっさり泡と化したわけだが。
(やっぱりね、ええわかっていたわよ!)
と、内心毒づくぐらい、いいだろう。
ただしそこにも、悪いことと良いことが転がっていた。
夫は好色でだらしがなく、私は大勢いる妃の末席に過ぎなかった。つまり一番立場が弱い。後宮は毎日が女の戦場。外の様子を調べる余裕は一瞬たりとも得られなかった。
けれど好色な王は、一番新しく一番若い妃に夢中になった。だから私は一番弱い立場でありながら、最も大きな後ろ盾を得た。
さらに、ナハトが産まれた。それまでも王子は何名か産まれていたけれど、何故かすべて幼い頃に不審な死を遂げてしまっている。
全員を事故や自然死と言い張るには、不自然過ぎるほどに。
唯一の王子。
ナハトを、その母たる私を、ほとんどの臣下が全力で守ろうとした。
やがて間もなく、高齢だった王が亡くなった。
王の血を引く王子は、もう決して生まれない。
ナハトは即座に王太子となり、臣下達は不穏の塊であるほかの妃達をすべて僻地の神殿へ送った。
父王の崩御と同時に息子が後宮を引き継ぐこともあれど、赤子のナハトには不可能。その場合は古き後宮を解体させるのが習わし。
私は中継ぎの女王になった。容易な道のりではなかったけれど、誰にも我が子を利用させないためには権力を握らねばならなかった。
ナハトは父を憶えていない。知ったかぶりはそれを哀れと言うけれど、好色で贅沢好きで智も武も両方お粗末だった男を記憶していない、それのどこが不幸に繋がる?
これ幸いと優れた臣下を見本にさせた。
さまざまな騎士の話もした。寝付く前、枕元で語り聞かせる遠い国の神官騎士の物語を、ナハトは一番好んだ。
あの子が何歳の頃だったろう。
無我夢中で駆け抜けて、女王となり、余裕が出たとまではいかずとも、ようよう慣れてきた頃だった。
冬の間は長く雪で閉ざされる国より、〝加護持ち〟の神官騎士がやって来ていたらしい――そんな噂が耳に入った。
耳に入った時には、その情報はもう古かった。――彼はしばしこの地で活動していたけれど、とうに帰ってしまっていたのだ。
痛恨のすれ違い。
何より悔やんだのは、耳に聞く神官騎士とやらの様子。
無表情なのに、どこか鬼気迫る様子で、近寄り難く、ただひたすら魔物を狩っていた。
苦行を自ら求めるかのように、何の楽しみも喜びもその男の興味をそそらず。
(ウォルド……)
最後に憶えている顔は。
彼の声は。雰囲気は。
そんなものではない。そんなものではなかった。
突然いなくなった私を悲しんでくれたか。
師匠を失ってさぞ悲しかったろう。
何より、それを彼に与えたのが、ほかでもない友と呼んでいた男なのだと、知ってしまったのか。
けれどもう、かける言葉もない。会いに行ける立場ではない。そもそも、既に手の届かない場所へ帰ってしまっている。
(どうか私のことで、胸を痛めていなければいい)
あっさり忘れて、あるいは小娘ミラルカなど単なる変わり種の思い出に昇華させて、人生を謳歌してくれればと願う。
そんなふうに願うこと自体、おこがましいかもしれないけれど。
けれど、ウォルドを大切にしていた人々は、みな気にしないで欲しいのではないかと思うのだ。
それから、時は少し前のこと。
あろうことか、サフィークがこちらの国々の大神殿にやってきた。
有能で人付き合いの上手い神官は順調に出世を重ねていた。
彼は大神官の口ききで、パナケア王国の女王にも謁見した。
――お懐かしゅうございます、陛下。
曇りのない笑顔で、どう見ても本気で言い切ってくれた。
お元気にお過ごしのご様子で嬉しいと。
よくも、ぬけぬけと。
牢に繋ぎ、拷問でもしてくれようか。
いや、なまぬるい。その程度の苦痛、この男は〝神々の試練〟にすり替えてしまうやもしれない。
久しぶりにこの人好きのする微笑みを前にして確信した。
この男は己のしでかしたことを、未だ理解していない。
目の前の女王がまだ姫君であった頃、言葉や態度だけは丁寧に、しかし内心では間違いなく見下していた――おそらくは当時の記憶を、「若かりし頃の女王陛下と親しくさせていただいた」と美しく都合よく憶えているのだ。
罪の意識など存在しない。この男にとって、己の行動はすべて〝正しい〟のだから。
第一に、そう……この男は、神々の恩寵を失ってはいなかった。こちらの治癒院でも勤めていたのだから、それは確かだ。
あくまでもサフィークの行いは、〝人族同士の諍い〟の範疇に入る。神々の契約と信頼に触れる決定的なミスはしていない。
(口惜しい……)
憤怒を笑顔の下に押し殺し、「本当に懐かしいですね」と答えてやった。
現役の神官を痛めつけ、治癒の魔術が効かなくなった者がいるらしい。実験しようもないので真偽は定かではない。ただ、ありそうだとは思う。
迂闊に痛めつけられないのが残念だ。もっとも実行に移したところで、残虐な女王から一方的に傷付けられた被害者と思い込みそうだ。
この男が最も苦しみ、後悔することがあるとすれば――神々から見放された時だ。
一刻も早く、その日が来ればいい。
……そう思っていたら。
他国に放っている者達から、不思議な報告を受けた。
……かの王国の、魔女の話を。
どきりとした。顔には出ていなかったろうか。
報告が重なるにつれ、だんだんそれは隠しきれなくなっていった。
私がそれを訊きたがっていると気付いて、彼らのもたらす情報にはその関連が明らかに増えた。
森の魔女。
青い小鳥。
精霊族。
白銀の神官騎士。
秘匿されているけれど、前後の状況から勇者と思しき少年。
ああ、この胸の高鳴りをどうすればいいのだろう?
(だいたいウォルド、あなた狡いのではなくて? 一緒に行こうかって誘ってくれたくせに!)
記憶の中の神官騎士に文句をぶつけながら、ひとり自室でにやにや笑いをかみ殺す日々。
サフィークの件に至っては、勇者の少年には申し訳ないけれど歓声をあげそうになってしまった。
おかげでナハトに不審がられてしまったではないか。
サフィークは、ラゴルスといったか、お仲間の元神官達とご一緒に、とうとう神々の恩寵を失ってしまったらしい。
同情の余地はない。むしろ遅過ぎるぐらいだ。
サフィークと何名かは、見習いまで降格の上、戒律の厳しい神殿で性根を鍛え直されることになったとか。神様に怒られてしまった以上、さすがに自分が何の罪も犯してはいないと言えなくなったらしく、ひたすら黙々と修行の日々を送っているらしい。
ラゴルスという人物は別方向へ危険な人物だったようだ。それでも自分は何も悪くない、こんなに敬虔な信徒である自分を苦しめる神々が悪いのだと言ってのけ、破門の上に投獄。一見すればまともそうな紳士、ところがその正体は極端から極端に走る狂信者――そういう人物だったそうだ。
この男は監獄から出してはならないだろう。遭遇する機会がなくて幸いだった。
この国を統治する者として、まだ若い息子に善い国を引き継げるようにと、多忙の中を過ごしながら。
その〝物語〟は、とても心を浮き立たせるものだった。
だから、まさか。
あんな〝手紙〟をもらえるなんて、思っていなかった。
――〝魔女の物語に、参加してみないか〟――
差出人の書かれていない手紙が、いつの間にか自室の窓辺にあった。
心臓が止まっていたらどうしてくれるのだろう?
今も昔も、振り回してくれる男だ。
◆ ◆ ◆
私は、女王ミラルカ。
己の人生に何ら恥じるところはない。
私は私として全力で足掻き続けた。
肌が弾ける若さなどとうに失い、少しシワも増えた。
それが私。
心から誇り高く笑みを浮かべてみせよう。
姿を覆っていた紗をはずし、室内に集った面々を見渡す。
なんとまあ、多様で彩り鮮やかな面子が集まったことだろう。
私が何者なのかもちろん彼らは知っていて、だからなのか、ほんのわずか緊張している様が見て取れた。
まあ、中には平然としている者も何名かいたけれど。
(あれが、勇者の少年ね。……まあ、かわいらしいこと。お仲間の男の子と女の子達も可愛らしいわね。……それに、灰狼と……一番緊張していそうな二人の半獣族は、例の元間者かしら)
彼らに教えてあげようか。
――この中で誰より緊張してどきどきしているのは、ほかでもない私なのよ!
こんなことが私の人生に起こるなんて!
こみあげる喜びと笑みを抑えられないなんて、何年ぶりのことかしら!
懐かしい、神官騎士……ああ、彼もまた、何年も時を重ねたのだ。
あの頃より体格が大きく、威厳も備わって……そして、恐れていた苦痛と悲しみの闇を彼の瞳からは感じない。
私を見て、そして……どこか眩しそうに眼を細めた。
(そうだわ……そうよね……あなたも、私を心配してくれていたの?)
すると、茶色い小鳥が羽ばたいて、勇者の少年の肩から低い円卓の真ん中にピタ、と着地した。
珍しい鳥の雛かと思ったのに、その直後の出来事に、また声を失う。
くすんだ茶色い羽が、瞬時に鮮やかな青に変わったのだ。
そうして、つぶらな瞳の印象を大きく裏切る声音で、なんと言葉を話し始めたではないか!
《はじめまして、協力者殿》
この日の出来事を、胸躍るこの日を、きっと自分は永遠に忘れない。
南の地の章、ラストはミラルカさん一人称でした。
次話でまた章が変わります。