181話 通りすがりの討伐戦、【武器を持つ者ども】の殲滅 (1)
地面、岩、揺れる草花、樹々、吹き抜ける風にさえ豊かな魔力が含まれ、たくさんの魔物達の棲みつく場所。
魔の山。
この辺りは、そのふもとだ。
小高い丘、突き出た岩の影でゆっくり腰を落とし、シモンはさくりと草の上に片膝を突いた。
◇
一番古い記憶まで遡っても、シモンの母親はどこにもいなかった。
片付けも修繕もされないぼろぼろの家の中で、貧しいのにいつもどうやって手に入れていたのか、酒の器を傾けては不快な悪臭を吐き出す父親だけがいた。
機嫌が悪くない時は一日中だんまりで、悪ければ怒鳴りながら拳を振るうか、踏み潰そうとしてくるか。
避けたり抵抗したりすれば余計に酷くなるので、ひたすら怯えつつ、とにかく嵐が過ぎ去るまで耐え続けるしかなかった。
近所に住んでいた少年達が、シモンの置かれている状況に気付いた。怒鳴り声が響いていたのだから、今にして思えばほかの大人達も薄々察していたはずなのに、どうやら彼らは余所の子供の窮状に見ぬふり、聞こえぬふりを決め込んでいたようだ。だからロイク、コルネ、ヴァノン達が声をかけてくれるようになった時は、シモンは縋りつかずにはいられなかった――それが心もとない細い藁に過ぎなかったとしても。
彼らがシモンを救おうとしてくれたことはなかった。
近所の子が痛めつけられているのを知りながら、彼らにとってそれは大人達と同様、他人事の域を出なかったのだ。
今ならばわかる。ちゃんと両親に大切にされて育ったあの少年達には、そうではない少年の日々の話に現実味が湧かなかった。
子供だったから。
悪意などなかった。
アスファは最初に彼らに会った時、「短気な連中だけれど話せば仲良くなれそうだ」と思ってしまった自分を悔やみ、見抜けなかったことを恥じているらしい。
そんな必要などないのに。
アスファの第一印象は別に間違ってはいない。どこにでもいる腕白少年達は、彼とならごく普通の友人関係を築けたのだろうから。
単に、シモンはそうなれなかっただけだ。
幼馴染み達は周りの大人達の反応を目にして、無意識に一番細くてか弱そうな少年を自分達の〝下〟に置いた。
四人みんなに与えられたはずの食べ物を、一人だけあげなかった。
便利に使い、弱い弱いとからかい、こきおろし、小さく縮こまる少年を小突いてはゲラゲラ笑った。
ただ単に、楽しくて。
放置したらあとあと響くので先に鬱屈を吐き出しておけとラフィエナに笑顔で迫られ――笑顔なのに怖かった――その話をさせられた時、彼女は言った。
『まるきり玩具を手にした子供の行動ですね。誰にも指摘されなかったから、彼ら自身も止めることなど思いつかなかった。それが悪いことだとも、第三者から見て恥ずべき行為だとすら気付けなかった。歳を重ねればそれなりに広い視野と考える頭を育んでいてもいいでしょうに、要はいつまで経っても子供レベルの、程度の低い連中だったのでしょう』
ロイクも、コルネも、ヴァノンも――そして、あの父親も。
教官は容赦がなく、言葉を無駄に飾ったりはしない。現実を現実として語り、見当違いな方向に心情を慮ることはしないので、シモンの過去について彼女が口にした非情な感想は、むしろ胸の中にすとんとおさまった。
ああやっぱり、そうだったのかと。
いつも怯えて、いつも我慢をして、余計なことを考えず、ただひたすら息を殺しながら、苦痛が過ぎ去る瞬間だけを待ち続けたあの日々。
まともな食事をとり、充分な睡眠をとり、まっすぐに仲間と呼んでもらえる仲間を得た現在、とことん厳しい教官の鬼シゴキにも耐え抜いて、否応なしに精神力も鍛えられ。
今ならばはっきり言ってやれる。
おまえは弱っちい、馬鹿だ、マヌケだ、たいした価値もないと嘲るばかりだったあの連中に。
(僕をそこまで言えるほど、あんたらはご立派な人間だったのか?)
残念ながら、あの幼馴染み達にはもう言えない。
悲しくはなかった。
ただ、反論の機会が永遠に失われた事実だけが残念だった。
強がりでも何でもない。どうせあの連中が居たって自分は寂しかったのだから。
父親は、未だに飲んだくれていようが、野垂れ死んでいようがどちらでもいい。わざわざ文句をぶつけに行く気もなかった。顔を見たって不愉快になるだけだ。
たとえ彼にどんな過去や事情があり、何を苦しんでいたとしても、シモンがそれを何ひとつ知らない以上、そんなものはこの世に存在しないのと同じだ。
自分が一時でもそれから逃れたいがために、抵抗できない幼子を徹底的になぶっていた事実は揺らがないし、どんな言い訳も免罪符になりはしない。
せいぜい他人に迷惑をかけない範囲で、苦しんでいればいいと思う。
――という心の内を、アスファ達に包み隠さず打ち明けたら。
『おま……〝普段大人しい奴がマジ切れしたら怖い〟の典型だったか……』
『そ、そんな言葉があるんですの? ぴったりですわね……』
『いいではないですか? 私ももし母様が未だに生きていたら、他人様に迷惑をかけないようどこかにすっ込んでいろと叩き出すところですし』
平然と言ってのけたリュシーごと、アスファとエルダにはドン引きされてしまったが。
そんな会話を交わした後でも、彼らは何ひとつ変わらなかった。
◇
(腹の中身をぶちまけて、なんだかすっきりした……)
万年樹の弓を構え、聖銀の矢をつがえる。
その瞬間から、震えるばかりだった臆病な子供も、【魔道武器】を貸し出されて真っ青になっていた小心者も姿を消した。
幼い頃、弓を手にした。家の中にあったものを最初から使っていたように記憶していたが、よくよく思い返せば、幼児が大人用の弓を引けるわけがない。
大人の狩人がやっているように、遠くから弓で狙うだけなら自分でもできると真似を始めたのが最初だ。
当然すぐに上手くはいかない。見よう見真似で作った不格好な弓から放たれる矢は、風に流され蛇行して、かと思えばあさっての方角にすっ飛んでしまい、全然うまく当たらなかった。
「弓なら簡単にできる」なんて甘かったと理解できた後でも、食べ物を確保するにはこれしかないと粘り強く練習した。村の大人が気まぐれに恵んでくれる食べ物が、すべて幼馴染み達の腹におさまるようになってからはますます真剣になった。
追い詰められ、上達する以外になかったのだ。
草木の匂いを放つ香り袋を服に仕込み、こんもり蒼い葉の向こうを見据える。
うつろな眼窩のごとき洞穴に、だらだらしゃがんだり頭を揺らしたり、やる気なさげに見張りをしている【小鬼】が手前に四匹。奥にまだ何匹かいるだろう。
香り袋だけで完全ににおいを隠せはしないが、距離が開くほどに誤魔化しは効果を発揮する。
それにこちらが風上であっても、あの魔物にはにおいが届かない距離だ。
そしてあちらが矢を射かけてきても、ここまでは届かない。
大物とつるんでいる時の【小鬼】は大半が射手だ。離れた場所で隠れながら、大物の接近戦の援護をする。
洞窟に身体が入りきらないのか、巣穴の前の小さな広場に陣取っているのは【人喰巨人】だ。見える限り数は五匹。上位種は見えない。嗅覚は【小鬼】と大差がない。
シモンが選んだポイントの周辺に魔物の気配がないのは確認済みだ。これは何年にも及ぶ狩り生活や、ラフィエナの特訓の際に徹底的に学んだ。
獣の足跡、何かを引きずった痕跡、枝の折れ方、かすかなにおい、目の前の風景全体から感じ取る微妙な違和感――まずいと少しでも思ったら、そこは使わない。
心は落ち着いている。呼吸も心拍数も平素と変わらない。
耳を澄まし、足元の振動に変化がないかを絶えず気にかけ、その上で狙いを定める。
デマルシェリエ騎士団の射手のように、二人一組で行動できれば負担は軽くなるだろう。ひとりが周辺を見張ってくれている間に、もうひとりが周りを気にせず心おきなく矢を放てる。
けれど自分達は討伐者だ。ないものねだりはしない。
限られた戦力で、各々ができることをする。
まずは遠距離攻撃を行うものから削ぐ。
我流ながらほとんど妙な癖のついていなかったシモンの姿勢を見て、ラフィエナが教えてくれた。
ロイクも、コルネも、ヴァノンも、身体だけはシモンより大きかっただろうけれど、もし彼らがシモンと同じ弓の弦をめいっぱい引いた場合、同じ姿勢を何秒も保てなかっただろう、と。
指を放し、引き留められていた矢を解放した。
矢じりの到達を確認する前に新しい矢を添え、再び弦を引く。
場所はすぐに移動しない。ポイントをすぐに移したほうがいい場合と動かないほうがいい場合とがあり、今回は後者だった。
岩陰の向こう、慌てた【小鬼】が起き上がってめちゃくちゃに矢を射かけはじめた――一匹減っている。
子供の工作のような、ちゃちな作りの弓矢はたいした飛距離がなく、シモンの現在地まで半分も越えられなかった。
間を置かずの二撃目、もう一匹がぱたりと倒れた。
「グゥオオアァアアッッ!!」
魔獣の遠吠えに似た【人喰巨人】の咆哮がここまで轟いた。
けれどシモンの中に恐怖はない。
己の周辺の警戒を怠らず、なおかつ敵の援護を妨害する。
普段の彼をよく見知っている者がその横顔を目にすれば、顔だけ似ている別人ではないかと混乱しかけたことだろう。
慎重で忍耐強く、いっそ冷徹さを感じさせるほど、微塵の焦りも高揚感も窺わせない射手がそこにいた。
リュシーさんとシモン君、過去が過去なのでシリアス色が濃くなってしまいます…。
が、アスファ君のおかげでこれからどんどん明るくなってくれるでしょう。