172話 姫君の奮闘 (9)
客室に備え付けの湯沸かし器を使い、ターシャが手早く二人分の茶を並べ、邪魔にならないよう少し離れた場所で控えた。
魔道具の湯沸かし器は魔石で熱する台座と、注ぎ口と取っ手のついた専用の容器がセットになっており、王侯貴族や財力のある商人の邸宅などでも見かける。
宿にこういうものがあれば、間違いなく一泊で金貨が飛ぶ高級宿だ。それがこの村では、当たり前に全室に置かれている。
見る者が見れば、そこに権力や財力のにおいを感じ取る代物だと、下級貴族の出身であるターシャによってフェリシタは教えられた。
ターシャの実家にはそれがなかったのだ。
「いきなりごめんね、明日の朝にはもう出発するって聞いたからさ。今夜逃したら、ちゃんと話す機会が当分先になっちゃうかなと思って」
「まあ……わたくしも、同じことを考えておりました」
「そう? 迷惑じゃなかった?」
「いいえ、逆に嬉しいですわ! どうすればお話できるのかと、先ほどまで悩んでいたのですもの」
「そ、そう?」
テーブルの向かい側で、魔女は少し照れた様子で頬をぽりぽりとかいている。
口調の割に表情があまり動かないので、離れていると気付きにくいが、こうして近い距離で顔を合わせていると、冷静そうな容姿に反し、存外感情豊かな人物だとわかる。
「足の様子はどう? もう痛みはない?」
それに彼女が、か弱い者に優しく、思いやりのある人物であるということも。
「――はい。おかげさまで、怪我をしていたことすら、不意に忘れそうになるぐらいです」
「怪我……うんまあ、怪我か」
「…………」
フェリシタは赤面しそうになった。靴擦れなる症状は、通常なら怪我と呼ぶほどのものではなかったのかもしれない。
(……そうよね。入り口を通過するだけで、こんなに足を痛める者など、きっとわたくし達以外にはいないのだわ)
王宮で大切に守られている自覚はあったつもりでも、これほど己が無知で、か弱い存在と思い知ったのは初めてかもしれない。
ターシャも同時に同じことを思ったのか、目元が少しだけ赤くなっていた。日頃からこまごまと働いているけれど、王女付きの侍女として、やはり彼女も優雅に保護されている身なのだから。
おまけにフェリシタは、無茶苦茶な要求で周囲を振り回したりしない、下の者にまったく負担をかけない主だった。
「なるべく自然に近い形で治る薬を塗ったから、ひと晩寝たら綺麗に元通りになってると思うよ。出発前にテープ……保護膜を外してあげるから、それまで自分で取らないでね」
「はい。ありがとうございます」
「それから……来てないと思うけど、ここにマイエさん来てないよね?」
「マイエノーラ様、ですか? ええ、ここへ到着した直後から、一度もお会いしておりませんが。あの方がどうかなさったのですか?」
「んー……教えとこうかどうか迷ったけど、知らなかったら後々あれだから言っておくか。あの人ね、ここ着いた直後にシェルロー達に連行されて、大説教かまされたんだよね」
「だ、大説教、ですか?」
麗しい精霊族の王子が、麗しい精霊族の女性に大説教。
……想像がつかない。
「うん。正座ってわかる? 足をこう、たたんで座るの」
「存じております。室内で靴を脱ぐ小国の文化ですとか、他部族などの神官でそういう座り方をするところがあると、以前教師から教わりました」
「話早いなあ。それだよ。付け加えると、精霊族にもあったみたい。まあ要するにマイエさん、ず~っとひたすら正座で、シェルロー君にこれでもかって説教くらって、かなりダメージ受けたみたいなんだけどね。やめときゃいいのに、謹慎を命じられた部屋から逃亡したらしくて」
「正座でこれでもかと説教の上に逃亡……」
やはり想像がつくようなつかないような。
「その後、灰狼の男どもが何かを失敗したとか再度挑むべきとか、こそこそ相談してるところに居合わせて、さりげなく参加して、悪知恵吹き込んでるのを発見して捕縛して」
「マイエノーラ様……何をなさっているのですか……?」
「それで今度は見張り付きで軟禁状態にしてたのに、また逃亡されて現在行方不明」
「マイエノーラ様!? 本当に何をなさっているのですか!?」
「だよね~……」
王子たるシェルローヴェンが寝ずの見張り番をするわけにもいかず、同胞に交代した直後の犯行だったらしい。
この場合、二度も逃亡を許した連中が無能なのではない。
二度も同胞を出し抜いたマイエノーラが油断ならない女なのだ。
「どうせこの村の近辺からは離れないだろうし、お姫さんが帰る時には何食わぬ顔で戻って来るって話だけど……マイエさんのこと、普段どんな人だって思ってた?」
「そうですね。麗しく、知性があり、頭の回転が速く……愉快犯、のようなところがお有りなのでは、と思っておりました。お話を聞いた今は確信を深めております」
「あ、そこんとこ、ちゃんと気付いてたんだ?」
瀬名が少しびっくりした表情になり、フェリシタは苦笑した。
「ええ。こちらを試すような言動がとても多く、そしてこちらが本気で腹を立てないぎりぎりの境界を見極めるのがとてもお上手な方です。今回の件に関しても、突然思い立って突然お決めになって……けれど確かにわたくし自身の望みであったから、怒るに怒れないと申しますか、責めるのはお門違いのように感じてしまって」
「そう、そうなんだよ、巧みに相手の弱いとこを突くとゆーか、まさにそういう人らしいんだわ。私は今んとこ一度も実害ないんだけどね。なんかほかの奴らはいろいろ、被害こうむった連中がいたらしくて……うわああ、お姫さんにもそんな調子だったのか~」
瀬名が眉間をぐりぐり揉みこんでうなる。
フェリシタはつい、くすり、と笑ってしまった。
「出発まで準備をする間がほとんどなかった、というのは言い訳になりますけれど……わたくし達が何を準備し、どのように振る舞うか、それも試されていたのだと思います。シェルローヴェン様も、わたくしの無知と認識不足を指摘してくださったのではありませんか?」
「…………」
否定はなかった。フェリシタの考えは的を射ていたのだ。
非公式のお忍び、身分に対する遠慮は不要と伝えておきながら、無意識に〝王女殿下への対応〟をしてもらえるものと思い込んでいた。
敬われる者としての無自覚の傲慢さ。己の中にもあったそれを、フェリシタは彼らのおかげで明確に掴めたのだ。
片道で何日もかかるであろうと覚悟をしていたはずなのに、野外歩きに向かない繊細な靴であっさり足を痛め。
(ただ単に己の足で歩く、そんな当然のことを求められただけで、自分達が歓迎されていないだの何だのと大袈裟に……思い返せば恥ずかしくなってしまうわね)
紛うことなき被害妄想だ。精霊族の王子は、自分達に悪意などないと、きちんと言ってくれていたではないか。
すると瀬名が、もの凄く言いづらそうに口をひらいた。
「……あのさ。私も実は、シェルローに聞くまで知らなかったんだけどね。マイエさんが今、お姫さんのところにいるのって、郷の総意で派遣したんじゃなく、マイエさんの独断だったらしいんだわ」
「まあ、そうだったのですか」
フェリシタは平然と返し、ターシャは「ええっ?」と顔を引きつらせた。
優秀な侍女はかろうじて声にこそ出さなかったが、相当驚いている。
「うん、そうだったみたい……だからさ、お姫さんが『あの人もう嫌!』って感じなら、シェルローが王族の強権でもって排除してくれるって話なんだけど。ひょっとして、必要なさそう?」
「ええ、せっかくのご厚意ですが。マイエノーラ様は、あのような方こそが、わたくしの傍には必要な方。ですからどうか、今後もわたくしの傍にいてくださるよう、お願いできないでしょうか」
「へえ? どうして?」
「忌憚のない意見を、誰よりも遠慮なく、はっきりと表明してくださるからです」
周りの者は王女への不敬を咎めたがるけれど、フェリシタはマイエノーラの口から出る遠慮の欠片もない意見の数々が、心底ありがたいと感じる時が頻繁にある。
時にそれは菓子のように甘く、かと思えば次の瞬間にはちくりと刺す棘となって、油断ならぬ女性だと再認識すると同時に、彼女が紛れもない本音で接してくれているのだと実感できた。
ターシャも比較的、本音で接してくれているものの、どうしても立場の違いがある。
それだけではなく、マイエノーラがいなければ、知り得なかったこと、経験できなかったことがとても多い。きっとマイエノーラにとっては、「だって愉しいんだもの」で片付けられるであろう、嫌がらせとも親愛の情とも受け止めにくい言動の数々――そのすべてがフェリシタにとって、あらゆる〝学び〟に満ちていた。
実際にあの女性は、博識で教え方も上手い。その頭の良さを発揮する方向に同胞からは眉をひそめられているのだけれど、本格的な処分をされないぎりぎりの見極めが上手いだけはあり、ちゃんと〝王女の相談役〟の仕事も出来ているのだ。
そして……真面目で模範的なフェリシタには、いわゆる〝悪さを教える教師〟がいなかったので、逆に新鮮で好印象を抱いてしまうのだった。
「まじめっこが不良に惹かれる心理……」
「はい?」
「いや、なんでも。あんたが納得してるんならいいよ。でも、マイエさん絡みで困ったことがあったら、即! 言ってきなさいね。なんとかするから」
「はい、ありがとうございます」
――「あんた」は、庶民の間で使われる、「あなた」の気安い表現のことよね?
フェリシタは初めてそんな呼び方をされ、顔をしかめるどころか、ぽっと頬を染めるのだった。
前話でターシャさんの部屋の後、子爵は騎士ではないため別の棟に泊まっている、というくだりをうっかり消したまま忘れてたので追記しました。