171話 姫君の奮闘 (8)
骨の芯から疲労がじんわり取り除かれるのを感じつつ、慣れない温度で長時間は良くないからと、ほどよく全身があたたまった頃に湯から上がる。
やはり慣れない手つきで大きな布を動かし、水分をぬぐい取って、フェリシタは借りた服を身につけた。
手助けしたくなるのを我慢しながら、瀬名は時おり助言を挟むだけにとどめる。
(うぬぬ、今回はあんまりお風呂できゃっきゃできなかったな……。入るまでの道のりが長かったからなあ)
しかし、今回でだいたいの要領は掴んでくれたと思いたい。きっと次回はもっと上手に手際よく……いかなかったとしても、少なくとも説明は省けるので、もっとゆとりをもってお風呂を楽しめるはずだ。
瀬名は密かに次の機会への野望を燃やすのだった。
「……これは何ですか?」
「温風の魔道具。ここに置いてある魔石を、ここんとこの窪みにはめたら風が出るの。髪を乾かす時に使うんだよ。もっと小型化できたら便利なんだけどね」
言いながら、脱衣室の隅に設置された魔道具の前に立つ。成人男性ほどの大きさで、直径が少女の肘から指先ほどの円陣が描かれており、その部分は上下に動かせる仕組みになっている。
フェリシタの背丈に合わせて円陣を移動させ、窪みに魔石をはめこめば、ほどよい温度の風が吹き出してきた。
「素晴らしいですわ……! この髪がこんなに早く乾くなんて!」
おまけに洗髪用の液体石鹸の質もかなり違うのか、指通りよくなめらかな仕上がりになった。
「素敵……! いつもは入浴後、魔術の心得のある侍女に乾かしてもらうのです。けれど風の魔術は寒く、火の魔術の熱風は熱過ぎて、水の魔術で水分を奪えば仕上がりがカサカサになってしまい……」
「ああ、髪に必要な潤いまで奪っちゃう感じかな? それって頭皮とか、お肌にも良くない気が……」
「その通りなのです。ですから、ほどよく乾かしてもらえたらいいのですけれど、そこまで魔力を制御できる方は宮廷魔術士ぐらいですから、乾かし係などを命じたら酷い侮辱になってしまいます。かといって自然に乾燥させるのも、この長さではとても時間がかかってしまいますので……」
「へえー……大変だね」
と言いつつ、この道具を進呈しようとは微塵も思わない瀬名であった。
フェリシタもそれを期待して話したわけではなく、特に落胆はしていない。
「ま、どのみち風呂あがりの肌は乾燥しやすいし。これ、髪の毛用のオイルと、顔にも全身にも使える美容クリーム。私の手作りでよければ試してみる?」
「よ、よろしいのですか!? 是非……!!」
試してみた結果、どちらの香りも使用感も最高だと大喜びであった。
(よし、ヘアオイルと美容クリームも土産リストへ追加しよう)
もちろん売買の予定は一切なく、あくまで友人の婚約者への個人的な土産としてである。
消耗品ではないドライヤーなどは外に出さない。瀬名やARK氏の知識を下手に外部へばら撒いて、うっかり産業革命の狼煙があがっても責任など取れないのだから。
(そういや鉱山族のじいさん達が、なんでか灰狼の連中が鏡に興味持ってるらしいって言ってたっけ。自分の顔に興味とか出たのかな?)
この世界の鏡は金属板を磨くか、景色を反射させる魔蟲の素材で作られている。高級な鏡はそこそこ映りがいいけれど、瀬名の感覚では非常に原始的でいまいちと言わざるを得ない。
それでも誰かが発明するまでは、「これとこれを使ってこうすれば完璧なのができるよ!」などと教えてはならない。
土産に手鏡を入れてもいけないだろう。なんとなく構造が読まれそうな品はアウトだ。
それにしてもフェリシタ王女は、自己評価が低いのではないか。王女としての矜持は感じるけれど、どこか己を高く見積もらないよう自戒している感じであった。
年齢より博識で落ち着きがあるけれど、それは「王女として厳しい教育を受けてきたのだから当然」と認識していそうなふしがある。
辺境伯やライナス青年が苦い顔で語った内容から推察するに、元凶は王や王子達だ。
かつて侍女にそそのかされ、護衛をつけずに二人きりで町へ繰り出した元王女は、必要な教育から逃げて怠けてばかりだったらしく、フェリシタ王女のまともな比較対象になるとは言えない。
けれど彼女は、幼い頃からその元王女と比較され、貶されてきたらしい。
姫は可愛らしく愛嬌があればいい、賢さなど不要である――つまりそういう、どこにでもいる凡庸な貴族と同レベルの〝常識〟でもって、王や王子達はことあるごとに元王女を引き合いに出し、フェリシタ王女を貶してきたというのだ。
『容姿は悪くないが、姉王女の愛らしさには及ばぬ。性格も面白みがないつまらぬ娘だ。少しはあれを見習えんのか?』
身内の口から出る言葉は重い。相手がどんなに浅はかで不条理なことを言っているのか理解できる年齢に達しても、気にせずにはいられない。
第一にフェリシタは賢いので、身分の高い者に対し、心にもないおべっかを使う者が大勢いると知っている。他人からの誉め言葉は素直に受け止められず、基準はやはり遠慮のない近しい身内となるのだ。
母親と、王女宮の侍女、優れた臣下からの賛辞のおかげで、やはり王女なのだから頭の出来は良いほうが良いと学べた。それでも、容姿や性格については、コンプレックスが根付いてしまったようだ。
(――ひょっとしてこの子、自分の顔がどんなのか知らなかったりして)
瀬名からすれば映りが綺麗とは言い難い鏡。しかも男性の身内から貶められ続けたトラウマで、正面からまともに見つめることが出来ないとすれば。
……薄化粧は侍女が施し、容姿を褒めるのも侍女。彼女らはプロなので、たとえ主が〝そこそこ〟の容姿の持ち主であったとしても、「なんてお美しい!」と褒める。
すっぴんでも雑誌の表紙を飾れそうな美少女なのに、なんて勿体ない――瀬名はフェリシタに〈スフィア〉製の鏡をあげたい衝動でむずむずしてくるのだった。
されど我慢。
我慢である。
この少女が、ライナス青年のもとに嫁いで来るまでは。
◆ ◆ ◆
フェリシタに渡された服は、帯をしめたりボタンをとめる必要のない、ごく単純な貫頭衣だった。さらにその上にゆったりとした上着を羽織り、それにもボタンや紐はついていない。
やわらかな感触にほう、と溜め息をつく。
下着も服も、締めつけをほとんど感じない。フェリシタはかなり本気で、この服を定期的に購入させてもらえないかと悩んだ。
夕食も実に素晴らしかった。
わずかな給仕の者を残して人払いをされた広場で、少女の胃の容量に合わせた料理の皿が、頃合いを見計らって順番に出されたのだが、どれも色とりどりな絵画のごとき盛りつけで、野菜や果物は口内をシャキシャキと潤し、舌の上でほろりととろける肉には「~っ!」と悶えそうになった。
毒味係がおらず、侍女のターシャは心配そうな様子ではあったけれど。
彼女もしっかり温泉を堪能できたらしく、最初は合いそうにないと思っていた灰狼の女性達と――口調や態度があまりにぞんざいだったので――温泉のマナーを教えてもらううちに、思いがけず話が弾んでしまったらしい。空気を壊さぬよう、無理に自分が毒味を買って出るとは言い出さなかった。
本来なら王族と侍女として、あるまじきことだった。敵意のない相手の提供してくれた食べ物から毒が出ることもあるのだから。
けれど、毒見を介さない、それが相手への強い信頼を示す行為になることも確か。
そしてこの場合、彼女達は彼らに誠意と信頼を示さねばならない立場にある。
余所では絶対に味わえない。王宮ですら味わえない。冷めていない出来立てほかほかの料理なんて。
病みつきになりそうだとフェリシタは思った。
おなかがいっぱいになるまで食べて、満足しながら部屋に戻った。疲れているだろうから、今夜はゆっくり休みなさいと言われて。
ターシャは隣室だ。ただし、部屋の内部が扉で繋がっているので、何かあればすぐに呼べる。
ラ・フォルマ子爵は扉の前でひと晩中立つつもりだったが、正式な護衛騎士ではないからと、別棟の客室を用意されていた。
逃亡生活を送っている身の上でもないのに、肉親でも騎士でもない貴族男性に寝ずの護衛をさせるなど、褒められた行為ではない。
(……わたくし、何のために来たのかしら?)
王の娘として。国の未来を憂える者として。
魔女がどんな人物であり、彼女が何を考えているのか、直接本人に会って尋ねたかった。
――否。憂いを取り除けないのは国の未来ではなく、〝王家の〟未来だった。
魔女の采配によってさまざまな物事が大きく動き、その流れから光王国の王家は明らかに取り残されている。
不要、居ても邪魔、むしろ有害――〈黎明の森の魔女〉にとって王家の印象は地に落ちており、積極的に関わる気もなければ、関わらせて何らかの利益をもたらしてやる気もない。
とても恐ろしく、非情で、親しくしているライナスの婚約者が、王の娘であることも不愉快に思っているかもしれない。
フェリシタはライナス=ヴァン=デマルシェリエの〝婚約者〟だ。
すなわち〝まだ婚姻関係が成立していない〟間柄であり、これはまだいくらでも撤回が可能という意味にもなる。
そしてフェリシタの父である国王は、最近とみに己の自尊心を優先した言動が目につき、こらえ性もなく――一時の癇癪で、娘の婚約を白紙に戻してしまいかねない危うさがあった。
そんな真似をすれば、デマルシェリエとの間には決定的な、修復不可能な亀裂が生じるだろう。
それが自分の短慮な行動のせいだと後で理解しても、己の責任から目を逸らし、だんまりを決め込むか、のらくら逃げて他の者に後始末を押しつける。
そういう人物なのだ。この国の王は。
昔はこうまでいい加減ではなかったと、臣下達は遠回しな表現で憂いを語る。
おそらく昔は、王太后の発言力が強かったから、こんなに適当に好き勝手はできなかったのだ。
愚王と悪評の轟いていた先王と比較し、余計にマシに見えていた部分もあるかもしれない。
その後継たる王子達が王になれば、もっと良くなるかと問われれば――……
第一王子が王になったら、「花畑王」と呼ばれるだろう。
第二王子が王になったら、「脳筋王」と呼ばれるだろう。
第三王子が王になったら、「散財王」と呼ばれるだろう。
(どうすればいいの……暗澹たる未来しか見えないわ……!)
無事にライナスと結婚できたとしても、彼らがフェリシタの兄妹である現実は変えようがない。
降嫁した日には、ライナスとともに彼らの臣下という立場になる。
魔女は、この先王家をどうするつもりでいるのだろう。
どうもしないのか、そのうちどうにかするつもりでいるのか。実は既に何らかの手を打っているのか。
何もわからない。ライナスや辺境伯から聞いた話だけでは判断しようがなかった。
彼らはきっと、フェリシタを不快にさせたり恐れさせる事柄については口をつぐむ。
だから知りたかった。直接その人となりに触れ、直接話を聞いてみたかった。
……実際に会ってみれば、想像していた魔女像を遥か別次元まで吹き飛ばす人物で、しかも初っ端から現在に至るまで心尽くしの歓待を受けてしまったわけだが。
会えば、わずかなりとも人となりを知れると思っていたのに、却って迷宮に迷い込んでしまった。
どうすればいいのだろう。
何日も王女宮を空にできないので、明日の朝にはここを発つ。
このまま、目的を達成できずに、ひたすら楽しく心地良い気分にさせてもらっただけで、帰っていいわけがないのに……。
すると、廊下に通じる扉が控えめにコンコン、と鳴った。
ノックという合図らしく、これも王宮にはないものだった。
「ごめん、もう休んでる?」
「――セナ様!?」
思いがけず、あちらから訪ねて来てくれた。
一番真面目なので一番苦労してるお姫様です。