170話 姫君の奮闘 (7)
累々と重なる屍の海を、冷めたまなざしの精霊族が見下ろしていた。
そこには欠片の情もなく、氷のごとき声音で犠牲者を容赦なく鞭打つ。
【愚か者どもが……我らの守りを突破できると思ったのか】
【本当に愚かだ】
【見ろ……こんなものまで用意していたとは】
不思議な余韻のある聖霊言語で、彼らは語り合う。
それは、粉々に割れた鏡であった。
姿見に使うほどの大きさで、一枚だけではなく何枚もある。
この世界の鏡は金属を丁寧に磨くか、己の姿に周囲の姿を映して風景に紛れる魔蟲の殻を加工したものなどが一般的だ。
しかしここにある鏡はそのどれとも異なり、表面に何らかの薬液を何重にも塗布して層を作り、従来品よりも遥かに映りをよくしたものばかりだった。
非常に素晴らしい質で、もし売りに出せば富裕層からの注文が殺到するであろうと想像がつく。そんなものを、この連中は――絶対不可侵の禁域の周辺にいくつも仕掛けていたのだ。
己の気配を隠し、あるいはさりげない行動に紛れ、警備係の者が直前まで気付けぬほど、巧みに、完璧に。
それでも不穏な邪念が特定の場所へ集中するのは隠しきれず、それを感知した猟犬達によって、幸いにして犯罪は未然に防がれたわけだが。
【阿呆だ……】
【画期的な発明と努力を、なんと無駄な使い道に……】
かの禁域では現在、プライベートなお喋りが外へ漏れないよう遮音の結界が張られているものの、認識阻害の結界などはない。あまりに厳重にし過ぎると、万一内部で緊急事態が起こった際、周囲がそれに気付けなくなってしまうからだ。
そこに目をつけ、この愚か者どもは、これら鏡を何枚も設置し――要するにノゾキを敢行しようとした。
馬鹿である。
息絶えたと思われた屍の中から、くぐもった笑い声が低く響いた。
「く、くく……この程度、で……我ら決死隊は、あきらめは、せん……!」
「そ、そうだ……たとえいかに、困難であろうと、……挑むことにこそ、価値があるッ……!!」
【……覗きをか?】
【『変態野郎どもは滅びろ』としか言われそうにないが?】
苦しげにうめき、しかし瀕死の男達の横顔には、キラリと希望が輝いていた。
「本望だ……!!」
「たとえ今は滅びようとも、何度でも蘇ってみせよう……!!」
【格好よく堂々と宣言することか!?】
【いや待て、何故さっきから我々の言葉が通じているんだ!?】
世の中には、理屈では説明のつかない事象が存在するようだった。
「手間かけさせて悪いね、あんたら……」
「このボンクラども、あたしらが引き取るよ」
【わかった。任せよう】
【後悔……は、しそうにないが、徹底的に痛めつけてやってくれ】
「ふっ、任せな」
「これでもかってぐらい、キツいお仕置きかましてやるよ」
【…………】
だから何故、言葉が通じているのだろうか。
灰狼の中に聖霊言語を解する者はいない。それは間違いないのだが。
女性達が馬鹿で純粋な男どもを引きずってゆくのを、彼らは何ともいえない表情で見送った。
【気をゆるめるのはまだ早い。ほかにもいるやもしれん】
【そうだな。持ち場へ戻るぞ】
【奴ら、しつこそうだからな……】
◆ ◆ ◆
「は~、ごくらく~♪ てんごく~♪」
「はい~♪」
某所でそんな戦いが繰り広げられているとは露知らず、瀬名と王女殿下はゆったりまったり、ぬくぬくとくつろいでいた。
一部の馬鹿が禁域をめぐって暴走するのは今回に限っての話ではないが、今回はいつもより念入りに本気が入っていた。その元凶は、実は瀬名が大声で告げた「美少女ときゃっきゃうふふする!」宣言であり、馬鹿な男どものチャレンジャー精神を大いに刺激し煽ってしまったせいだったりするのだが、この場にいる二人にそんな裏側の激闘を教えられる者などはいない。
〈門番の村〉は良質な石材を多く確保しやすいため、建物は石造りが多く、この温泉も木造ではなく、切り石やタイルで山奥の秘境の温泉めいた風情を演出していた。かといって瀬名は木造の建物を苦手としているわけではなく、〈黎明の郷〉――自分のホームを自分で聖域と称したくないので、瀬名はそう呼んでいる――のほうでは、森の中の泉に見せかけた露天風呂や、横倒しになった大樹の洞の部分をそのまま加工した浴槽などがつくられている。
それはそれで不思議で面白い。こちらの温泉と甲乙つけがたく、瀬名は気ままにあちらとこちらを行き来していた。
ちなみにこの辺りの水はARK氏の分析により、毒素はなく、良質のミネラルが豊富に含まれていると判明している。
(ああ最高……素晴らしきかな……「地下水を沸かしただけじゃん」なんて無粋なことは誰にも言わせませんよ。なんたって昔、私の住んでた所では、温泉の素を溶かし込んで「天然温泉です」って言い張ってたんだからな!!)
いくら成分を完璧に調整されているからといっても、「なんか違う」感は否めない。
桶や洗い場前の椅子、ボディソープやシャンプー容器などは、実は〈スフィア〉の3Dプリンターで横着しようかと最初は思っていたのだけれど、ひとつひとつ手作りする本物感という誘惑に抗いきれず、おおまかなデザインだけ伝えてあとは職人の皆様のセンスに委ねた。委ねて正解だったと今、瀬名は心から思っている。
ただし、とある帝国の馬車をそっくり模倣する時には、遠慮なく3Dプリンターを使った。あまり大っぴらには言えない大型の部品を作るのも実は可能だったので、タマゴ鳥がこっそり撮影したオリジナルの外観から各部位の長さや色合いなどを割り出し、あとはデータさえ入れればものの数分で〝帝国製馬車の部品〟の出来あがり。
しかも見た目から推察できるものとまるで違う材料を使っていたりするので、とても頑丈でありながらとても軽く、屈強な成人男性でなければ運べそうにないように見えて、その実、女性が片腕で運べるしろものになっていた。
難点は、組み立て後の馬車全体が軽過ぎるので、衝撃で飛ばされやすいかもしれない点だ。けれどどうせ使い捨てにするのだから、長持ちせずともいい。必要な間だけしっかり使えれば。
(おおっと、いかん。ついつい仕事のことを考えてしまったよ。せっかく極楽にいるのだから、日頃の憂さなど吹き飛ばして忘れてしまわねば!)
瀬名は上機嫌だった。
純粋にお湯が気持ちいいからでもあるが、何より幸せそうなフェリシタ王女の様子に、接待の大成功を確信したからだ。
直接会ってみたいと伝書鳥を寄越された時は、ロイヤルなお姫様を満足させるにはどうすればいいかと慌てたものだけれど、これならば今後も良好な関係を築いていけそうである。
ライナス青年の婚約者として、婚約者と友人付き合いをしているあやしげな魔女がどんな人物なのか、フェリシタ王女が気にするのも無理はない。お友達のライナス君のため、自分達の友情にヒビを入れてしまわぬよう、お姫様を大切にもてなしてあげなくては――。
(ふふふ、このあとのご飯も美味しいんだよ~後でびっくりするがいい! ライナス君から姫さんの好みリサーチしといてよかった!)
前回の宴のような野性味あふれるバイキングではなく、ちゃんと可憐なお姫様のお口に合うヘルシーメニューである。
野菜や果物をたっぷり使い、ひと皿ひと皿の彩りも美しいレシピを指定した。
きっと驚きつつ、感激しながら味わってくれるに違いない。瀬名は憂いの晴れた心で、眼福な美少女を見るともなしに眺めた。
綺麗なものや可愛らしいものを眺めるのは好きだ。性格が良いとわかっていればなおさらである。
あの子爵を使っているところからして、綺麗で可愛らしいだけではないと窺い知れるけれど、頭がお花畑一色でないところは、むしろ好感を覚えた。
……別に、お湯にぷかりと浮いているなめらかな双丘が、あと一~二年ぐらいで……いや、ひょっとしたらもう既に負けて……なんてことは、気にしていないのである。
動く時に動きづらいから、このサイズでちょうどいいのである。
決して負け惜しみではない。大き過ぎると邪魔で仕方がないとよく耳にするではないか。
半獣族の女性戦士は、防具からはみ出しかねない危険で見事な品物の持ち主が多いけれど。種族差というものがあるのだから、気にする必要などないのである。
ほんのちょっと、「たわわに実る」ってどんな感じなのかな~、と、知的好奇心から想像してみるだけなのだった。
大き過ぎてウエストのベルトが見えないよ、もう! とか。
剣を振るたびにタプンタプン言うから鬱陶しくて仕方がないよ、もう! とか。
そういう台詞を一度ぐらいは言ってみたいな、と、思わなくもないこともない。その程度なのである。
瀬名は「ふ……」と、内心を窺わせない謎めいた微笑を浮かべた。
一方、フェリシタ王女といえば。
(はっ!? ――い、いけない、あやうく当初の目的を忘れてしまうところだったわ!)
そう。彼女は、王家の今後にかかわるとても重要なことを尋ねるために、お忍び訪問を試みたのである。
(ど、どうしましょう……どのように訊いたらいいのかしら?)
すっかりタイミングを失い、当初考えていた切り出し用の台詞を使えなくなっていた。
自己紹介の後、少し落ち着いた頃に人払いをして――そんな流れを予定していたのに。
(こ、ここで訊いたら、せっかく心地良いお風呂を台無しにされたとお怒りになるかしら?)
(あ~、余計なことを考えるのはやめやめ! それよりお姫様のお土産、いつ頃のタイミングで渡そうかな? 明日でいいかな?)
(現時点では、わたくしにお優しくしてくださっているけれど……きっとそれは、ライナス様のおかげでもあるのでしょうし。これまでの報告からすると、セナ様はどう考えても、王族をお好きではないのよね……ご不快にさせないよう、どう切り出せばいいかしら?)
(ん? なんか難しそうな表情してるぞ。真面目な娘さんだから、つい抱え込んで悩んじゃう傾向があるってライナス君とかマイエさんとかが言ってたっけ。ターシャさんがどうしてるか心配になったのかな?)
空はすっかり暗くなり、陽輝石の灯りが湯気の中でぼんやりと霞んでいた。
お姫様、あやうく温泉を堪能しただけで帰るところでした。