169話 姫君の奮闘 (6)
(今生の別れでもあるまいし、何もそこまで悲壮感を漂わせなくたっていいでしょうよ……)
極楽快適な温泉を存分に味わい、己の杞憂のしつこさ加減を理解するがいい――侍女の背中を見送り、さて、と傍らの少女を見おろせば、何故かおずおずと不安そうな視線が見上げてきた。
「あの……失礼ですが……あなた様は、どなたなのでしょう?」
くだけた口調といいつつ、フェリシタの言葉遣いは丁寧だった。
これはもう本人の性格なのだろうから、無理に直させる必要はないだろう。
「ん? さっき名乗らなかったっけ?」
「ええっ、そ、そうでしたでしょうか!? も、申し訳ございません、聞き逃してしまいました…!!」
「いやいいけど。――私はセナ=トーヤ。セナでいいよ」
フェリシタ王女は名前を聞いた瞬間にきょと、と目を見開き、胸の中で幾度か反芻した。
「……もしや……もしやあなた様が、〈黎明の森の魔女〉様、なのですか?」
「あー、まあ」
かりかりと頭をかき、森の魔女――瀬名は内心「え、気付いてたんじゃなかったの?」と思っていた。
相手がすっかり瀬名のペースに呑まれ、気付く余裕などなかったのだが、あいにくそれを指摘できる者はどこにもいなかった。
(黒髪に、黒曜石の双眸、少年めいた姿……そうよ……それが〈黎明の森の魔女〉だと聞いていたはずなのに、どうしてわたくしは失念していたの)
今の今までフェリシタは〝森の魔女〟というものを、ローブを纏い背丈ほどの杖を持つ、妖艶な美女の姿で思い描いていたのだ。
吟遊詩人の詠う英雄譚も、おとぎ話で描かれる挿絵も、魔女はそういう姿で登場する。善き魔女はどこにでもいそうな優しそうなお婆さんの姿が多いけれど、〝黒髪〟という描写があれば、大抵は怪しげな雰囲気を醸し出す恐ろしげな老婆か、襟ぐりの広い黒いドレスの妖艶な美女であることが多い。
日頃から聡明で鋭いと言われ、その賢さを父や兄達に煙たがられているフェリシタであったが、ここに来てからすっかり自信喪失しかけていた。
しかしあいにく、王女の受けている衝撃の大きさなど、瀬名に知る由はなかった。
◇
フェリシタにとっても試練であったが、瀬名にとっての試練もまだまだ続く。
――王女様は、服の脱ぎ方を知らなかった。
お着替えは侍女の仕事のひとつだったからだ。
A・脱ぎ方を教えてあげる
B・脱がしてあげる
現実において好奇心で選択肢を誤ってはならない。
瀬名は侍女ではないのだ。そしてフェリシタ王女はちびっこではなく、年頃のお嬢さんである。
ここはA一択であった。
これでも動きやすいシンプルなものを選んでいたらしく、裕福な商人のお嬢様レベルの服は、瀬名でも初見で脱ぎ着の仕方がわかった。
少々難解だったのは、上の服より下着である。紐で調節するタイプの矯正下着だったので、脱ぐ分には紐をほどけば済むけれど、自力で着られるものではなかった。
さすがにこれは、帰る前にターシャに着せ付けてもらうしかないだろう。着替えはちゃんと用意してあるので、湯上がりですぐに身に着ける必要はない。
もたもた恥ずかしそうに、一生懸命、透き通る花弁のごとき白い素肌をあらわにしていく美少女。
誰のためのサービスイベントなのだろうか。後でライナス青年に怒られそうな案件である。しかし脱ぎ方すら不得手だったお姫様を置いて、「先に入ってるからね」ができなかったのだからいたしかたない。
なんとか脱ぎ終えた衣類を脱衣所の籠に入れて、いざ湯殿へ。
ちなみに瀬名は、温泉でバスタオルや水着を着用するのは無粋だと思う派であった。ゆえに二人とも生まれたままの姿である。
そしてここでも試練が待ち構えていた。湯に浸かる前に身体を洗うよう言った瀬名に、フェリシタは恥ずかしそうにおずおずと、自力で身体を洗ったことがないと告白したのだ。
A・洗い方を教えてあげる
B・洗ってあげる
C・一緒に洗いっこする
(何故そんな選択肢が湧いた)
そもそもイベントを起こす相手を間違えていないか。
A以外のどれを選べというのか。
後でライナス青年に以下同文。
これだからゲーム脳は困るのである。ここまでの冒険を記録して全パターンを制覇してみたい欲求が生じるけれど、現実において選べる選択肢はひとつだけなのである。
うっかり百合の花が咲きそうな選択肢は断じてNGなのだ。Aと見せかけてBももちろんアウトだ。
瀬名は好奇心に厳重に蓋をした。
「はい、そこに座って~。はいこれ、身体洗い用の布ね~。この桶にお湯を張って~。こんなふうに布を浸して~。濡らした布にこの瓶の中身をこのぐらいかけて~」
「は、はいっ。――この、とろりとしたものは何なのですか? とってもいい香り……」
「これねえ、液体石鹸なんだよ~」
「液体、石鹸、ですか? 粉や四角い塊ではない石鹸なんて、初めて見ます……!」
「最初は固形の石鹸も作ってみたけど、湿気でとけちゃってね~。勿体ないから」
「作ったのですか!? 石鹸を!?」
「うん。自家製~。ちなみに材料の問題で大量生産はできないから、この森のお風呂限定。輸出の予定もないよ~」
王女は顔に「ガーン!」と書き、次いでしょぼんとした。ポーカーフェイスは苦手ではないはずなのに、既に崩れ去ってしまっている。
(ふむ。この調子だったら、今後何かの折でプレゼントが必要な時とか、石鹸にしたら外れないかも)
それなりに風呂文化が広まっているけれど、石鹸は高価だ。
そして製紙や印刷の技術等については自重した瀬名だったけれど、快適な風呂生活には自重せず、この世界にはない種類の石鹸の製法を、門外不出で灰狼と精霊族に広めた。
〈スフィア〉にある風呂用品のあれこれを、この森の材料を使い、この世界らしく再現したので、今ではこちらの温泉を利用する日のほうが増えている。
実のところ、材料をこの森だけでまかなおうとしなければ大量生産は可能なのだが、瀬名には大々的な商売など始める気がなかった。利権がいろいろ絡んでくると、鬱陶しいことになる予感しかないからだ。
布をわしゃわしゃもんで、ふわもこの泡を作れば、次は洗い方のレクチャーだ。
「左腕を泡で撫でるように洗いましょ~、強く擦るとかゆくなったり腫れたりするから、力は入れ過ぎないようにね~」
「はいっ」
「左腕が終わったら右腕を洗いましょう~」
「はいっ」
何をやっているのだろう。そんなふうに思ったら負けである。
桶をかたむけ、泡を綺麗に流し、次は髪の毛だ。
瀬名は本来、先に髪の毛を洗う主義だった。流す時にシャンプーが身体につくのが気になるからである。だがフェリシタには自力シャンプーの難易度が高いと思われ、順番を逆にした。
案の定、洗う手つきがかなりおぼつかなかったので、これに関してはさっさと洗い終えた瀬名がやってあげることにした。それに腰近くまでのロングヘアは、慣れていても大変だと聞いたことがある。
「流すから目ぇ閉じててね。お湯が鼻に入りそうだったら、口で息するようにね」
「はいっ」
言われた通りにぎゅっと目を瞑る。まさに一生懸命であった。
豊かな髪に何度も湯をかけ、丁寧にシャンプーを流し落とすと、髪をぐるぐるひねって団子状にまとめ、頭ごとタオルで包んだ。
「よっしゃ、終わり!」
「ほっ…」
これでようやく、湯に浸かることができる。
感無量であった。二人して、何かとてつもなく偉大なことを成し遂げたような心地になっていた。
「シャンプー……髪洗い用の石鹸、目に入ったりしなかった?」
「はい、大丈夫です。呼吸が慣れなくて、少し大変でしたけど……でも、とっても素晴らしい香りでした。液体なのもそうですが、香る石鹸なんて初めてで……いつもは洗い終えた後に香油を塗ったり、香水を少しかけるようにしているのです」
「へえー」
「それに、なんて温かいんでしょう……たくさんの温かいお湯に、肩まで浸かるのがこんなに気持ちいいなんて……」
「そうでしょう、そうでしょう。まあ、慣れないとのぼせやすいかもしれないし、これでも温度控えめにしてるんだよ。私基準ではもう少し熱くてもいいんだけどねえ」
「そうなのですね……お心遣いありがとうございます。普段わたくしの入っているお風呂は、もっとぬるくて、このお湯と比較すれば水のようなものだったかもしれません。実を申しますと、公共浴場というものに少し興味があったのです。わたくしが入るなど叶わないと思っていたのですが……その、もちろん、セナ様に、たくさんご迷惑をかけてしまったのですが……」
己の無知ぶりを思い返すだに恥ずかしいのか、フェリシタは口ごもる。
加えて、身分の高い者ほど、喜怒哀楽を直接的な言葉で口にしない傾向があった。素直な正直者は腹黒い連中に言質を取られ利用されやすくなるし、たとえば食事を「おいしくないわ」ときっぱり言うと料理人が即日解雇されたりするたぐいの問題も発生するので、考えていることは胸の内に秘めるか、婉曲に伝えるかのどちらかになる。
それから、自分の口が随分軽くなっているのを自覚して戸惑っているのもあるだろう。
「んー。あのねえ、お嬢さんは相手に応じて態度や言葉遣いを選ぶよね?」
「は……はい……お気に障るようでしたら、申し訳ありません」
「謝んなくていいよ。何が言いたいかっていうと、私は単純な性格してるから、喜怒哀楽ははっきり表明してくれたほうがありがたいってこと。――このお風呂、気持ちいい?」
「は…………はい……。とっても、気持ちいいです……」
「初の大浴場、楽しんでもらえてるかな?」
「その……初めてなことばかりで、とっても大変でしたけれど……」
――たのしい、です。
余所向きの王族仕様の微笑みではなく、フェリシタは心から笑みを浮かべた。
温泉は苦手派も一定数いると思いますが、瀬名は大好き派。
王女様は小さい頃から着替えとかお風呂は侍女がやってくれていたので、世話係に世話をされても恥ずかしいとは感じません。