167話 姫君の奮闘 (4)
王都を出たのは早朝だった。時おり休憩を挟みながら、途中どこかに泊まることもなく、目的地に到着したのは陽の暮れる頃。
馬車よりも速度が出せるとはいえ、日付の変わらぬうちに着くとは思えなかったのに。
フェリシタ王女の複雑そうな視線と、ラ・フォルマ子爵の苦笑が交差し、背の高い樹々に溶けこむ柱のもとへ雪足鳥を進めた。
近付けば、そびえたつ門の神の表情が鮮明になる。旅人の覚悟を問いかける冷徹な表情に怯む心を叱咤し、王女は前を見つめた。
「……あー、しまった」
「え?」
「ああ、いえ、鳥はちゃんと先に届いていたようですね。ほら、出迎えですよ」
「!」
王女と侍女の間に緊張が走った。
マイエノーラの示す柱と柱の間に、数名の精霊族が立っている。
そのどれもが優れた容姿の持ち主であったが、中央に立つ淡い金の髪の青年は、どことなく格が違うと感じられた。
マイエノーラで多少は慣れたつもりだったのに、その認識は甘かったとフェリシタは思い知る。
【お久しぶりですね、殿下】
【そうだな】
二人は不思議な抑揚のある言語で言葉を交わした。
この場にいる人族の中に、その言語を解する者はいなかった。
【まさか殿下ご本人にお出迎えいただけるとは思いませんでした】
【適当なところで客人を降ろし、そのまま踵を返すつもりだったのに、予定が狂ったか?】
【いえいえ、そんなまさか】
その通りであった。
顔を合わせたら怒られそうだなあ、と承知していたマイエノーラは、適当なところで「ここからはおひとりで向かってくださいね」と逃げるつもりだった。
が、彼女がこの青年の気配を感じ取った時点で、この青年もまた彼女の気配を感じ取っている。
王子がいるとわかっていながら、挨拶のひとつもなく回れ右をしてしまうと、怒られるだけでは済まなくなりそうだった。
互いの腹を読み合えている二人は、ふふふ、と寒々しい微笑を交わし合う。
人族組は彼らの言語が理解できないなりに、上流社会で培われた感覚によって、どちらも目がまったく笑っていないことに気付いた。
(やはり、わたくし、歓迎されていないのかしら……そうよね、こんなに非常識な真似をしてしまったのだもの……)
(ど、どうしましょう、わたくしの首ごときで、殿下だけでも許していただけるかしら? 無理かしら? でもいざとなれば殿下だけでも……!)
(そういう方々ではない印象だったんだが……いや、考えてみれば彼らとは、いつも魔女殿がお近くにいる時にしか会ったことがないな。まずい、基本的に排他的な種族だという点を甘く見積もっていたかもしれない)
三者三様、内心で焦りながら、動揺をほとんど表に出していないのは見事である。
ただしいくら表面を取り繕おうと、そんな心の動きは彼らには筒抜けなのだった。
「案ぜずとも良い。我々はおまえ達三名に対して思うところはない。……わたしはこの森の奥にある郷の長、シェルローヴェンだ。歓迎する、客人達よ」
郷の長――つまり精霊族の王子だ。フェリシタは慌ててマイエノーラに降ろしてもらうよう頼んだ。相手が騎乗していないのに、こちらが騎乗したままでの挨拶は不敬にあたるかもしれない。
王侯貴族のマナーに照らせば、場所が外であった場合、貴人女性に自力で歩かせるほうが非常識とされ、身分の高い男性側が鷹揚に許す、あるいは「どうかそのまま乗っていてください」と懇願する。ただしそれは光王国貴族のマナーであり、精霊族に適用されるとは限らない。
果たして、雪足鳥が足を畳んで座り、その背から王女が優雅に地面へ靴をつけても、シェルローヴェンには止める様子がなかった。それを目にして、侍女も慌てて鳥から降りる。
上流階級の礼儀作法は、互いの身分によって細かい面倒な決まりがあり、即座にそれを判断して優雅に実行せねばならない。相手が他国や他種族であった場合、「どちらが上か」の判断が咄嗟につきにくく、その時にどういう対応をするかが試されることになる。
フェリシタはマントから右腕を出し、心臓の位置に手を置いて、瞼を閉じて軽く頭をさげた。これは精霊族の敬礼で、心臓は急所の位置、そして視界を閉ざすことで、敵意のなさと誠意を相手に示す意味があるのだという。
身分の上下に関わらず、敬意を抱いている相手に対して行うとマイエノーラからは聞いている。――つまり光王国の礼儀作法ではなく、相手のほうに合わせたのだ。人族の社会においては、相手国に対して深く関心があり、おざなりな対応をしていないと好印象を与えやすい。
ターシャは主から数歩下がった位置で、両手を下腹部に重ね、瞼を閉じてゆっくり会釈をした。精霊族には侍女や侍従に該当するものがなく、これは光王国の王族の侍女として、主君が礼を尽くしている場面においては最良と言えた。
「お初にお目にかかります。わたくしは――」
「堅苦しい口上は不要だ。名乗る必要もない」
穏やかとも冷ややかともとれる声音で遮られ、フェリシタはびくりと肩を揺らし、おそるおそる瞼を上げた。
精霊族の王子は、変わらず微笑んでいる。けれど相手に対し、何ら興味を抱いていない種類の微笑みだった。
「既に承知のことと思うが、我らの郷はこの森の最奥にあるゆえ、客人のもてなしには向いていない。村のほうでおまえ達を迎える準備をしているので、これから案内しよう。ついて来るといい」
言うが早いか、近くにいた精霊族が二頭の雪足鳥に歩み寄り、手綱をやんわりと奪った。
【マイエノーラ?】
【…別に逃げませんよ?】
【…………】
【…仕方ありませんね】
ふうやれやれと言いたげに、マイエノーラも重さを感じさせない身のこなしで地面に降り立つ。つまり、今この瞬間まで彼女はのんびり、平然と鳥の上に座っていた。
それ以上とりたてて何を言うでもなく、シェルローヴェンが背を向けて歩き始め、他の者達もそれに追随する。
困惑の声を漏らしたのはターシャだった。
「えっ……」
声には出さずとも、フェリシタも一瞬ポカンとしてしまった。
(ええと……これは、……歩きなさい、ということなのかしら……?)
鳥を持って行かれたのだから歩く以外にないのだが、そこに思い至るまで時間を要した。
道は奥へ行くにつれ石畳で舗装されているようだが、そもそも王女は野外で歩くという経験が滅多にない。せいぜいが王宮の庭、そうでなければ大きな町や都の通りを護衛に囲まれ、ほんのわずか歩いたことがあるぐらい。行程の大半は近衛騎士が手綱を引く魔馬の背に揺られるか、やわらかな布で内張りをした豪奢な馬車の中だ。
まさか、草や土が石畳の間から覗いている道を歩けなど、これまでそんな扱いをされたためしはなかった。
「どうなさったんですか? 置いて行かれますよ」
「!」
マイエノーラが振り返って声をかけてきた。ゆっくりとした足取りとはいえ、彼らの後ろ姿は徐々に遠くなってゆく。
「で、殿下……」
「……参りましょう、ターシャ。ラ・フォルマ子爵も」
「は、はい……」
「は。お疲れになりましたら、すぐに声をおかけください」
二人の心配顔を振り切り、フェリシタ王女は前方の彼らに追いつくべく急いだ。
昔の〝フラヴィエルダ嬢〟と比較しても、フェリシタ王女の足は細く、か弱い。さらに、靴も外歩きには向いていなかった。
決して悪路ではない。なのに、歩きづらい。――野外用の頑丈なブーツではなく、庭園をそぞろ歩くための上品な靴だったからだ。
やわらかな革はしっとり足を包み、かかとも低め。けれど作りが繊細過ぎるせいで、地面を歩く時の衝撃が足の裏にほぼそのまま伝わってしまう。
マイエノーラはそのあたりを注意していなかった。失念していたのではなく、「なにごとも経験」とばかりに敢えて黙っていたのである。
余分な荷はいらない、動きやすい装いと歩きやすい靴にマントだけあればいい。水と食料は自分が用意しておく――彼女が事前に言っておいたのはそれぐらいで、ラ・フォルマ子爵も、王女が移動する際はそうそう雪足鳥から降りないものと思い込んでいた。
(し、信じられないわ……こんなに長い距離を殿下に歩かせるなんて)
(まさか平気で殿下に歩かせるとは……つい一般的な感覚で、貴婦人の扱いを受けられるものと信じ切っていたな。これは想像以上に厳しい。やはり殿下をお止めするべきだったろうか?)
(……わたくし、自分が王女と思って、うぬぼれていたかもしれないわ。これは手痛い教訓と受け止めたほうがいいわね……)
やはり自分達は、歓迎されていない――認識を新たにした瞬間、不意にシェルローヴェンが言った。
「先ほども伝えたが、わたしはおまえ達三名に対して、何ら思うところはない。いろいろと考え込んでいるようだが、深読みしても徒労に過ぎんぞ。だいたいおまえ達は〝お忍び〟で来たのだろう? 名乗ってどうするのだ」
「あっ」
「身分に相応しい待遇を求める気がなければ、歩くのは当然と思え」
フェリシタ王女が羞恥でカアア、と赤くなった。
――もっともである。〝非公式〟の〝お忍び〟とこちら側から指定しておきながら、身分相応の扱いを求めてどうする。
ターシャとラ・フォルマ子爵もばつの悪い表情になった。「なるほど一理ある」と納得する一方、「いやそれでも王女殿下に対して厳し過ぎるのでは」と反発する心がせめぎ合う。
そしてそんな複雑な胸中は、前を行く彼らにはすべて筒抜けだった。
「この森にはこの森のルールがある。堅苦しい礼儀作法などここには存在しない。ゆえに我々はおまえ達にそれを求めることはないし、おまえ達も我々にそれを求めるなということだ。言っておくが、この程度で逐一腹を立てたり悩んだりするようなら、三日ともたんぞ」
◇
結論から言えば、道はさほど長いわけでなはかった。村の姿が森の中にすっぽりくるまれるように作られており、地形に合わせて引かれた入り口の道が若干長くなっているだけだ。
ただし、それでも箱入り王女の体力と足にはつらいものがあった。侍女と子爵の方向から気遣わしげな視線を感じながら、フェリシタはそれでも文句ひとつ言わずに歩ききった。
やがて明らかに建物と思しきものが見えてきて、その手前に、数名の半獣族の女性が立っていた。
「いらっしゃ――えっ!?」
ひとりだけ半獣族ではない、中央に立っていた黒髪、黒い双眸の――少年? が、何故かフェリシタを見るなり素っ頓狂な声をあげた。
そのまま凝視され、居心地の悪さにフェリシタは後退りそうになる。
(……あら? この方、お胸が……女性なのだわ)
一度それを意識すると、今度はなぜ見間違えたのか疑問になってくる。
シンプルだが上等そうな仕立ての服は、男性が身に着けるようなものだ。加えて、ほかの半獣族の女性達も皆そうだが、背が高い。
理知的なまなざし、凛として冷静そうな顔立ちに、どことなく粗野な雰囲気が融和して。
だから咄嗟に少年と思ったのは至極当然なのだが、不思議と〝男性〟というイメージが湧かない。そう呼ぶことに違和感すら覚える。
(こういうのを、中性的っていうのかしら)
近衛の女性にもいないタイプだった。
フェリシタは後退りそうになったのも忘れ、ついまじまじと観察してしまった。
「……シェ~ルロぉぉ~? あんた、あんたねえ、――こんなお姫様を歩かせてどうすんの!?」
「身分は言わない約束なのでは?」
「身分? そんなもん関係ない。繊細で可憐で可愛らしくて性格のいいお嬢さんは、みんなお姫様と呼ぶんだ!!」
「ああ、そういう…」
「いいかお姫様はお姫様っていう種族なんだ、適当にガンガン打ち鍛えたらなんとかなる素材と、取り扱い要注意の硝子細工の二種類あるんだよ! 友達の大事にしてる硝子細工を粗雑に扱っちゃいけません!」
「なるほど、友人の硝子細工か。その例えはわかりやすいな。今後気に留めておこう」
力説する黒髪の少年、あらため女性の剣幕に、客人達は一様に呆気にとられる。
精霊族の王子を「シェルロー」と呼び捨て、彼がまったく怒りもせず当たり前に受け止めている様子も。
「ごめんねえ、全然歩き慣れてなかったでしょ? 足は大丈夫? 靴擦れとかしてない?」
「えっ……あのっ……」
「ここまで来たら部屋まですぐだからね、あとちょっと歩ける?」
「え、あの、はい……お、お部屋、ですか?」
「そうそう、お客様用のお部屋。ライナス君からいろいろ聞いてたのを思い出して、なるべく快適に過ごせるように準備してたんだよ~」
「ええっ、ら、ライナス様、から?」
状況も忘れ、ついボッと赤くなってしまうフェリシタであった。
――フェリシタ王女は有能である。優秀で、聡明で、臣下達から「この方が王子であれば…」と悔やまれるほどの逸材である。
そして、まだ十代半ばの、恋する少女なのだった。
「今はいないけど、しょっちゅうドーミアへ行ったりこっちへ遊びに来たりするから、そのうち一緒に遊ぼうね?」
「はっ、はい…」
反射的に頷いていた。
遊ぼうね? え、どういう意味だったかしら? フェリシタはつい首をかしげそうになった。
いや、意味はわかるのだ。わかるのだが、一瞬本気で何を言われたのかわからなかった。
「まず部屋に着いたら足の様子見て、その後でお風呂に入ろうね! どうしても土埃とか汚れがついてるだろうし、綺麗に落としてから食事にしよう。お風呂、広くて気持ちいいんだよ~、半分露天にしててねえ、作ってもらう時にいろいろ注文つけたから、雰囲気のある温泉旅館っぽくなってて――温泉ってわかる?」
「わ、わかります。地熱であたためられたお湯の湧き出るもの、ですよね? 一部地域では、公共浴場に利用しているところもあるとか」
「そうそれ! 泉から引っ張ってきた水を魔石で適温にしてるから、地熱であっためられたやつじゃないんだけどね。あ、私はセナ=トーヤ。セナでいいよ。お湯に浸かってる間に食事を作ってもらうことになるけど、食べられない食材とか、どうしても苦手な食べ物ってある?」
「い、いいえ、特には…」
「遠慮はいらないから、正直に言っていいよ?」
「だ、大丈夫です。受け付けない食べ物は、とくに思い当たりませんわ」
「そう? よかった。じゃあ行こうか! こっちだよ、おいで」
「~っっ!?」
おいで、と言いながら、ごく自然に手を繋いでいた。
某青年が目撃したならば、「セナ、そりゃないよ!? 僕でさえ繋いだことないのに!!」と盛大な抗議を受けること間違いなしの光景である。
なんとなくこの流れを予想していたシェルローヴェンは、「まあこうなるだろうな」と呟いていた。
叫んで怒鳴った勢いで、段取りだの本物のお姫様への礼儀がどうだの、そんなものはもうどこかへすっ飛んでいるに違いない。
【おやおや、ターシャ殿の目が落っこちそうになってますよ】
謎めいた微笑――その腹の中身を知っている者からすれば、からかい交じりの厭らしい笑みをマイエノーラは浮かべた。
王女は会話の勢いに押され流されてしまった様子だが、はたで聞いていた侍女は、唖然としつつも〝名前〟の部分を聞き逃さなかったらしい。
ラ・フォルマ子爵が「あー…」と、なんとも言い難い表情になっている。この男がこんな顔になるのは非常に珍しかった。
【実際に会ってみれば、想像以上に細身で可憐。加えて性格も良く健気な努力家とくれば、我ら兄弟を保護してくれた時のように、年下の少女を守ってやらねばという気持ちが強くなるのだろう】
【ふふ、瀬名様がすっかり夢中になってしまって、もしや嫉妬なさっておられます?】
聞くともなしに聞いていた周囲の同胞が、内心で「げっ」と叫んだ。
普通なら避けることをずばりと突っ込む、それがマイエノーラである。
だがシェルローヴェンの反応はあっさりしたものだ。
【しているように感じるか?】
【感じませんねえ。つまらない。そこは嫉妬で身を焦がす場面ではありませんか? ちょっとぐらい何かないのですか?】
【マイエノーラ。瀬名の関心を惹きつけてやまないのは、毛並みの良い耳と尾だ。よってあの娘はその対象になり得ん】
【はい? え、なんですかそれ?】
つい素の表情が出た。それに気付き、からかい好きの厄介な女性は、素直に己の敗北を認めて引きさがることにした。
【まあ、実際にあの御方、姫君のことをかなり年下の少女のように感じておられるようですしね。……瀬名様も、まだ十七歳のはずなのですがね】
精神年齢が、十代の小娘ではない感じがする。けれどそれ以上は、さすがのマイエノーラも踏み込まなかった。
和気あいあいと――しているかはともかく、客人達が連れられてゆくのを見送り、ふ、と笑む。
【あの姫君、ろくでもない王族の身内を反面教師にされてお育ちになったのはいいのですが、真面目が過ぎるきらいがありますので、悩みを深めてしまわれがちなのです。この機会に、少しでも肩の力の抜き方を覚えてくださればいいのですが。……では、わたくしはこれで――ぐえっ】
【それらしく語った流れで消えようなど、わたしに通じると思ったか?】
【あ、あはは~…】
マイエノーラの首根っこを掴み、シェルローヴェンがうっすらと微笑んでいた。
お姫様、セナさんが名乗ってますよー。