162話 海洋の【悪夢】 (後)
ゼルシカさんの設定は前々から考えていたのですが、出番が遅くなったので唐突な印象になるかもしれません。
なので明日あたり98話のウォルド氏の台詞を加筆しようと思います。
狡獪な魔物である朱猿は、その厭らし気な賢さを発揮する余裕もなく、ただひたすら姿の見えぬ敵に必死で咆哮をあげている。
手と同じほど自由に動く足の指も使い、引きずり込む力へ全身で抵抗していた。
壁や柱にしがみつく一方、砕けた石材をつかんで無我夢中で放り投げ、その一部が通路の天井に衝突し、視界と風通しを良くしたのだ。
「でも、ご覧よ。石材の壁は砕けてんのに、骨格はほとんど影響がない。白や、これは金属かどうかわかるかい?」
――〝肯定 骨組み部分はすべて魔鉄鋼を使用〟
「やっぱりね。ありがたい」
「魔鉄鋼か。床部分を支えてるのがそれなら、奴らが多少暴れても、こちらの通路まで崩落する危険性は低いな」
「そうだね。あの怪力で石材じゃなく魔鉄鋼の欠片をぶん投げられたとしても、衝撃は広範囲に分散されるだろうから、一部が歪んで跳ね返るぐらいで済むんじゃないかな」
ほっとして呟いたカシムに、カリムが同調した。
ただし自分達に向けてそれが飛んできた場合、神官達の結界が衝突に耐えられるかは不明である。蛮勇を発揮して受け止めようと思わず、いつでも回避できるよう注視しておくべきだろう。
ところが、ゼルシカは首を横に振った。
「そうじゃないよ。あんたらの武器防具みたいに、植物系の魔物素材じゃなくて良かったっつう話さ」
「植物系だと、どんな不都合がある?」
「通りが悪かったり、耐性が高いと阻まれたりするからね。もちろんそれが武具の利点なんだが、この場合は魔鉄鋼で良かったってことだ」
「……?」
ゼルシカは通路から砦までの経路を白1号に展開させた。
砦は岸壁の窪みに合わせて建造されており、通路はちょうど砦の中央あたりを貫いている。
魔鉄鋼の太い骨組みの上に凸状の建物が乗っかっており、まだ半分ほどは未完成の様子だった。
せっかく完成した部分も、魔物達のおかげでさんざんな有様になっているわけだが。
(猿の野郎がとっ捕まってんのは通路より海側、階層は三階上か。これなら、あたしらが奴の背後をこっそり通り抜けることはできなくもない……だが)
【クラーケ】は長大な足を最大限に伸ばし、本体はいまだ海の底。朱猿を捕えているのは、その細い先端部分だけだ。
陸上は不利な自覚があるというより、水底のほうが己に圧倒的有利な環境だと知っているがゆえの行動に見える。
「海の奴に餌をくれてやろう。――食い出のある猿を落としてやって、一緒にお帰り願うよ」
「な!?」
「ど、どうやって!?」
「あそこで頑張ってる大猿に、あきらめてもらうんだよ。アロイスとメリエはここで待機してな。あたしと半獣族どもが向かう」
「そんな、いくらあなた方でも危険なのでは!?」
「そ、そうですよ! そんな危ない真似をされずとも、こっそり背後を通り抜けてしまえばいいじゃないですか!」
「そうしたいのは山々なんだがね。――馬車で待たせてるあの連中が、アレに怯まず立ち止まらずに進めると思うかい?」
「う……」
「それは……」
「無理だな」
ラザックがばっさり切り捨てた。
あの隷属の魔道具は、思考をも侵食するたぐいの道具ではない。命令に従わされていても、彼らの意識はちゃんとある。
指令用の腕輪で「進め」と命じても、恐怖のあまり従うのを拒否したり、一時は従っても途中で足が竦んで止まる者が続出しそうだった。
そうなれば彼らは隷属具によって凄まじい苦痛を与えられ、酷い時には死に至るかもしれない。
「姐さんに賛成だ。猿が運よく抜け出せねえとも限らねえし、そうなれば本体が追って出てきやがるかもしれねえ。次は俺らが、奴らどっちかの獲物になっちまうぜ」
「……そうですね。わかりました。……あなた方に、神々のご加護があらんことを」
「安心しな。もうあるよ」
「え?」
「はい?」
目が点になった神官二人を置いて、ゼルシカはさっさと指示を出した。
◇
回収した労働奴隷達の傍には、灰狼を二人残している。
戦力が多少減っているとはいえ、問題になるほどではない。
「とにかく、あの〝足〟には要注意だ。まだ何本もあるって話だからね。出てきたら、とにかく全力で避けな」
「わかった」
「なんであの数本だけしか出てねえんだ?」
――〝解 海底の流れが速いため 他の足を使い自身を固定〟
「なるほど。つうか、俺らも落ちねえようにしねえとな」
「泳ぐのは無理そうだな、こりゃ」
「落ちたらもう口の中じゃね?」
気楽そうな会話を耳にしながら、カシム達は呆れると同時に感心していた。
「よし。あたしはこの辺りで待機しとくから、あんたらは手筈通りにやっとくれ。」
「了解。合図は?」
「白が教えてくれるさ。見えないとこでも状況わかる奴がいると便利でいいねえ」
「便利で済むか……」
「まあまあカシム、かてぇこと言うなよ」
「そうそ、助かっていいじゃん」
底抜けに前向きで明るい連中に、カシムは珍しく苦笑を浮かべた。
この連中に付き合わされていると、いちいち悩むのが馬鹿らしくなってくる。
出遭えば終わりの厄災種――そんなものを間近にし、カシムとカリムでさえ、内心では足が竦みそうな恐怖を覚えていたというのに。
(仲間内にひとりたりとも犠牲者を出さない……甘っちょろい理想論だ。だがこいつらは実際、仲間の誰かがもし死んじまったとしても、あの魔女やこのゼルシカを恨んだりはしないんだろうな)
納得の上で参加したのだと言い切り、そしてそれは上っ面の言葉だけではない。
カシムとカリムはちらりと目を交わし、剣を抜いた。
戦うためではなく、これから餌やりに行くために。
実に情けない理由だが、どこか清々しい気分だった。
◇
とにかく、朱猿を落とすこと。ゼルシカの指示は単純極まりない。
できれば海に落ちてくれたなら儲けもの。もし海でなければ、魔鉄鋼の上に落とせ、と。
成功したらとにかく、建物内へ――骨組みのむき出しになっていない場所へ退避。
ラザックが何やら合点がいったような顔をしていたので、カシム達もその場では深く尋ねなかった。
無事に残っている部分の階段をすばやく駆けのぼり、あっさり現場まで辿り着く。あらかじめ大猿が暴れてくれていたおかげか、壁がいくつも通りやすくぶち抜かれており、ありがたくその穴を使わせてもらった。
唸り声と、犠牲者と思しき監視役達の血の臭い、そして強い潮の臭い――あいにく生臭さが混じって、百歩譲っても心地良いとは言えない臭いだ。
頑丈な石張りの建物の向こう、不穏な曇り空と荒れ狂う海が彼方まで続いている。
朱猿がいた。もともと大型種の魔物だが、この個体はその中でも大きい。
あの手だけで、人ひとりぐらい軽く握り潰せそうだ。
大蛇のように下半身に絡みつく怪物の足と、向こうには砦を拡張する予定だったのであろう、縦横に組まれた魔鉄鋼が見える。
まずは距離を取り、ラザックが弓を構えた。
朱猿がこちらを見た。巨大な眼が憎々しげに睨みつけてくる。
魔石の矢じりが放たれ、正確な狙いで朱猿の手に突き刺さった。
破砕音と血飛沫があがり、鼓膜を破られそうな咆哮が襲い来る。
指が一本、弾け飛んでいた。
たかが一本、されど一本。
(よし、矢はちゃんと効くな)
何も言わずとも、射手達が次々と矢をつがえ――大猿の喉がごろろろ、と奇妙な音をたてた。
「避けろッ!!」
「!!」
ラザックの声に、全員が反射的に飛びのいた。
「ゴバアァッ!!」
「――うおおっ!?」
「ひえッ!?」
大猿が口をすぼませたかと思うと、突然、凄まじい〝炎〟を吐き出した。
竜種の炎の吐息とは異なり、その奇妙な〝炎〟は、まるで粘性のある液体のように噴き出し、点々と床に飛び散る。
「こ、この野郎――変異種か!」
「よりによって!」
「なんだその変異種って?」
「通常の個体にこんな芸当はできないはずなんだよ! でもごく稀に、こういう特技を持つ個体が生まれてくるらしいんだ」
「外見は変わらんから、ほかの個体と見分けがつきにくい。ただ、強力であるがゆえに体格が大きくなりやすい。こいつを調教しようとした連中は、どうやら知らずに捕獲してやられたな」
「へえ? ひょっとして、だから下のヤツは、海から出てこようとしないのか?」
「――……」
ラザックが言い、そうかもしれない、とカシム達も思った。
既に足の何本かが、この攻撃を食らったのかもしれない。だから本体は安全な水面下に潜んだままなのか。
「だがまあ、やることは同じだ!」
灰狼達が弓を捨て、剣を構えた。背後はねっとりと燃える炎に塞がれ、間をあけて射ることは難しくなっている。
「海のヤツに気ぃ付けろよ!」
「おうよ!」
「仕方ない…!」
「腕が鈍ってなきゃいいけどね!」
全員がばらばらの方向から駆け、距離はあっという間に縮まった。
四方から全力で振るわれる刃に、朱猿の顔に困惑が浮かぶ――魔物のくせにこの種類は表情がはっきりわかるのだ。
太い指が何本か宙に飛び、悲鳴交じりのうなり声をあげ、大猿はこの闖入者どもの〝目的〟を悟った。
焦りを浮かべ、ちょこまかとうるさい生物を捕まえようと手を出そうとすれば、逆にそれをここぞとばかりに斬りつけられる。
「グボァアァッ!!」
「おっとと!」
「あぶねっ!」
逃げ場が少なくなり、海側へ徐々に追い立てられてゆく。猿もピンチだろうが、こちらもピンチになってきた。
さっさと落ちてもらわないと、自分達もやばい。
それを理解しているのか、朱い毛並みの大猿はニタアァ……と嗤った。
実に相手の不愉快さをかきたてる、陰湿な笑みであった。
(この野郎……!! ……っと、待てよ……朱……)
カシムはふと、ここへ来る前にもらった、とある物の存在を思い出した。
毒々しい色合いの、朱い何かが入った小瓶。
(液体は、薄めてあるんだったか?)
液体ではなく丸薬のほうを薬入れから取り出し、ついまじまじと見てしまう。
これはあの猿に効くのだろうか――いや、試すだけは試してみよう。
小瓶の栓の内側には斜めに溝が入っており、左右にひねることで開け閉めができるようになっている。こういう仕組みの蓋を見たことのなかったカシム達は、どうして今まで誰もこれを思いつかなかったのだろうと感心したものだ。
しかもこんな小さな小瓶の、ほんの小さな栓を割らずに……
「――うッ!?」
開けた栓をすぐに閉めた。
冷や汗がぶわ、と噴き出た。
カリムやラザック達、灰狼達もぎょっとしてカシムのほうを見やった。
そして朱い何かの小瓶を凝視した。
やばい。これは何か、やばい。
絶対に、とてつもなく、やばい何かだ。
ほんの微かなにおい。しかしカシム達の危機察知能力が、ひしひしと警告を発してくるのである。
唯一、この中で最も嗅覚の弱い朱猿だけが、それに気付いていない。
いきなりぴたりと動きをとめた小蟲達に向け、好機とばかりに口をひらいた。
「くそっ!」
カシムは咄嗟に、その大口へ全力で小瓶を投げた。蓋を閉めたままだったと投げた直後に気付いたが、後の祭りである。
舌へ「ペチョン」と当たった感触に、朱猿が「?」と反射的に口を閉じた。
そして――
あろうことか、そのまま舌の上で味わった。
巨大な朱猿にとって、小さなものは脅威ではないのだ。
何が口に入ったのか、いっそ無邪気にもごもご、と舌を蠢かせ。
硝子の小瓶の蓋が、その圧迫に保つはずがなかった。
「――――――ッ!! ッッ!? ~ッッ!?」
……その表情を、どう形容すればいいのか。
みるみる、朱猿の眼球が落ちそうなほど丸くなり、血走って――
ガバッ! と、両手両足で口をおさえた。
「あ」
「あ」
「え」
固唾をのんで見守る面々の視界から、ひゅんと大猿の姿が消えた。
直後、ゴアアン、と金属特有の音が響く。
慌てて駆け寄ると、三階ほど下の太い鉄筋に、地獄の形相でしがみつく朱猿を発見した。
眼を充血させ、舌を出してひいひい息を吐いて……。
「……カシムよ。さっきのあれ、帝国の秘密兵器か何かか?」
「…………」
何とも言い難い顔で尋ねられるも、カシムには答えようがなかった。
「っと、いけねえ。全員、魔鉄鋼に触れんなよ!」
ラザックの声で全員が我に返った。
背後の炎は時間とともに勢いを失っていた。燃え移る物体がなかったので、さほど経たずに消えるだろう。
◇
ゼルシカは待機していた場所で、白1号から報告を受けた。
「さて、仕上げといくかね。――我が神、嵐を司る【エル・フラーマ】よ。久々にちょいと力を貸しとくれ」
ふわりと髪がゆらめき、風もないのに服の裾が浮き上がった。
瞬間的に魔力が高まり、遠くで待機しているアロイスとメリエでさえ、この時、ゼルシカの気配を強く感じ取って息をのんでいた。
小さな光が立て続けに周囲を走り、弾け、ぱちぱち、と音をたてる。
かざした手の平にそれらは集まり、やがて黄金色に輝く三叉の槍の姿をとった。
小柄なゼルシカの身体に不釣り合いな大きさの槍を、彼女はいとも軽々と扱う。
退避完了、と白1号が報告し、ゼルシカは待機していた一階、鉄骨の出ている部分に矛の先端で触れた。
ごおお、と凄まじい魔力が流れ込み、流れ込む端から魔鉄鋼はどんどん熱をもっていった。
なまっていない。【エル・フラーマ】の〝加護〟が声なき声で伝えてくる。
むしろ、若い頃は力業に偏りがちだが、制御のほうは歳を重ねるほど上手くなるようだ。
建物の中で稲妻が発生する。小柄な老婆から発する輝きは魔鉄鋼のみを過たず伝わり、その金属を徐々に熱していった。
海水のかからない高さで良かった。全身に満ちる凄まじい力の中、好戦的な表情で老婆は笑む。
魔鉄鋼が内側から発光し始めた。砦内部の気温がどんどん高くなってゆく。
離れた場所から、獣の悲鳴。
ややして、焦げた臭いがここまで伝わってきた。
白1号が光る線の立体図で、状況を逐一教えてくれる。
いかにも頑丈そうな骨組みと、そこにぶらさがっている巨大なかたまり。
そのかたまりが、ついに手を離した。
そして――
「わかってるさ、神よ。さすがにあたしだって、こんなもんとまともに戦えるわきゃないさね」
潜んでいた怪物が、落ちてくるごちそうに無数の腕で絡みつき、海底へ引きずり込んでいった。
この連載を始めた直後ぐらいに、事情があって数名のキャラの設定を一部変更しました。
そのあおりを食らって出番の遅くなったキャラがいまして、ゼルシカさんと討伐者ギルド長のユベールさんがそれです。当初は二人とも、実は98話より早く活躍の場があったんですよ…。
ユベールさんなんてもっと影が薄いどころか「誰それ?」状態ですね(汗)辺境伯の親友なのに。
今月末まで、隔日更新になりますがよろしくお願いいたします。