15話 十五歳、はじまりの町で (4)
自分自身にとって動きやすい動きを、身体を動かす過程で、自分自身の感覚で判断しなければならない。
以前ARK氏にそう言われ、瀬名が思い出したのは、かつてアクション系俳優の間で流行っていた、とある変わったスポーツだった。
自分の身体を使って目的地を目指す。言ってしまえばただそれだけだが、それだけでは終わらない。
時代とともに名称が変わったり、分野が細かくなったり統一されたり色々な変化を経ているけれど、基本が大きく変わることはない。
周囲の地形・環境すべてを利用し、全身を使って速やかに目的地まで移動する。移動ルートは手すりの上や屋上など、本来なら〝道〟として認識されない場所ばかり。
移動中に本来不要な宙返りを含めたり、パフォーマンス性の強いものはスポーツとは別の分類になるとされていたが、素人の感覚ではどちらでも変わらなかった。
どちらでも格好良い。
気に入った映画のメイキング集にてその存在を知り、関連映像を貪るように探しては、時間を忘れて見入ったものである。細かい技の名前までは調べなかったけれど、人間離れした動きの数々は圧倒的で、記憶にしっかり焼きついていた。
まるで人体そのものがバネでできているかのような、軽快にして美しく、一歩間違えれば大怪我では済まない、危険で、鳥肌ものの魅力に溢れたスポーツ。
――こんなふうに動けたらいいのに。
己には不可能だと重々承知していたからこそ、憧れだけをずっと胸の中に仕舞っていた。
けれど。
(ひょっとして今ならできるんじゃないの……!?)
思い立ったら衝動を抑えられず、森の中で毎日練習に明け暮れるようになった。
はじめは単純で安全そうな動きから。慣れれば徐々に複雑で危険な技を試していく。
森の中すべてが巨大な練習場だった。
岩や人工建造物とは異なり、飛び移った枝のしなりが予想以上に大きかったり、枝の強度が足りずに折れることもあった。
落ちかけた際には、咄嗟に別の枝に足をひっかけ、反動を利用してくるりと木の上に戻る。あるいはほかの枝がない場合は、猫のように身体をまるめ、着地時に回転を加えて衝撃を流してみたり。
(やば……できる……! できるようになってる!)
底上げされまくった反射速度と耐久力のおかげで、不測の事態にもかなりの範囲で修正が可能と気付いてからは、高さへの恐怖も、失敗への不安も薄れていった。
精神的に余裕が生まれ、うまくいかなかった場合の次の行動も瞬時に取れるようになった。
羽が生えたよう、もはやそんな言葉だけでは言い尽くせないかもしれない。
四肢の先端まで血が通い、熱が全身をめぐるこの感覚。
己の鼓動がすぐ傍に聴こえ、今まさに自分が生きていると実感する。
頭上に大地があり、足元に太陽が浮かび、血と生身の肉に魂が宿っているこの感覚を、いったいどんな言葉で表現すればいいのだろうか。
今まさに自分は生きて、この瞬間に自由なのだと、生まれて初めて感じていた。
◇
強いて言うならば、人を傷つける行為ではなく、もとが健全なスポーツだったものを、実戦で利用することに多少の罪悪感を覚えていた。
否、これの発端はそもそも、軍事訓練がもとになっているのだったか? そんな噂を聞いた気がする。
どちらにせよ、せっかく多くの人々が格好いいスポーツとして後世に広めたものを、これから血生臭い目的で活用しようとしていることに、少々申しわけなさを感じる。
まあ、だからといって、油断と慢心が死に直結するであろうこの世界、躊躇いはしないのだが。
(ていうかぶっちゃけ、反撃されて中途半端に死にかけるのが一番怖いしな……)
手近な壁の、あるかないかの取っかかりに指をかけ、音を響かせずに屋根まで登りきる。
そして眼下の獲物を片付ける手順を頭の中で組み立てた。
薄汚れた灰色の石壁に囲まれ、そこらじゅうにゴミや汚物が転がっている――ずっとそれが瀬名の抱いていた〝裏路地〟のイメージだった。
けれど、そこは明るい象牙色の建物にはさまれ、狭いが陽射しの暖かさを感じさせる、異国情緒あふれる美しい場所だった。
――あんな連中さえうろついていなければ、そぞろ歩きにうってつけのスポットだったろう。
「五人か……他にも仲間いそうだな。ていうか、全員見覚えある顔だわ」
《そうですね》
むろん会ったことはない。しかし、どれもEGGS提供の資料映像で出演頻度の高かった顔だ。
危険度の高い主な犯罪者として。
詐欺、窃盗、脅迫、暴行、殺人――
仕事として請け負う者もいれば、趣味でやっている快楽殺人者もいた。
顔面が変形するまで殴り続けたり。
相手が正直に言うと訴えているのに、聞こえないフリで拷問を続行したり。
拘束した親の前で、げらげら嗤いながら娘を襲ったり。
他人を殺して奪った金で豪遊し、金銭が尽きる前に次の被害者に目星をつけ――
ああ、クズだ。胸糞の悪い。
柄に触れ、剣を抜き放った。
◆ ◆ ◆
娘は背後から口を押さえられ、悲鳴をあげる間もなく裏路地へと引きずり込まれた。
建材は何を使われているのか、壁面は肌色の石造りで、頭上から射し込む陽光に照らされ、思いのほか明るく美しい。
時おり階段状になっているため、馬車は通れない。低い場所から見れば三階建ての建物が、通路の段差をのぼりきって裏に回れば、二階建てになっていたりもする。だから誰かと待ち合わせる際、ここでは建物の高さは目印として役に立たない。
この入り組んだ道は通常、慣れた地元民しか使わなかった。そして今は皆、大通りの賑わいに引き寄せられ、近辺にはまるで人の気配がなかった。
「馬車がまだ配置についてねえ。遅れてやがるみてぇだ」
「ちっ。――おまえとおまえはあっちで見張れ。おまえはあっちだ。人が来たら手はず通りにやれよ」
「おう」
「わかった」
「何かトラブったか? 確認してこい――いや待て、来た。……おい、何があった?」
「悪ぃ、もうすぐ向こうの通り出口に馬車をつけるところだ。もうちょい待ってくれ」
「遅ぇよ! どんだけノロノロしてんだ!」
「おい、静かにしろって」
「ハッ、どうせこの騒ぎじゃ聞こえやしねぇよ!」
「カッカすんな。しょうがねぇだろ、どっかのアホが荷車倒して道塞いでやがったから、いま迂回させてんだよ」
人ごみに紛れて女を攫い、裏路地を突っ切り、人通りの少ない道へ移動。そこに待機させていた馬車へ積み込む。
女が行方不明になっていると身内が気付いた頃には、馬車はとうに町の外。
その予定だった。
「ついてねえな……」
「どうってこたねえだろ、このぐらい」
「……予定外に時間くっていいことなんざねえんだよ、こういう仕事はな」
いったい、何が起こっているのかしら――この期に及んで娘には、自身に降りかかった災いが、何と呼ぶものなのか理解できていなかった。
どうして己がこんな手荒な真似をされているのか、この男達の目的が何なのか、まるでわからない。
護衛がいなければ危険だと、昔から口うるさく言い聞かされてはいた。しかし具体的にどう危険かまでは、何も知らなかった。
ただ、恐ろしい目に遭うとだけ教えられており、何がどう恐ろしいのか、まるきり想像の外にあった。
そもそも、自分をこのように乱暴に扱える輩がいるなど、考えたこともなかったのだ。
「どうでもいいから〝商品〟を今のうちとっとと箱に詰めとこうぜ。――おいお嬢さん、ムダに暴れんなよ? 騒いだら耳そぎ落とすからな」
「ヒッ!」
怯えきって大人しくしていたにもかかわらず、娘のこめかみに短剣の刃がひたと押し当てられた。
生まれて初めて味わう、心底からの恐怖に震えながら、ひきつった頬を涙が伝う。
それを眺め、男達の中にはニヤニヤと嗤う者さえいた。
「くっく、いじめんなよ。かわいそうじゃねえか」
「なあ、こいつ、後でちょっとぐらい味見を――」
「だめだ。傷物に報酬は出さんと言われてる。前にてめえらが遊び過ぎたせいで、客から苦情が来てんだぞ」
「ちっ、つまんねえ……」
「ぼやくな。もたついてねえで鼻薬を嗅がせろ」
「へいへい」
男はつまらなそうに懐から包みを取り出す。娘の鼻孔にかざそうとした瞬間、ひゅんと風切り音が耳を掠め、
――肘から下が消えた。