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空から来た魔女の物語  作者: 咲雲
狩りと獲物
148/316

147話 悪徳貴族の令嬢、その末路 (後)

いつも読みに来てくださる方、初めて来られた方もありがとうございます。

明日は所用で更新お休みしますが、明後日また再開しますのでよろしくお願いいたします。


 薄く弾力のない粗末な寝台。横になれば敷き布越しに、木の感触が背中に当たる。

 こんなものでまともに眠ることなどできるのか。

 しかし軽く目をつむってみれば、すぐに翌日の昼になっていた。

 館から抜け出したのが深夜。その後は延々馬車に揺られ、途中何度か休憩をはさみつつ、到着したのが翌日の深夜となれば、こんな寝台でも熟睡できるほどに疲労が溜まって当然であった。

 しかし悪い話ばかりでもない。


「あのっ、子爵様は今夜にいらっしゃいますっ。それまでのお時間潰しにって、これをお預かりしてますっ」

「まあ」


 レティーシャの世話係は昨夜の不愛想な男ではなく、そばかすの可愛らしい少年だった。背丈は彼女と同じぐらいで、いくつぐらい年下なのだろう。少女めいた細身で、とても初々しい。


「ありがとう。あなた、お名前は?」

「あっ、ごめんなさいっ。ボク、名前言っちゃいけないって言われてるんです。それから、お嬢様のお名前も訊いちゃいけないって」

「あら……そうなの」


 それもそうか。レティーシャはすんなり納得した。彼女は匿われている立場なのだから。

 それにいざとなれば彼女の犠牲になってもらう者など、名前を知る必要もない。

 少年が子爵から預かってきたのはレティーシャの刺繍道具だった。気軽に持ち運べる大きさの箱の中にいくつかの糸や針、布や枠が丁寧に並んでいる。

 自分の持ち物を確保しておいてくれたらしい子爵に、少女は感激にぎゅっと胸を詰まらせる――案外役に立つ殿方だったのだと実感できて。

 この家に関しても、相談すれば頑張って改善してくれそうだ。


 少年はとてもよく気の付く従僕だった。こまごまと「お嬢様」の世話を焼き、彼女が退屈しないようにいろいろ面白い話を聞かせてくれる。

 だがあいにく、使用人達のくだらない噂話ばかりで、昨夜からの疲労が濃く残っている少女は半分ほど聞き流していた。

 本来なら貴人女性に対して、使用人が馴れ馴れしく話しかけるのはマナー違反。ましてや彼女は子爵の想い人なのだ。名を知らずとも、そのぐらい察せなければいけない。

 寛容なレティーシャは聞き流してなかったことにしてやるが、この先もし神経質な貴族に会う機会があり、その時もこんな調子でいたら、この坊やは破滅するだろう。


「それじゃっ、ボクは子爵様に報告がありますのでこれでっ。外に護衛がいますから、危ないことはないと思いますけど、なんかあったらご遠慮なく申しつけくださいっ」

「ええ、わかったわ。ありがとう。お仕事がんばってね?」

「はいっ」


 頬を赤らめ、少年は元気いっぱいに去っていった。

 貴人に対する言葉遣いや態度はなっていないが、勤めだして間もない無知で純朴な少年ならこんなものか。

 そんなことよりも、レティーシャは今夜訪れるであろう子爵へのお礼と労りと、おねだりの台詞を考えはじめた。





「すいませんお嬢様、ほんっとうにごめんなさいっ!」

「……え?」


 子爵は来なかった。その代わり、この世の終わりのような悲壮な顔で少年が床に頭をこすりつけていた。


「お嬢様をお連れする場所、ほんとはここじゃなかったんですよっ! ここよりもっと大きくて立派なお家があって、そこにご招待しなさいっていうご命令だったみたいなんですっ! だけど、誰かが手違いで……っっ」

「あ、あらまあ……そうだったの」

「はいっ! そーゆーわけですので、これからお連れいたしますっ! お疲れのところ申し訳ありません、馬車をご用意しておりますので、お急ぎください……っっ」

「……わかったわ」


 なんだ、場所を間違えていたのね? どなたが手違いをなさったのか知らないけれど、こんな大変なミスをしてしまったのだもの、きっときついお叱りがあるでしょうね。

 可哀想だけれど、仕方ないわ。だってわたくしをこんなところに連れてきたぐらいなんだもの。きちんとお仕事をできない者には、しかるべき罰をちゃんと与えてあげなければ学べないんだもの。

 レティーシャはまたあの馬車に揺られる時間を思ってうんざりしたが、それ以上に気分が浮上していた。子爵を泣き落としてもっといい暮らしを用意させるつもりでいたが、その手間が省けたのだ。

 いや、本来彼女が与えられるべき最上の環境を、無能な誰かのミスのせいで与えられなかったのだ。その者がもし言い逃れをしていそうであれば、子爵にそれとなく己の味わわされた気鬱を伝え、正当な処断をしてもらわねば。


 人目を忍ぶために、出発は夜。

 馬車の中には、粗末な使用人服を身に着けた女が先に座っていた。

 レティーシャの姿を認め、おどおどと頭を下げている。


「到着までの間、彼女があなたの身の回りのお世話をしますっ」

「よ、よよ、よろしくお(ねげ)ぇいたしますだ」

「……そう。ありがとう、お願いいたしますね」

「ははははいっ」

「…………」


 田舎臭さ満点である。これでまともな世話を期待できるか怪しいけれど、立派なお家とやらに着くまでの我慢だ。

 それにこういう娘のほうが、下手に矜持のある女より従順でいい。

 レティーシャは馬車に乗り込む直前、少年に再度名を問うた。


「ねえ、あなたのお名前を教えてくれないかしら?」

「ええっ? でで、でも」

「せっかく仲良しになれたんですもの。大丈夫、子爵様には内緒にしておいてあげるから、あなたのお名前を憶えておきたいわ」


 この先の保険として。

 名を尋ねることで特別感を錯覚させれば、その相手は少なからず自分に好意を抱き、敵対しにくくなる。

 案の定、少年は照れ臭そうに、もじもじしながら嬉しそうに、名を名乗った。

 一般的な女性の名前を。

 …………。


「……ええと。訊いてもいいのかしら? そのお名前って……」

「はい。実はボク、こんな格好してますけど、ほんとは女のコなんです」


 はにかみ笑いで、そばかすの少年あらため少女はテヘヘと頭をかいた。

 ――なんでも。少女の両親は数年前、流行り病で亡くなったらしい。

 ひとりぼっちになった少女は悪い親戚に売り飛ばされそうになり、長かった髪を切り、父親の服を来て逃げ出したのだそうだ。

 貧しい家庭で、息子が父親の服を着ている光景は珍しくない。

 お金持ちのお屋敷で働けばいい暮らしができると耳にしていた少女は、背中にペッタリはりついたお腹をきゅうきゅう鳴らしながら、知らず子爵のお屋敷の前に辿り着き、「ボクを雇ってください!」と叫んだのだそうな。

 慈悲深い主は素性の知れぬ坊やを追い帰したりはせず、使用人見習いとして迎え入れてくれたのだという。レティーシャが不愛想と感じた男は、坊やの先輩として厳しくも丁寧に仕事を教えてくれたのだそうな。


「でもボク間抜けだから、お胸がきつくなっちゃって、ゆるめてパタパタしてるところを見つかってあっさりバレちゃったんですよね」

「……そうなの」


 それはお馬鹿さんね、とレティーシャは内心思った。わたくしならばそんなドジ、しないけれど。


「でも彼、みんなに内緒にしてくれたんですっ! それだけじゃなく、ボクが男のコの格好してた事情とかくんで、いろいろ気遣ったりとか、みんなに誤魔化したりとかしてくれてっ」

「あ、あら、そうなの?」

「そうなんですっ!」


 そばかす顔がほんのり赤くなり、気のせいかピンク色のもやが漂い始めた。

 いわく。いつもは不愛想で怖い雰囲気だけれど少女にだけは優しく接してくれる青年との間にいつしかそういう感情が芽生え、どうすれば想いを伝えられるか悩んでいたら向こうから告白される奇跡が起こり、一も二もなく頷いて密かに交際を開始したのが昨年。

 ところがその後、ほかの使用人達にも二人の関係が知られてしまい、彼女の性別もばれ、悪いのは騙していた自分だから彼のことは追い出さないで、いや彼女のほうこそ悪くない自分こそがという庇い合戦をしたら、思いがけず皆から祝福され、お咎めも一切なかった。子爵は彼女と青年の婚約を認め、少女には女性用の使用人服を、青年には気に入りの酒をふるまってあげたのだという。

 頬に両手を当ててのろけまくる少女は、レティーシャの微笑みの裏に一切気付かない。


「……素敵ね? そんなにも、想われて……」

「そっ、そんなことありませんようっ……」


 ちなみにくだんの男は、少し離れた場所で周囲を警戒している素振りを見せているけれど、耳が赤い。

 レティーシャはこの娘が男ともども爆散する光景を想像した。


「お館様ってほんとうに素敵で素晴らしい方ですっ! お嬢様もあの方とご一緒ならきっと幸せになれますよっ、頑張ってくださいねっ!」

「……ありがとう」


 それだけ告げて、馬車の扉を閉めた。

 もとのような生活に戻れたら、少しずつ縁を広げていって、何年かけてもあの呪術士との繋ぎを復活させよう。呪術士への贈り物にする女の目録に、さっそく彼女の名前を書き込んで、レティーシャはふふと微笑みかけ……ガタガタガタ、と振動し始めた座席に、断念した。





 翌日の夜。連れて来られた場所は、前回の掘っ立て小屋と負けず劣らずの、みすぼらしい塔もどきであった。

 石造りの塔が半壊したような建物で、しばらく何者も住んでいないような場所である。


「こ、ここは目的地ではありませんですだ。あと半日ぐらいの距離があるだで、お嬢様にきちんとお休みいただくために、ええと、中継地点? つーところですだ」

「ああ、そうなの……」

「はい。ここ、ちっさいですだけど、古い〈祭壇(アルタリア)〉の加護がありますだで。あと、ちょくっと離れたとこ、小っさいけど騎士の城がありますもんで、おっとろしい野盗だか魔物だかは出ないとこだです」

「そうなの、安心ね」


 本当に安心した。またもやこんな場所が隠れ家と言われたらどうしようかと思った。

 全身の筋肉がこわばり、眠気にも襲われ、とどめにこの空腹感。このわたくしがお腹をすかせるなんて、あってはならないのよ――そう葛藤するレティーシャの前で、田舎臭い使用人の女は手早く火を起こし、小さな鍋に少量の水を入れて沸かし始める。

 火の魔石だ。おそらく子爵から預かっていたのだろう。彼女は携帯食の硬いパンと干し肉をナイフで削ぎ、小鍋でくつくつ煮込んで、大きめの匙で器によそった。

 粗末な食事。これがひどく美味しいなんて、そんなわけがない。空腹にがっつくことなど貴族令嬢にあるまじきはしたなさだ。ゆえにレティーシャは鷹揚な仕草で器と匙を受け取り、ゆっくり静かに上品にすべてたいらげた。

 使用人の女は食事をとる様子がないけれど、どうでもいい。石造りの塔もどきの内部には狭い部屋があり、そこにはふかふかの寝台が用意されていた。


「わだすと御者は起きて見張りしてますだで、お嬢様はお休みなさってくだせえ」

「ええ、頼みますね。おやすみなさい」

「はいだ」


 狭いが先日より遥かに上等な寝台に、内心でレティーシャは歓声をあげながら横になった。





 翌日、昼頃に目覚め、刺繍をして暇を潰し、日が暮れる頃になれば出発した。この数日、この最悪な乗り物のせいでレティーシャは全身が痛み、気力も精神力もがりがり削られ、顔色も悪くなっていた。

 館にいた頃とは雲泥の差の日々が続き、眠っても残る疲労感。わずか数日ではあるが、レティーシャの判断力は気付かぬうちにかなり落ちている。

 とにかく子爵と再会すれば、住まいもそうだが、この馬車もなんとかさせねば。

 単純な男を篭絡するあの台詞この仕草、そしてこの苦痛の時間にひたすら我慢、頭にあるのはそればかり。

 そうして、ようやくその瞬間が来た。

 もう何年も会っていないかのような心地で、レティーシャは感激のあまり、おぼつかない足を叱咤しその青年に駆け寄った。


「子爵様……! やっとお会いできたのね……!」

「ああレティーシャ、大変だったでしょう! さあ、中に入ってください」


 ええ本当に大変だったのよ、あなたの無能な使用人がミスをしたのですって?

 ちゃんときっちり、全員処罰してくださるのでしょうね?

 味わわされた不幸を、これからいくらでも訴えられる相手に再会できて、レティーシャの心は浮き立っていた。


「茶の用意をさせています。あなたのお話を聞かせてください」

「ええ、ええ、もちろんですわ」


 疲労困憊な貴人女性に、くだらないお喋りで時間をとらせるとは。先に休ませてさしあげるぐらいの気を利かせられないのか、内心の苛立ちはおくびにも出さず、差し出された手を取る。

 侯爵邸とは比較にもならないが、あの掘っ立て小屋とも比較にならない立派なたたずまいの建物だった。貴族男性が別荘として使うには充分であろう。

 廊下を歩きながら、使用人の誰ともすれ違わなかったのは、ここが〝隠れ家〟として利用されている場所だからだろう。華美さはないが、重厚な建物のつくりは悪くない――あくまでも最初の小屋と比較すれば、だ。

 一室に案内され、だがそこには椅子も何もない部屋だった。窓の向こうには目隠しの樹が立ち並び、室内には部屋と部屋を繋ぐ扉がひとつ。

 一瞬戸惑ったレティーシャの前で、子爵はにこにこと笑んだ。


「茶と一緒に椅子も運ばれてくる予定ですので、あと少しだけお待ちください。それまで、お話をしましょうよ?」

「お話?」

「はい。こちらの手違いで別の所にお連れしてしまったようですが、あなたの傍には信頼できる者だけをつけました。あの二人はどうでしたか?」

「……ええ、もちろん、素敵な方達でしたわ!」


 儚げに、清楚に。記憶の中の少女と青年を地に埋めながらレティーシャは微笑む。

 すかさず〝手違い〟とやらを起こした誰かに対するほんの少しの不満を、さりげなく悲しそうに訴えようとするも、先に子爵が口をひらいた。


「では、途中からつけた世話係の娘はどうでしたか?」

「とっても素朴な方ですけれど、誠実にお世話をしてくれましたわ。後でたくさん褒めてあげてくださいね?」


 かつてレティーシャを女神と崇めた者達と、あの娘は同じタイプであろう。

 こまめに褒めてあげれば、至上の喜びとして、やがて命をもかけてくれるようになる。

 ……本当はそうなるのだ。愚かな両親が狂気を振り撒いたせいで、自分への忠誠心をたくさんの者が失念してしまった。

 自分が失敗したわけではない。それにあれはどう考えても、邪魔や妨害をしていた者がいた。きっとあの精霊族(エルフ)が、何か悪しき方法で少女を陥れたに違いない。

 ――勘と思考能力の鈍くなっていたレティーシャは、この時まで違和感に気付けなかった。

 目の前の男が、笑顔の下で冷静に、己を観察していたなどと。


「ところでレティーシャ、質問なのですが」

「はい、なんですの?」

「あなたは何故、彼女らに世話をされていたのでしょうか?」

「え?」


 問われた意味がわからず、きょとんとする。


「最初の二人も。途中でつけた使用人も。あなたのお世話をする者としてつけました」

「え、ええ……」


 そうだろうとも。なのに、「世話をされていたのは何故か」などと、それこそ何故そんな質問をするのだろう?

 しかし次の瞬間、レティーシャは凍りついた。


「あなた、今のご自分が何者か、わかってらっしゃいます? ――まさか未だに、ご自身を貴族令嬢とでも思っていらっしゃいませんか?」

「なっ……!!」

「ぎょっとして、どうなさったんです? 何もおかしいことは言っていないでしょうに。あなたの御父上は身分剥奪の上で夫妻ともども投獄、グランヴァルの家はとり潰し。財産はすべて国が没収。そしてあなたは未婚の娘で婚約者も決まっていなかった。つまり」


 あなたはただの〝平民の娘〟なんですよ。


「し、子爵様……」

「なのにおかしいですよね。あなた、『お嬢様』と呼ばれて否定しなかったと報告を受けていますよ。世話をさせていただくと聞いても、すんなり受け入れていたそうですね。平民の自分が平民に世話をさせる状況がおかしいと少しでも思わなかったのですか? 思わなかったんでしょうね」


 これは誰だ。レティーシャは急にこの男が何者なのかわからなくなった。

 自分の信奉者。地位が低く容姿もぱっとしない。だから昔は歯牙にもかけなかった。


(ま、――まさか、そのために報復を……?)


 す、と血の気が引いた少女に、子爵はどこか哀れみを浮かべて語り続ける。


「僕があなたに報復をするつもりだとか、そんなことはないので安心してください。僕はあなたに女性としての興味を抱いたことなどありませんので、振られた過去も存在しません」

「なッ!?」


 レティーシャは打って変わって真っ赤になった。


「そ、それならば何故、そんなに酷いことを仰るの!?」

「酷いですか? 僕は単なる事実しか申し上げておりませんよ。ところで心優しいレティーシャさん。世話係の女が飲まず食わずで、あなたの眠りを守るために夜通し外で立っていたのですが、あなたどうして遠慮せず、それを当然のこととして受け入れたのですか? あなたには地位も身分も財産もなく、誰かを使う権利もなければ、彼らが献身を捧げる価値もないというのに」

「……そっ、……それはっ、あなたがっっ!!」

「僕が、なんです?」

「っ……」

「僕が、なんですか?」


 あなたが、わたくしを慕っているから――。

 わたくしを心から大切に想っているから――。

 だから、世話をする者を用意するのは、当然で――。


 さんざん疲労していたところに、特大の毒を叩き込まれ、思考が硬直する。

 レティーシャはずっと気付けなかった。この男が、どうして室内に入った今も、マントを着用したままなのか。

 にこやかに目の前に立つのを、ここまでの接近を、どうして拒まなかったのか。


「あ?」


 とす、と何かが腹部を貫いた。

 それは背を貫通し。


 熱い。

 これは。

 これは、何が。


「ところでレティーシャ。あなた、最後に鏡をご覧になったのはいつですか?」


 え? 何を言っているのだろう。


「高価な美容液、肌にいい化粧品や栄養たっぷりの適度な食事。身体を洗うのも侍女の仕事、就寝前には肌にいい香油を全身に塗らせ。指先は赤子のごとく、爪は磨かれ形よく艶やかに。だからあなたの外見は、いつだって美しさが保たれていた。けれど」


 レティーシャは男のまなざしから目を離せなかった。

 腹部を見なければ。何が起きているのか、そちらを気にせねば。

 けれど、男の紡ぐ言葉の恐ろしさに、視線をそらせない。


「あなた今、そういうの一切、ないですよね。ご自分がどんな外見になっていると思います?」

「あ……あぁ……」

「誰をも虜にする美貌。それが果たして、今も保たれているんでしょうか?」


 男は残酷に唱えた。


「さぁレティーシャ。鏡を覗いたつもりで想像してみてください、現在のあなたの〝顔〟を」

「あぁあぁああ……!」


 従ってはならない。なのに、レティーシャは想像してしまった。

 至上の美しさを保ってきたそれが、すべて失われた現在の姿を!


 男は斜め上にぐん、と腕を振った。

 熱い。熱いものが大量に流れ去ってゆく。

 全身が寒くなり、視界はぐるりとまわって、やがて急激に暗くなった。


 



「おーお……やるねえ」


 左右色違いの眼の黒猫が、室内の扉を開けて出てきた。


「密かに粘着質なお嬢さんだったみてーだし、おまえさんあんな顔近付けて殺っちまったら恨まれて呪われるんじゃねえの?」

「いえ、その心配はありませんよ」

「なんでそう言い切れんだ?」


 子爵は短剣の血をぬぐいながら、平然と答えた。


「最期の瞬間、この娘の頭にあったのは〝いま現在、自分の容姿がどうなっているか〟その一点だけです」

「っああー、だからあの質問したわけか!」

「ちなみにこの短剣は神殿で祝福印を授かっています。念のため聖石も用意していますので、弔う際には火の魔石と一緒に埋めますから死屍鬼(アンデッド)化する心配もないと思いますよ」

「……周到過ぎるぜ。平凡なツラしておっとろしいなオマエ……」


 目立たないからこそ、諜報員として優秀なわけだが。


(こんな男が忠誠誓うようなお姫さんをヨメにもらって、大丈夫なんかねあの若様? つうかそんなヨメでいいんか? って、愚問かそりゃ)


 この程度で怯んでいるようでは、あの父親の後継なんぞ務まらないだろう。

 むしろあの領地の現状に鑑みれば、このぐらいの嫁であってこそ上手くやっていけるのかもしれない。

 今この時、子爵と黒猫の頭には共通の人物が浮かび、床で赤黒く染まるものにはもはや欠片の興味もなかった。




◆  ◆  ◆




 報告を受け、少女――フェリシタは沈痛な表情で俯いた。

 首尾よくいった。それはいいのだが。


「……このような真似をする娘など、嫌われてしまうのではないかしら?」


 愛しい婚約者の青年に幻滅される瞬間を恐れ、泣きそうになる。

 尖った耳の麗人が、「そんなことはありませんよ」と姫君をなだめた。


「あなたの姉君とは違います。姉君は無知ゆえに愚行に走った。けれどあの元令嬢は、すべて理解した上で行っていました。放置しておけばいずれ必ず、再び害を振り撒き始める手合いです」


 いつか改心することを期待し、長い目で見守ってやっている間に、いったい何人の犠牲者が出るか。


「毅然としていなさい。――あの若君、あなたのそういうお姿を気に入ってらっしゃると思いますよ?」

「そ、そう? そうかしら? そうだといいのだけれど……」

「そうですよ」


 あんな諜報員を手足として使いながら、真っ赤になってもじもじ悶える微笑ましさに、麗人は苦笑をこぼす。

 第一王女の相談役として王宮に居座り、まだ少ししか経っていないけれど、この娘は結構、面白い。

 難点は、兄が鬱陶しいところか。

 何をどう勘違いしたのか、最近「あなたこそ私の運命です!」と纏わりついてくる。


(ですがまあ、この方が嫁ぐまでの一時だけですし。適当に相手してあげましょうかね……悪意〝だけ〟は皆無なのですから)


 しかし、残念である。あれが王太子であり、この娘に王位継承権がないなんて、なんの間違いだ。

 ああ、勿体ない……精霊族の美女は幻想的な美貌を曇らせ、溜め息をつくのだった。


(ところで、ドニ殿、といいましたか。これは彼に記録に残させておくべきでしょうね。今後この国で、女王の即位を見直すきっかけになるかもしれませんし)



 そうして後世の歴史に、この顛末は語られる。

 長らく表に出なかったそれは、ドニ=ヴァン=デュカスの名とともに、ある令嬢の最期と、表舞台に立つことのなかった王女の有能さを知らしめるものとなった。




実はものすごく有能な王女様。

もっと登場させてあげたい子です。

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