141話 ある日、ある森の【呪術士】が (3)
遅くなりましたが3話目です。
「ふるえ、ふるえ、ふるえ、揺らげ、揺らげ、揺らげ――【おまえはわたしのもの、おまえはわたしのもの、おまえはわたしのもの……!】」
喉がどんな構造になっていればこんな声を出せるのか、二十代前後の女性の声に中年男性のごとき低音が重なり、馴染まずに不協和音となって響く。
世界が揺れ、ずんと空気が重くなった。見えぬ何かが上からのしかかり、もしこの森に生き物が棲んでいたならば、我先に逃げ出しそうな不吉な圧力を感じる。
だが羽ばたきひとつ、足音ひとつない。
この森の主を恐れるあまり、何者も棲みつけないのか。
それとも、森自体が他の生命を排除しているのか。
ジャミレ=マーリヤの魔力に色を付けるなら、毒々しい紫色が似合いそうである。
(呪術士の魔術は、絶対に気色悪いのじゃなきゃ駄目っていう決まりでもあるのかね?)
ねっとり絡みついて糸を引きそうな魔力の質。人によってはこれをまともに浴びただけで気分が悪くなるに違いない。
カシムが「この女と顔を突き合わせていたら病む」と言っていたのは、凄惨な実験材料の末路を目の当たりにしたせいだけではなく、この気配にあてられたせいでもありそうだった。
瀬名の経験上、もふもふの耳や尾を撫でていればα波が出て、やがて心身共にリラックスできるのだが、自前の耳と尾の場合はどうなのだろう。今度いろいろ検証させてもらえないだろうか。
(つうか、あれが噂の【魅了】ってやつかな? あんなので惚れる男ってホントにいるのかな……)
あんなのにもしうっかりかかってしまったら、末代まで語り草の黒歴史になるのでは。
そんなふうに余裕たっぷりにつらつら考えられる瀬名は、もちろん【魅了】の対象外。中には男女問わず虜にするものもあるようだが、ジャミレ=マーリヤは男にしか興味がなかった。
三兄弟はこれに抵抗するために、精神力と魔力を総動員して疲弊させられたわけだが、果たして今回は――
【猛き四神の雷霆】
【天魔の剣】
【氷華乱舞】
火に油をそそぐ結果になった。
ジャミレ=マーリヤめがけて万の雷が降りそそぎ、巨大な黄金と漆黒の剣がどすどすと突き刺さり、凶悪に麗しい氷の華が咲き誇った。
「ひぎいッ、うごおッ、うがあぁッ!! ――ちょ、ま、待ち、待ちなさいよッッ!?」
【天雅の弓】
【偽神の檻】
「ふぐっ、ふぎぃっ、――待てって言ってるでしょうがあああッ!?」
「言われて律義に待つ奴があるか、阿呆が」
「なに間抜けなこと言ってるんでしょうねこの方は」
「黒光りする茶羽のあいつ並みだな、さっさと駆除されてしまえ」
うんそうだね、わかるよ、とくに最後の……心から同意である。
この世界にもあいついたよね、しかも凶化版が。いて欲しくなかったのに……ではなくて。
(またこいつとエンカウントした時は徹底的にやれって私が言ったような記憶がなくもないし。手伝ってあげるよとか言わなくもなかった気もするし)
視覚的にちょっとあれだが、彼らが荒ぶるのも仕方ないのだ。
敵にタイムと言われて律義に待ってやる必要などない。叩けるうちに徹底的に叩くのが害虫駆除の、いや強敵を倒すための鉄則なのである。
余裕ぶって反撃の準備が整うのを待ってやった挙句に逆転されるなど、阿呆や間抜けでは済まない。
とりわけ、油断が命取りになる相手の時は。
「な、な、な、なんで!? なんで平気なのよ!?」
ジャミレ=マーリヤがぜいはあ息を切らしながら愕然としていた。
――そうなのである。【魅了】が効かないのは経験済みだろうが、少なくとも前回は弱らせることに成功した。
しかし今回は誰一人弱ることなく、むしろ湧き上がる怒りでエネルギーを充填し、元気いっぱいに途切れることなく攻撃を繰り出しているのだ。
「……成功してるっぽいね?」
《そうですね。王子達は精神支配の影響を一切受けておりません。ノーダメージです》
上手くいってくれたらしい――ひとまず、ここまでは。
◇
呪術士が最も得意とするところは精神攻撃にある。
しかし兄弟達は、この女呪術士の極悪な精神波動にまるで影響を受けていなかった。
抵抗するまでもなく、〝力〟がすり抜けていく感覚がある。奇妙でいて、とても爽快な感覚であった。
(こうも上手くいくとはな)
シェルローヴェンは会心の笑みを浮かべた。前回この女にしてやられた時の記憶はないが、強力な呪詛をかけられていたことからして、相手は凄腕の呪術士か、高度な魔道具の所持者だとあたりをつけた。
彼らが敗北を喫した理由も、おそらくは何らかの精神支配系の術に抵抗しきれなかったか、抵抗しようとして力尽きたためと思われる。通常の魔術士を相手にそうそう不覚を取ったりはしないけれど、呪術士は相手の力量によっては危険だ――致命的に精霊族と相性の悪い相手なのだ。
それは彼らが生まれながらの精神感応力者であり、相手の感情を敏感に感じ取ることができるという、本来ならば最大の強みであるはずのそれが、一転して最大の弱点になってしまうからであった。
精霊族は心身ともに強く、魔力耐性も高い。しかし呪術士が得意とするのは属性魔術と異なり、大半が精神面に作用するものばかりなのである。むろん術士の力量にもよるだろうが、同程度の実力ならばあちらのほうが勝つ。
精神感応力があればどう致命的なのか。――それはこのジャミレ=マーリヤが答えだ。
こんな、狂った女の精神を、誰よりも鋭敏な感覚でまともに食らってしまえばどうなるか。
普通の狂人ならば引きずられたりはしない。耐えられる精神力を備えていると自負している。しかし呪術士は、不協和音をかき鳴らす壊れた楽器の奏者、金属と硝子が擦れ合ってぎりぎり耳を突く、その不快さが永遠に続きそうな精神波に、どす黒く澱んだ魔力を乗せてくるのだ。
そんなものを相手に、どう戦うか。戦えるのか。
その時の記憶だけは部分的に破壊され、もうもとには戻せない。ゆえに次に会っても、また前回と同じ展開になってしまいはしないか。
それを防ぐには、どう対策をとればいい?
『どうすればいいと思う?』
『えええ? そんなの、いきなり訊かれても』
『何でもいいぞ。我々だけでは発想が固定されてしまうから、単なる思い付きでいい』
むしろその〝単なる思い付き〟が目当てでシェルローヴェンは尋ねた。
なんだか瀬名に任せたら、有効な上に面白いことを思いついてくれそうな予感がして。
弟達二人も、ふうんと気にしていない呈を装い、内心は興味津々で聞き耳を立てていた。
『そーだねえ……前にあんた達の呪いが解呪された方法だけどさ。大勢の同胞が精神波を連結させてどうこうって言ってたよね?』
『ああ。我々の心が狂気へ押し流されぬよう、精神波の連結によって安定させながら少しずつ解呪したのだ』
『それ、私に対してもできる?』
『何?』
『私があんた達の精神をどうこうするってのは無理だからさ、そうじゃなく、あんた達が自分を私の精神波と連結というか同調させるというか、そういうのってできる?』
『――……』
こんな活路があったとは。あまりに単純でいながら、絶大な効果のあらわれ方に、兄弟達は笑いたくなる。
彼らは今、瀬名の〝単なる思い付き〟を実行し、そして成功した。
この恐るべき呪術士の狂った精神波動を浴びても、瀬名はぴくりとも動じていない。せいぜい「気持ち悪いなー」と感じているぐらいで、口にはしていないけれど、何かおちょくるようなことを次から次へと考えている気配がある。
それに同調させている兄弟達の精神状態は、安定して傷ひとつ受けていない。
とても愉快だった。
(だが、これだけではまだ決定打がないな。それにこの女も、まだ何かあるだろう)
長兄が思った瞬間、憎悪に震える悪しき〝魔女〟が、再び奇妙な音程の声で詠い始めた。
「ゆらげ、ゆらげ、ゆらげ、恐れ、恐れ、恐れよ――【我が此処であり、此処が我であり、わたしがすべてを支配するものである、ひれ伏し、ささげよ、我がもとへ】――」
ジャミレさんの夢は「いつか王子様を蛙に変身させること」。
変人です。