138話 瀬名 越えられない壁 断崖絶壁 帝国
昨日一日お休みしましたが更新再開いたします。
表側の人種に接することの多かったカリムより、裏側を担当していたカシムのほうがイルハーナム帝国からの心理的な束縛が強い。裏切りに対する抵抗感が強く、本当の意味ではまだ解放されたとは言えなかった。
覚悟しての逃亡ではなく、気付けば解放されていた自分の状況に、実感がまるで追いついていない。これを放置していれば、ひたすら帝国からの追手や制裁を恐れ続け、やがて迷うようになる――せっかく解放された檻の中に戻るべきではないか、と。
檻から出た自分の未来をまったく想像できないからだ。ここにいていいのか、大丈夫なのか、どうしても不安がぬぐえない。
だからもし帝国の者が接触をはかり、「今ならまだ許してもらえるぞ」とそそのかされたら、ぐらついてしまいそうな危うさがある。
そうなれば瀬名は怒るだろう。
「キミ、この忙しい時にいらん手間かけさせないでくれんかね?」と。
問答無用の押し売り救出劇だったとはいえ、誰も死なず、何も破壊せず、穏便に速やかに完了したというのに、一度目より確実に困難になるであろう二度目を、今やすっかり馴染んだ精霊族や灰狼の部族を危険に晒してまで強行する気はなかった。
第一にカシムとカリムの二人をこちら側に引きずり込んだのは、完全な善意からではなく目的があってのことだ。
(レティーシャかその協力者が、多分そいつを知ってる)
おそらくは協力者――帝国の間者であるカシムのほうだ。彼のほうこそが、そういう裏の人材には精通しているはず。
光王国内にいる協力者と人材の橋渡しをすることもあっただろう。カリムが知っていればと思ったけれど、あいにく彼は表側メインだったためか知らなかった。
けれど長年、諜報員として活動してきたプロをまともに尋問しても、あっさり極秘情報を吐いてくれるとは思えなかった。帝国に従う必要はもうない、もう自由だと説得を重ねたところで、本人がそれを実感できるようになるまでには日数を要する。しかも気長に待ってやったところで、口が軽くなるとは限らない。
短期決戦、なにごとも最初が肝心だ。
仲間になるかどうかわからないけど何ヶ月でも何年でも待ってあげよう、そんな悠長なことを言っていられるか。
待った挙句に出奔されて、帝国の刺客に殺されていたり奴隷に戻っていたりしたら目も当てられない。
物事には気長に構えたほうがいいものといけないものがあるのだ。
そんな不愉快な未来の可能性を消し去るべく、ここはひとつ強制的にさっさと仲間になってもらおうではないか。
なに、要するに「帝国が怖い」その一点が楔になっているのだろう。
ならばどちらを敵に回したくないかを天秤にかけ、脊髄反射でこちらを選んでくれるぐらいになってもらえばよいのだ。
たとえこの先、闇の中から何者かが囁いて、「我が帝国を裏切っておきながら無事でいられると本気で信じているのか? …おまえの席はまだ残されている。よく考えるがいい……ククク……」などと誘惑してきたとしても、検討するふりをして即座に報告・連絡・相談してくれるように。
美味しい食事、清潔な衣類、暮らしやすい住居、好意的な人々、真面目な働きには適切な賃金をお約束いたします。
週休二日はこの世界の常識に照らすと多過ぎて逆に困るらしいので、十日に一日は休日を設定。良好な人間関係と生活環境を提供し、ホワイトな労働環境にしっかり慣れてもらって、「あんなブラック二度と戻るか!」と思ってもらうようにするのだ。
こちらに味方をしたほうが圧倒的に安心・安全・お得だと認識してもらう、そう持っていく。
具体的な勤務内容は検討中である。彼らは今まで毎年、三百六十五日フル勤務だったらしいので、しばらく療養を兼ねた長期休暇中ということでいいだろう。
精霊族のお姉様方の仕事は完璧だった。
己の外見に絶大な自信を持つ令嬢を、美貌という同じ土俵で完璧にねじふせてみせた。
その上、さらりと邸内で共犯者を確保し――こういう時に感情が読めると強い――侯爵夫妻に【猛毒】を仕込んだ。
『それから、肝心の〝夢〟の内容なのですが――死者の〝夢〟を見るのです。それも、亡くなった本人になり、命を落とすまでの印象に残った記憶を追体験するのだとか』
『げ……何それ、怖……犯罪捜査には使えそうだけど、自分でやりたくないな……』
『そうですね。原因不明で亡くなった方の死因を探ったり、犯人の捜索などに使えるでしょうけれど、悲惨な死因であった場合は……ああ、そういえばドニさんに見せていただいた童話集の下書きに、同じものが出てきましたよ』
『童話集?』
『子供達の教材用に、この地域のおとぎ話を書き写していらっしゃいまして。ある醜い心を持った王女が、勘違いで召使いの女を処刑してしまうのです。騎士をしていた兄は嘆き悲しみ、妹の無実を晴らすために魔女を頼った。魔女は【不思議な夢を見るお薬】を渡し、王女が就寝前に飲む果実酒の中に一滴垂らすよう指示したのです』
『え、その魔女なんで王女の生活習慣なんか知ってんの!? つうかバレないように垂らすってどうやって!? そーゆーのって侍女が渡すもんじゃないの!? 騎士が王女の飲み食いするものに薬盛れる状況ってやばくない!?』
そこに突っ込むか。ラフィエナはつい噴き出した。
いや、言っていることはもっともなのだが。
『そ、そこは、おとぎ話だから、でしょうね……。土地によっては、騎士ではなく料理人だったりするらしいですよ?』
『料理人が毒を盛……いや、毒じゃないからこの場合いいのか? ……いやでも毒味係さんの人生が大変なことに……』
真剣な顔で考察しようとする瀬名に、たまらず爆笑するラフィエナ。
たまたま近くにいた男どもがぎょっとしていたが、瀬名は気付かずぶつぶつと続けた。
『……ふむ』
そして思いついた。
これ、侯爵夫妻のお仕置きにも使えるんじゃん?
己の快楽の餌食にした人々、その最期を我が身で体験してみればいいのだ。
夜食の上にほんの一滴、そして判明している限りの被害者の名を唱え。
その夜、グランヴァル侯爵夫妻は延々と悪夢を見続けたらしい。
仕上げに朝食にも一滴落として、客人の前で大暴露劇場。
コケにして、苛立たせ、追い込み、キレた少女は思い出す。かつてラフィエナ達の同胞を、呪いの毒牙にかけてのけた存在を。
直接その人物へ連絡をとる可能性は低いと考えた。彼女は父親と同じく、慎重に間を挟んでコンタクトをとる主義だった。
有能で、仕事に関しては信頼のおける協力者。
帝国においてレティーシャ=エーメ=グランヴァルを担当する者。
まだ夜の帳は天を覆ったままだけれど、さほど待たずに夜明けが訪れるだろう。
それにつけても眠い。ここのところとても忙しく、結局また徹夜になってしまった。なんたることか。ちょっと前にも徹夜したばかりだというのに。それもこれも後ろ暗い連中の大半が、夜ばかり選んで行動を起こすせいだ。たまには規則正しく昼間にやれ。
この地で暮らすようになって、早寝早起きがしっかり身についたぶん、余計にきつい。
瀬名は目をこすりそうになり、シェルローにやんわりと手を止められる。
その代わりさっきからあくびが止まらないのだが、仕方ない。我慢比べの様相を呈しているけれど、ここが勝負どころだった。
しばらく前にグランヴァル邸から鳥が放たれた。
タマゴ鳥によって追跡中だが、飛行経路は明らかにこの森を示している。
(やっぱりね)
直接そいつの元へ飛ぶ可能性もなくはなかったが、やはり宛先はこの男だったか。
やがて鳥は舞い降りる。昼も夜も関係なく。
カシムは気付いてくれるだろう。これは瀬名の問いかけであり一種のパフォーマンスなのだ。
――これでも、「帝国は無敵」であり、「逆らうのは怖い」と思うか?
次話から王子三兄弟の報復回が開始します。