136話 美しき猟犬達 (6)
誤字脱字報告ありがとうございます、いつも助かります。
たまに間違い探しのネタになりそうな誤字ありますね。
「有り得ん……」
ここへ来て以来、すっかり口癖となってしまったそれが、また口を突いて出てしまった。
頷く気配を感じ、隣を向かなくともカリムがどんな表情を浮かべているか容易に想像がつく。
グランヴァル侯爵領の中に、侯爵の〝事業〟に関する証拠はない。厳密には、証拠として法的に採用できるものはない。
よくある二重帳簿などのたぐいもなかった。これは上手く隠しているのではなく、そもそもそれ自体が存在しないのだ。
グランヴァル侯爵領の重税についてはあらゆる土地で話のネタになっているが、実は法で適正とされる範囲内におさまっており、それ以上の徴収は領民から行っていない。国法において、「この税に関しては何割何分から何割何分の範囲内で定めねばならない」と項目ごとに決められており、その上限ぎりぎりを設定しているのである。
法で定められた割合を決して破らない最大限の設定、それは他の領主もよくやっているので、この一点だけでグランヴァルが非道な真似をしているとは言えない。
ただ、不作で食料不足になろうと、天災に見舞われようと、税の据え置きなどの救済措置は滅多に行われず、治水や医療、民の生活改善などに一切金を使わない点は問題視される。結果的に貧しい民が増え、適正な税率であっても凄まじい負担となるだろう。
(それでも奴らは、〝法を順守している〟ことになる)
国が命じた公共事業でもない限り、自領の統治に関してああしろこうしろと逐一指図をする権限は誰にもない。せいぜい王宮から改善命令が出されるくらいで、それをしっかり受け止めている姿勢を見せ、ある程度の結果さえ出せれば、義務はきちんと果たされたことになる。
収入、支出ともに一切数値の誤魔化しのない、実に綺麗な帳簿なのだ。なのにあの一家の贅沢三昧が度を過ぎておかしいと、国の査察官がいくら怪しみ、密かに調査を行おうと、グランヴァル領内からは決定的なものを見つけ出すことはできなかった。当たり前だ、侯爵の〝事業〟はすべて、領の外で展開されているのだから。
名の知れた大きな犯罪組織には〝一家〟と称するところが多い。そのほとんどは上に対する忠誠心が強く求められ、崇拝あるいは恐怖により結束力は強い。
侯爵の組織は〝一家〟ではなく、期間限定の寄り集まりだ。討伐者が依頼を受けて期間内にこなすのと同様に、一定期間だけ契約によって雇われたゴロツキが〝注文の品〟を各地から調達し、指示通りの場所に保管、運搬、時に売却も行う。
寄り集まりなので忠誠心などあろうはずもなく、ただ金欲しさと報復怖さに仕事をこなし、契約期間の満了と同時に報酬を受け取って解散だ。
だいたい二~三年で解散するので、組織とさえ呼べないかもしれない。縄張りを荒らされた現地の組織が戦争準備に取りかかったり、不穏な犯罪の増加に気付いた領主が調査に乗り出した頃にはもう遅く、幻影を掴もうとして手が空を切った不愉快さだけを残して消える。
ちなみにその際の帳簿は、組織の自然解体とともに、雇われ幹部が薪と一緒に暖炉へ放り込む。何年もひたすら書類を残しておくような真似はしない。余程の額でなければ、誰かがちょろまかすのは想定内とし、多少の数値の不一致には目をつむるようにしているのだ。
最終的に利益が侯爵のもとへ集まる仕組みも、その時々によって異なるため、定石通り長期戦でグランヴァルの尻尾を掴もうとしている者は、みな根本的にやり方を間違えているのである。
かつてはそんな組織もどきを、余所の土地にひとつ、ふたつ、定期的に構えている程度だった。それが今や、いくつに膨れあがっているのだろうか。
あの姫君は、自身の魅力を幼い頃から熟知し、父親の利益へ繋がる有力者の中に、順調に信奉者を増やしていった。愚かなしもべ達は姫君に何を頼まれずとも、彼女のために侯爵にとって有益になるよう動いた。
聖女の美貌の下、悪魔の心を育んでいた姫君は、己にとって目障りな者をそれとなく狂信者に悟らせ、彼らに〝自主的に〟始末させることもあったという。己の両親のおぞましい趣味についても、気付いていながら平然と知らぬふりをし、いつも優雅にほがらかに微笑んで――
己を賛美する〝王国〟のために、彼女は両親でさえ利用していたのだ。そして当の侯爵夫妻には、まるでその自覚がなかった。
自分達こそが娘を利用しているつもりで、実態は彼女にきらびやかな生活を送らせる駒のひとつにされていたことなど、まるで気付けていなかった。
まさか既に自分達の上に、己の娘が君臨していたなどと、欠片も。
(あの一家を罪に問うには、まず何よりも〝確たる証拠〟が必要だ。それを掴むべく各地で調査を行おうにも、その土地の領主が簡単に頷くとは限らん。侯爵とは別口で後ろ暗い輩もいるだろうし、痛む腹はなくとも、探られること自体を不名誉と捉えるのが普通だ――……)
ゆえに、調査は非公式で行うしかない。宰相を始めとし、この国の有能な臣下が密かに調べていたが、侯爵の手駒や姫君のしもべの横槍など、頻繁に邪魔が入って遅々として進まないのが現状だった。
――が、しかし。
罪に問うだの証拠の確保だの、そんなもん全部どうでもいいんじゃね? とすっぱり言い切ってしまえる者がいたとすれば。
さらに宣言通り、それらをまったく気にせず平気で動けてしまう者がいたとすれば。
犯罪組織の一員になりすまし、その商品をごっそり奪うなど、正気の沙汰ではない。
そのへんのチンピラに、そんな大それたことを思いつけるはずはなく、実行できる度胸もない。
そんな恐ろしい真似をすれば、どんな報復が待っているかわからないではないか。
娼婦に入れあげて馬鹿な夢を抱き、逃亡資金をくすねる者なら時々出る。むろんあっさりバレて捕まり、女ともども行き着く果ては地面の下か河の底か、もしくは魔物の腹の中だ。
そんなもろもろを、一切合切、まるで考慮しない者なんて。
(まさかそんな奴が存在するとは思わんだろうが……!?)
幻惑的な灯りのゆらめく広場。椅子はなく、魔女以外は全員が立ったままだ。
とうに日付は変わり、根の台座に腰を落ち着け、だらりと幹に寄りかかる魔女は、時おり気怠そうに、眠そうにしている。
気のせいではなく、あくびを漏らしていた。
どうやら相当疲れていそうだが、何故かこの〝謁見〟を切り上げる様子はない。
白金の髪の精霊族が、湯気の立つ容器を魔女に手渡していた。魔女は「ありがと」と小さく礼を告げ、何度か息を吹きかけると、美味しそうにこくこく飲み始めた。
両手で入れ物を持つ姿が妙に子供じみて、和やかな空気が流れる。
だがカシムは騙されなかった。清涼感のある香りが鼻腔をくすぐり、その飲み物が眠気覚ましの薬草茶だと察したからだ。
彼にとって心臓に悪い夜は、まだ続く。
◆ ◆ ◆
ガスパール=エーメ=グランヴァル。
その妻イヴェット。
その娘レティーシャ。
ラフィエナ達五名がこの一家の〝おちょくり役〟もとい〝追い込み役〟に抜擢された理由は、至極単純なものだ。
〈聖域の郷〉に移住した精霊族の中で、女性は彼女達だけだったのである。
移住者はまず男が先に選ばれ、彼らが新しい郷の基盤をほぼ作り上げてから、ようやく女性が何名か選ばれた。それがラフィエナ達だった。
(そういえば、ご存知ない様子ですが、殿下方からは説明がなかったのでしょうか?)
精霊族は、女性優位社会なのだ。相続権は女性にあり、男にはない。
すべての郷の王は女王であり、ごくまれに男が王位につくこともあるけれど、それは直系の王女がいなかったため、中継ぎの王である場合がほとんどだ。
この真逆の社会構造が、人族と話の合わない最大の障害になっている。
(ひょっとしたら、既にご存知でいらっしゃると思ったのかもしれませんね)
瀬名はあまりに知識量が豊富で、こちらがごく常識と思っていたことをたまに「知らない」と言われた日には、たいそう驚かされてしまう。
彼女がどんな知識なら得意で、どんな知識に関しては曖昧なのか、今度詳しく尋ねて把握しておこう。
ともあれ、現時点ではラフィエナ含め女性陣は五名のみだ。瀬名としては、もっと大勢――十名ぐらいで侯爵邸に突撃して欲しかったようだが、大人数では不自然さが際立つと考え直したらしい。
何故、そんなにたくさんの女性がいればよかったのか。
それは、くだんの令嬢の矜持を徹底的にへし折り、令嬢のキラキラしい〝魔法〟にかかっている使用人や男どもへ、現実を教えてやるためである。
――おまえなんざ十人並みだ、と。
まあ、蓋を開ければ五名でも充分だったわけだが。
全員が傾向の異なる外見の女性だったため、誰かが誰かの好みに合致し、先客の男どもも満遍なく釣れている。一番頑固そうな男は、カルミーナに背中を踏まれて喜んでいたらしい……これは報告から除外しておこう。
そして、アルセリーヴェン。
この五名の中で最年長であり、最大の実力者が彼女だ。
精霊族と交渉を行う際、嘘偽りは厳禁。他種族では有名な話らしい。
それは誤りではない。ただし。
(……わたし達は嘘をつかないとも、つけないとも、ひとことも言ってはおりませんよ)
大切な友や心を傾けた相手ならば、その名に誓って嘘をつかないこともあろう。
けれど、どうでもいい相手に偽りの乱舞をかましたところで、心は痛まず、不都合もない。
(男どもに纏わりつかせて、我々が下手にうろつかないよう妨害するつもりなのでしょうが……甘いですね)
何事もないまま、通り過ぎて欲しい。侯爵からはそんな思惑が感じられ、ひそやかにラフィエナは嗤う。
もとより彼女らの目的は、この館そのものを探ることではない。
娘ならばそつなく対応してくれる――それは過去の実績に基づいた判断なのだろう。
だが残念ながら、ラフィエナ達の最大の標的は、ほかでもないその娘なのだ。
レティーシャを徹底的におちょくり、追い込むこと。
それこそがラフィエナ達の、魔女から与えられた任務なのである。
(さて、グランヴァル侯爵夫妻……まずはあなた方から、先に潰れていただきましょうか)
ラフィエナは懐から、小さな硝子の小瓶を取り出した。
黎明の森は稀少な薬草やキノコ類の宝庫であり、そのうちの一部で調合した薬液が入っている。
その名も、【夢見の雫】。
材料である夢見茸は簡単には発見できず、発見できても採集が簡単ではない。
強引にもぎ取ろうとすると、有害な幻覚作用のある胞子を広範囲に振り撒くだけでなく、そうやって採ったものは薬にならないのだ。
自発的にもげてくれた夢見茸でなければ、安全な収穫も調合もできない。
それが黎明の森の奥にはどこにでも生えていて、瀬名にはポロポロと「使っていいよ」とばかりにもげてくれるのだから、実に不思議な光景だった。
次に不思議なのは、瀬名はそれの収穫も調合も楽にできるくせに、具体的な作用については中途半端な知識しかなかったことだ。
『眠る前に服用すれば見たい夢を見ることができ、眠っている相手の唇に垂らせば、自分が指定した夢を見せられる。ただし、起きている相手に服用させたら、少々危ない作用がある……だよね?』
『間違いではありませんけど、足りない部分がありますし、用法も曖昧ですね?』
『えっ、そうなの?』
『ええ。稀少中の稀少である魔法薬のたぐいなので、わたし達以外の種族には正確な情報がないのかも……というより、古い知識が更新されぬまま伝わっているのでしょうか。まず用法ですが、必ずしも唇に直接垂らす必要はありません。もちろんそれでもいいのですが、一滴垂らした飲食物を摂取し、およそ半時以内に眠れば希望の夢を見る、あるいは指定の夢を見せる効果があります。服用したままずっと眠らなければ、とても危険な効果がいくつか現われます。よくあるのは、考えている頭の中身を片っ端からすべて喋ってしまう症状でしょうか』
『それ自白ざ……げふげふ……』
『他種族にとっては致死毒に等しい効果と聞きますが』
『その通り。あれだね、お薬の用法はきちんと守らなきゃ危ないね!』
『そうですね。それから、肝心の〝夢〟の内容なのですが――……』
ラフィエナは与えられた客室の長椅子に腰を落ち着け、ゆっくりと視線を上げた。
男どもは他の三人が別室で適当に相手をしてやっている。
そしてレティーシャは、アルセリーヴェンが可愛らしく枕を抱え、「お泊りしていい?」と寝室に突撃した。
「マーニャ、ステリア、キャス、エメリー、…………」
ラフィエナは複数の女性の名を静かに口ずさんだ。
「これで合っていますか?」
「はい。わたくしの記憶にある限り、その名の娘達で間違いありません」
作り物めいた無表情。まるで感情の窺えない。
歳はもうすぐ六十になろうか。
この館で長年勤めあげた、寡黙で真面目な執事の男である。
「わかりました。ありがとうございます」
「いいえ…」
執事の無表情は変わらない。
ラフィエナは胸中で、侯爵夫妻を、レティーシャを嗤った。
感情が窺えないからといって。
感情のない道具と勘違いをするから、痛い目を見るのですよ。
まずは侯爵夫妻から。