135話 美しき猟犬達 (5)
(まずい……まずいぞ……)
豚頭侯爵、ことガスパールは焦っていた。脂ぎった汗が滲み、他者が見れば素手で触れたくない気持ち悪さを垂れ流している。
(儂は奴らとは話さんようにして、レティーシャに相手を任せたほうがよいな)
麗しい女達に、はじめこそ興奮を覚えていたが、徐々に頭が冷えてきた。
「詳しくはご説明できないのですが、あることを調査している方がいまして、我々はその方のお手伝いをしているのです」
「合流まで数日ほどかかりますので、図々しいお願いですが、それまでこちらで滞在させていただいてもよろしいでしょうか?」
否、などと言えるわけがない。精霊族は国賓として遇さねばならない存在だ。これほど客人のいる前で追い帰そうものなら、確実に大問題に発展する。
「もちろんよろしいですよ、ねえ侯爵!」
「この悪天候です、しばらくは道中のぬかるみも続くでしょうし、明日晴れたとしても数日はこちらにいらっしゃったほうが安心でしょう!」
「私もしばらくは滞在させていただきますから、是非その間はあなた方のお話を聞かせてください。あ、申し遅れました、私は伯爵家の息子の――」
客人の男どもが勝手に承諾した上、ちゃっかり自己紹介なども始めてしまった。
己より身分の高い館の主の意思を確認もせず、勝手に決めてしまうなど本来なら言語道断なのだが、彼らは親戚という甘えがあり、酒の勢いも若干入っていた。
しかしこうなれば撤回は難しい。
(ものは考えようだ。こ奴らはレティーシャ用に集めたが、女どもの滞在中、せいぜい付き纏って行動を封じてもらおう)
もし精霊族に出会ったならば、誼を結ぼうなどと下手に欲をかいてはならん――グランヴァル侯爵家に代々伝わる教訓のひとつだ。ただ何もせず、通り過ぎるのを待て、と。
この連中の調査とやらは、おそらく巷で噂になっている魔王についてであろう。ならばグランヴァル侯爵には無関係だ。藪をつついてこちらから毒蛇の攻撃を招く必要はなかった。
事業に関する証拠など、この館には一切置かれていない。そしてこの女どもは感情を読み取れはしても、具体的な思考までは読めないはずだ。
精霊族に対して苦手意識を持つ者は多い。無謀な男どもは、若さと酒の勢いと神秘的な美女への探求心が苦手意識を凌駕しただけであり、今の自分の挙動は別段、不自然でもなかろうとグランヴァル侯爵は判断した。
翌朝、侯爵は仮病を使って寝室に引きこもった。心配して見舞おうとする娘には、執事を通して「お客様方のお相手を頼むぞ、我が娘よ」と伝えておいた。
侯爵夫人も妬心と趣味で痛めつける相手はちゃんと選んでおり、変に彼女らに会って己の敵愾心を煽らぬよう、自ら夫の看病を買って出た。つきっきりで夫の世話をする妻を装い、客人達をすべて帰すまでの数日間、苛立つ退屈さを我慢する。
なに、ほんの数日だけこらえれば、何がどうということもなく過ぎ去ってくれるだろう。
――ところが侯爵は知らなかった。
ほぼ同じ時期、他の貴族領で、密かに彼の手駒であった犯罪組織が、何者かによってかすめとられていたことを。
◆ ◆ ◆
グランヴァル侯爵の組織は、仲間であることを示す共通のシンボルの所持や入れ墨といったものを一切禁じていた。
そして下っ端のみならず中間幹部でさえ組織の全貌を知らず、すぐ上下の者の顔の判別はついても、二つ三つ立場が離れるともうわからなかった。
組織によっては自分達を〝家族〟と称するところもあり、そういう連中はトップの顔を下の者にも明らかにしている。利点は崇拝や忠誠を集めやすいこと、欠点は誰かが捕まったら首領が何者なのかすぐにわかってしまうこと。己が大元だとバレても気にしない者は気にしないが、侯爵の組織はそうではなかった。
「ヘマをやらかした野郎がいる。前のルートはもう使えん、場所を変更するぞ」
ある夜、彼らが倉庫から〝商品〟を運び出す直前、只者ではない気配を纏った男が現われてそう告げた。
その男は目から下を布で覆い隠し、頭からすっぽりローブを被っていたが、ローブの下から覗く立派な体躯は歴戦の戦士のものであり、眼光は鋭く、態度も口調も堂々として威厳があった。
ちらりと揺れる尾が目に入り、それはふさふさとして漆黒――おそらくは黒犬か狼の半獣族であろう。猫の系統に長毛種は少なく、身体もひとまわりほど大きさが違う。左右を固める手下の男達も同様で、気圧されそうな雰囲気が漂っていた。
「いつもの男はどうした?」
後ろ暗い仕事をしている者が、目から下を隠しているのはよくあることだ。だが同じ人物に何度か会っていれば、顔立ちは不明でも、別人か同一人物かぐらいの区別はつけられるようになる。
そもそも、いつもの奴は半獣族ではない。特段不審に思っていなくとも、急に別の者が来れば尋ねて当然だった。
「奴は俺らを売りやがった」
「――」
それだけで充分だった。
「あのクソ野郎が……!」
奴ならやりそうだ、と彼らは思った。
男達は殺気立ち、慌てて引っ越しを始めた。ズラかる準備はいつでも万端であり、その夜のうちに倉庫の中身は空っぽになっていた。
本物の使いの男が、ごろつき一匹いない倉庫を前にして嫌な予感を覚え、中を確認して「はァァ!?」と叫ぶのは翌日の夜のことである。
ちなみにごろつきのうち何名かは、裏切者野郎へ報復するために、密かに倉庫を張っていた。
「よぉ、お久しぶりだな」
「!! てめぇら、こいつはどういうことだ……!?」
「答える前にこっちも訊きてぇんだがよ? ……あんた、俺らを売ったんだってな?」
「お、俺が……!?」
殺気でひりつく夜風の中、ひとり、ふたり、五人、六人と徐々に囲まれ、使いの男はこめかみをひくつかせた。
男の立場は彼らよりも上であった。それゆえ、「その程度の役には立ちやがれクズ野郎ども」だの「無能め、とっとと働け!」だの、ことあるごとに罵倒しており、日頃から恨みを積み重ねていたのである。
身の潔白など訴えても、まともに信じてもらえそうな様子ではない。
そして、男は悟った。
(チクショウ、誰かが俺をハメやがったな……!!)
――あいつか、それともあの野郎か。
走馬灯のように心当たりが数名よぎり、完全に周囲を塞がれるギリギリで隙間を抜け、全力疾走でその場を逃れた。
「んの野郎!!」
「追え!!」
「ぶっ殺せ!!」
そうして不運な男の、ある意味自業自得な追いかけっこが、夜通し続けられたという。
謎の男はその報告を受け、腕を組んでこう言った。
「うむ、そういう時こそ『まさかあいつが』と庇ってもらえるよう、日頃の信頼関係は大事にせねばな!」
正論であった。
「ところで俺のあれはどうだった? なかなかのものだっただろう?」
両脇にいた男達は、「はいはい」と相槌を打ってやった。
「ガキどもの演技指導が良かったんだと思うぜ?」
「うん、あれはトール達の手腕だな」
部下からのシビアな評価に、謎の男は怒るでもなく、むしろ誇らしそうにうんうんと頷いた。
「まったくだな! トールとレストとミウにはたっぷり褒美をやらねば! 滅多に喰えん甘い菓子のほうがいいか、それとも腹たっぷり喰える屋台メシのほうが喜ぶだろうか?」
「本人達に訊いて決めたらいいんじゃね?」
「なるほどそうだな!」
トールとレストとミウは、某領地でまだ見習いランクの討伐者として日々頑張っている少年少女である。
幼いながら有能でそつがなく、そろそろランク昇格の試験に入る話が出ている頃だろう。
『おっちゃん、その台詞はそうじゃねえよ! 悪者なんだからもっと暗い感じに声落とさなきゃ!』
『首領じゃなくて、強そうで怖そうだけどあくまでも使いの男、っていう役柄なんだから、立派過ぎても駄目だよ』
『違う違う、そこはそうじゃなくてこう、こういう姿勢で! 腰に当てるのは両手じゃなく片手! そんでもってそっちの手はマントをこんなふーにつかんで、軽く胸を張りつつ猫背な感じで! そうそれ、ワルっぽくてカッコイイ!』
『あと、この台詞の後で小さく〝フッ〟って鼻で嗤うといいんじゃね?』
『あっ今のよかった』
『そうそうそんな感じ~』
そんなやりとりを経て、各地で同時に〝乗っ取り事件〟あるいは〝すりかわり事件〟が起こっていたことなど、まだ誰も知らないのであった。
ゆえに彼らの〝商品〟が、何者かにまんまとごっそり奪い取られてしまったのだと、判明するのはもっと先のことになる。
「ところでこの色はどうだ? 結構似合うと思うんだがどうだ?」
「あーはいはい、帰ったらちゃんと色戻そうなー?」
「つか、ちゃんと落ちんのかこの染色液? 落とすんじゃなく染め直すんか?」
「黒も悪くないぞ?」
「部族名が変わっちまうだろがよ」
「生え変わる時に中途半端な感じになっちまうぜ。かっこ悪いだろうが」
「む。そうだな……かっこ悪いと言われるのは嫌だな……」
後日、専用の薬液に浸けて洗い落としてもらい、無事もとの色艶に戻って、全員ホッとしたのであった。
◆ ◆ ◆
昨夜から続く悪天候の中、グランヴァル侯爵邸は病床の主に遠慮しつつも、華やかな笑い声が響いていた。
女達の纏め役であり、木漏れ日の精霊のごとく麗しいラフィエナを筆頭に。
二人目の美女はアグリーシャ。某魔女の抱いている密かなイメージは〝スーツが似合いそうな女教師風〟。凛として厳しそうな口調や外見とは裏腹に、親身になって話を聞いてくれる先生を恋い慕う男子はきっと多い。
三人目の美女はエヴィネリーツェ。某魔女の密かなイメージは〝イケナイ保健医風〟。やや垂れた眦に泣きぼくろ、白を多く用いたシンプルな衣装でありながら、却って本人の妖艶さを浮き立たせ、血迷う男子はきっと多い。
四人目の美女はカルミーナ。某魔女の密かなイメージは……〝夜の女帝〟だ。色素の薄い髪色の多い中で唯一の黒髪。釣り目がちのキツい顔立ちなのに、まなざしがやけに優しく慈愛に満ちて、「踏んでください」ととち狂う子羊は多分多い。
図々しくも館への滞在を延ばした男どもは、全員がすっかり彼女達の虜になり果てていた。昼なのに暗い窓の外へ不安そうな視線を向ける彼女らを、明るく楽しい話題で浮上させようと尽くしまくっている。
そして、五人目。
本名は〝アルセリーヴェン〟なのだが、訳あって略称の〝アルセリア〟を名乗っていた。
「まあ、アルセリア様はとてもダンスがお上手でいらっしゃるのね! 軽やかで、とても素敵ですわ」
「うふふ、レティーシャ様のほうがとってもお上手よ? 先ほどのステップなんて、つい見惚れてしまったわ」
誉め言葉に初々しく頬を染め。
「まあ、アルセリア様のお声って、なんて素晴らしいんでしょう…! わたくし、このように素敵なお歌は初めて聴きましたわ!」
「こちらのお歌とは旋律が少し違いますから、珍しいかもしれませんね。でもわたしなんて、お姉様達に比べたら、子供っぽくて…」
恥ずかしそうに、切なげに目を伏せ。
「わたくし、アルセリア様達が来てくださってとっても嬉しいですわ。もしご不便や失礼があるようならば、遠慮なく仰ってくださいませね?」
「まあ、そんな! わたしこそ、とっても嬉しいわ……だって、あなたのようなお友達が欲しかったんですもの」
心底感激したように紅潮した頬、潤んだ瞳……。
「……ふふふ……」
「うふふ♪」
「…………」
とびきりの微笑みを――優雅で可愛らしく邪気のない、けれど女性の階段を上り始めた少女特有の魅力を放つ微笑みを、レティーシャはひたすらずっと貼り付けていた。一瞬たりとも引きつらないのは実に見事である。
逆にレティーシャの侍女達は、時おり顔がひくつきそうになっていた。
主以上に美しい娘など、この世のどこにも存在しないと信じていた。なのに、レティーシャとアルセリア、この二人が並んだ途端、その常識はあっさりと破壊されてしまったのだ。
しかも、あらゆるところが全体的に被っている。
醸し出す浮遊感、優しく愛らしい口調、高貴でありながら気さくな態度、華奢で守ってあげたくなる儚さ――
被っているからこそ、双方の〝格の違い〟が浮き彫りになっていた。言ってしまえばレティーシャは賛美の言葉で表現できる美少女であるのに対し、アルセリアはあらゆる賛美の言葉が陳腐と化して、最後はもう何も言えず、見惚れる以外できることがなくなってしまう。
勝負にならない。それを今、グランヴァルの自慢の〝姫君〟は、生まれて初めて味わっていた。
自分が今までやってきたことを、そっくりそのままやられてしまってるレティーシャさん。
侍女、超気まずいです。