132話 美しき猟犬達 (2)
二年前、レティーシャが十四歳になる頃、ガスパールは玩具遊びをやめた。
この国の第一王子たるシルヴェストルが、レティーシャを見初めたからである。
ガスパールは領主として無能であったが、悪党としてはそれなりに有能だった。グランヴァルの所業を知る者の大半は距離を置こうとするが、同じ穴の狢はどこにでもおり、そうでなくとも熱にうかされた男は愚かになるもので、令嬢を妻にと望む声はそれなりに多かった。
可愛い娘を出来るだけ高く売りつけたいと、有象無象から舞い込む縁談は躱し続け、とうとう大物が釣れた時は夫妻ともに狂喜したものである。娘自身も頬を赤らめ、王子からの恋文を喜んでいたので、「これは訪れるべくして訪れた運命の神のお導きだ!」と本気で叫んだ。
ただ、密かに手広く行っている〝事業〟はともかく、目をつけた若い娘を半ば誘拐同然に自室へ連れ込み、いたぶりを尽くすたぐいの遊びはさすがにやめた。王族の婚約者候補となれば、その娘の身辺は徹底的に洗われ、両親への監視の目もきつくなってくる。
証拠など何ひとつ掴めはしないであろうし、娘にもバレていないはずだが、使用人の誰かが口を滑らせてしまうかもしれない。
そこで、使用人をごっそり入れ替えてしまうことも考えたが、解雇された後で館の内情を声高に訴える輩が出る恐れもあった。それより手もとに置いておき、他家よりも高い給金を渡して、「貴様らは儂の共犯なのだ」と折に触れて思い知らせておくほうが安全だろう。
親兄弟がいれば「家族がよく働いてくれている」と、ねぎらいの言葉とともに金品を渡し、さまざまな事柄で便宜を図ってやる。そうすれば、家族からの期待、あるいは家族を人質にとられた恐怖、あらゆる意味でますます裏切ることができなくなるのだ。
第一王子の婚約者の座は競争率が高い。しょせんは下々のたわごとであろうと、四角い器の隅をつつくようにガスパールの〝お遊び〟をあげつらい、邪魔をしてくる輩が必ず出る。
王子が館に滞在する日のことも踏まえ、証拠や証人などを確保されてしまわぬよう、少なくとも娘と王子の婚姻が確たるものになるまでは、目立ちそうな悪さを一切やめた。
その分の反動が美食への欲求に向かい、ますます肥え太った上、使用人への八つ当たり折檻が酷くなるのだが、この程度なら他家の貴族でも別段珍しい出来事ではなかった。
幸い、シルヴェストル王子は非常に素直で善良な青年であった。公正な彼はグランヴァルの黒い噂についても、「くだらぬ噂などに左右されず、そなた自身の口から直接訊きたい」と、ガスパール本人へことの真相を尋ねてくれたのだ。
もちろん夫妻は悲し気に瞼を伏せ、真摯に答えた。
「噂は噂にございます、殿下」
「民草は我らの苦労を知らず、ただ不平不満をどこかへぶつけたいだけなのです」
「されど、無知にして弱い彼らを誰が責められましょうか。彼らはただ無知ゆえに、懸命に生きておる者どもなのです」
「鵜呑みにされる方がおるのは悲しいことではございますが、なに、たわいもないお喋り遊びでしかありませぬ」
「それでどなたかの多少の憂さが晴れようものなら、それでよろしいのですよ」
王子は夫妻にそのような質問をした己を恥じ、レティーシャ姫を我が妃にと父王へ訴えた。
侯爵夫妻にとって少々計算外だったのは、王妃のみならず、優柔不断な傾向が強まっている国王まで頑として頷かなかったことである。
反対意見も予想以上に強く、侯爵はたるみ切った頬の下に忌々しさを押し込め、気長に待たねばと胸に言い聞かせた。素晴らしい娘は王子の心をしっかりと掴んでおり、これからますます美しくなるだろう。
時間の問題だ。より慎重に〝事業〟を継続し、誰もグランヴァルを妨害できぬよう力を蓄えるのだ。
あの潔癖で正義感の強い王子が、レティーシャ以外の小娘を妻になど、望むはずがないのだから。
◆ ◆ ◆
さながら、神殿の奥でひっそり佇む、つつましやかな白い花。
慈悲深く清らかな心、それがそのまま形に現われたかのような美しさ。
グランヴァルの奇跡と呼ばれるたった一人の令嬢、レティーシャへ捧ぐ賛美の言葉は尽きない。
おぞましい両親のもとに生まれたのが、彼女の最大の不幸。不幸中の幸いなのは、そんな両親でさえ、娘のことだけは可愛がっているという点であろう。
政略のみで嫁がされる貴族令嬢と比べ、少なくとも王子は相思相愛の相手であり、その妃にとごり押しされるのは彼女にとって不幸ではないはずだ。
あんな両親を、優しい娘は心から愛している。
どうかその幻想が、覚めてしまわなければいい。
――それが、世間一般の、〝レティーシャ〟と呼ばれる娘への認識。
では、実際はどうだったのか。
ふくふくと愛らしい赤ん坊だったレティーシャは、領主夫妻の怒りを恐れる乳母や世話係によって、とても丁寧に、大切に、慎重に育てられた。
両親ではなく明らかに祖母や曾祖母の美貌を受け継いでいた令嬢は、何もかもが愛らしく、ちょっとした癇癪でさえ微笑みを誘われてしまう魅力的なお子様だった。
彼女が片手で数えられる年齢だった頃のことである。幼い子供の健康を願うため、神殿で祝福の祈りを唱えてもらう行事があり、乳母や侍女達と手を繋いで、護衛騎士に守られながら神殿へ向かった、その帰りのことだ。
形式的で退屈な儀式はあっさりと終わり、侍女が用意していた昼食をとって、さあ馬車に乗り込もうという時だった。
みすぼらしいボロを纏った痩せた男が、食べ物を乞うてきた。
乳母も侍女も顔をしかめ、騎士達は罵倒した。がりがりに痩せている男は、それでも半泣きで哀れっぽく訴えた。何日もまともに食べてない、腹が減って死にそうだと。
レティーシャは、その男を「気持ち悪い」と思った。醜いし、汚らしいし、臭くて不気味で、護衛騎士達とはまるで違う。それが同じ人族だとは思えなかった。
だいたい〝はらがへってしにそう〟って、どういう意味なのだろう?
そんなに必死になるようなもの?
食べ物が欲しいんなら、食べ物をあげたら、さっさとどこかへ行ってくれるかしら。
レティーシャは乳母に、彼女らが持ってきていた籠の中身をあげるように命じた。
中には、野菜や薄切りの燻製肉などを挟んだパンがいくつか入っている。嫌いな種類の野菜が入っていたので、「今はお腹がすいてないの」と半分ほど残していたのだ。
本来ならば「いけませんよ、きちんとお召し上がりにならなければ、健やかにお育ちになれません」とたしなめるのが乳母と侍女の役割なのだが、侯爵夫妻の豚頭鬼のごとき体形や容貌が脳裏をよぎり、空腹でもない令嬢へ無理に食事をすすめることができなかった。
それでも、ひょっとしたら道中でお腹がすくと言い出すかもしれない。館に帰り着くまでは念のために残りをとっておき、帰り着いたら廃棄する予定だった。
貴重な食べ物、しかも高品質の材料でつくられた、腐ってもいない食べ物の廃棄。平民の使用人達なら心底嫌がりそうな仕事だろう。令嬢の傍仕えは下級貴族や豪商の娘であり、心理的な抵抗感は彼らほど高くなかった。
それでも、令嬢のためにと作られたパンを、こんな物乞いごときに食べさせてやりたくはない。彼女らのこだわりはそこにあった。しかし当の令嬢が「あげて」と命じるからには、聞かないわけにもいかない。
ゆえに、「お嬢様に感謝するのですよ」と居丈高に、籠の中身を渡してやった。
「あぁ……ありがとうごぜえます、ありがとうごぜえます、こんなにたくさん……!!」
小さな娘の食事の、食べ残し。
たったそれだけのものを、まるでこの世のすべての黄金を前にしたかのように、男は呆然とし、平伏してむせび泣いたのだ。
泣きながら、パンを食べた。美味しいとまた泣いた。
そうして、「なんてお優しいお姫様だ」と何度も何度も感謝を告げた。
(………)
その瞬間の感覚を、どう言い表せば良いのだろうか。
幼いレティーシャの足もとから頭頂まで、雷が地から天へ貫き昇る感覚。
それは、愉悦だった。
知らず、レティーシャの唇は笑みを形作っていた。
赤い果実のように紅潮した頬、潤んだつぶらな瞳――
それを目にして、乳母や侍女達は感嘆の溜め息を漏らした。
私達のお仕えするお嬢様は、なんてお可愛らしく、心優しい御方なのだろう。
ごくわずかな食べ物をもらい、気休め程度に空腹を満たせた物乞いはさらに言った。
「なんて清らかで、女神様みてえな御方だ……!」
ああ、なんて。
なんて、気持ちいいのかしら?
跪かれ、褒め称えられ、賢いレティーシャは理解したのだ。
己がどれほど素晴らしい存在であるのかを。
レティーシャが歪んだお姫様になったきっかけ。
侯爵夫妻が直接の原因ではないのでした。