130話 魔女に囚われし者達の集い
「な、な、何だ? あああんた誰だ?」
「――――」
がくり、と脱力しそうになった。この間抜け面、この反応、確かにあの小物臭漂う〝運び屋〟だ。
どこかで野垂れ死んでいると思いきや、こんなところに隠れていたとは。
「俺の兄弟のカシム。誰かに話聞いてない?」
「あ! あんたの双子の兄弟か! こないだ運び込まれたっていう…」
「そうそう。今朝ようやく起きれたんだよ」
「そうか回復したのかあ、良かったなあ」
「……」
カシムは両手で額を押さえてしゃがみこんだ。
カリムと双子設定にも物申したいが、それよりも。
(こ、の、野郎、……染まってやがる……!!)
柔軟にもほどがあるだろう。行方不明になって、いったいどれだけ長い年月が経過したというのだ。
しかし考えてみれば、裕福な高位貴族の次男坊生活から、最底辺の貧民生活に転落しても、びくびくおどおどしぶとく生き延びてきた男である。その適応能力の高さは、思った以上に馬鹿にできないのかもしれない。
カシムは奇妙な敗北感に苛まれながら、ドニという男に対する評価を、ほんのわずか、小指の先程度に上方修正した。
「おおおい大丈夫か、いきなりどうした!?」
「……放っとけ」
「大丈夫、ちょっとね、意外なところで意外な人に会ってびっくりしただけだから」
「意外な人って、さっきもなんか言ってたけど、俺のことか? ……ええとすまん、俺、あんたとどこで会ったっけ?」
とぼけているのではない。本気で誰だかわからないのだ。
無理もない。カシムがドニに会った時はつねに変装し、裏稼業特有の陰鬱な雰囲気を強く纏っていた。年齢も四十~五十代ぐらいに見えていただろう。
だがこの男が変装を見抜けないのは仕方がないとして、初見でこの男をドニと見抜けなかった己がカシムは屈辱でならなかった。
今のドニは、以前とは臭いからして違っている。悪臭漂う貧民街で長く過ごせば、何かが腐った臭いと、酒の臭いと、不潔な衣類の臭いと、とにかく全身にそれらが染みつき、多少洗った程度ではなかなか落ちなくなるものだ。
なのに、清潔な衣類を纏い、食事と睡眠と休養も充分にとり、何かの香草や薬草類の芳香が移りでもしたか、鼻をつまみたくなる悪臭が完全に消え去り、おそらく体臭も変わっている。
嗅覚で相手を判別することの多い半獣族としては、非常にショックなのだった。
「俺らの前職知ってる?」
「あ、ああ……帝国に間者をやらされてた、って聞いたぞ。あれほんとなのか?」
「ほんとだよ。ドーミアにも何度か潜入してて、だからあんたが〝運び屋〟をやってた当時を知ってるのさ。あまりに変貌してて一瞬誰だかわかんなかったぜ?」
「うっ……」
ドニは盛大に顔を歪め、次いでしゅんとうなだれた。
「あん時か……忘れてえけど、そうもいかねえよな……」
「どん底の極貧生活なんて、思い出して愉快なことなんてないしね」
「それもあんだけどな。俺、すげえ間抜けなもんだから、知らないうちにやべぇモン運ばされて……そのせいで、人が大勢死んじまったことあるんだよ。『騙されただけだ、俺は悪くねえ』なんて思い切れねえし、俺が運ばなかったところで別の誰かにその仕事が回されてただけだっつーのもわかるんだけどよ……あれはもう一生、忘れらんねえだろうな……」
「………」
「………」
運ばせた張本人と、その張本人を知っている男が目の前で聞いているなどと、もちろんドニは知らない。
二人は手近な椅子に腰を下ろして誤魔化した。さすがに少々、気まずい。
「あー、……さっきから何をやってんだ?」
「これか? 教科書作ってんだよ」
「きょ、教科書? 作ってんのか、おまえが?」
「作るしかねえんだよ、教材ねえから。まともな書物は目ん玉飛び出るぐらい高価ぇし、どこにでも売ってるわけじゃねえし、売っててもやたら小難しい専門書だったりするしな」
学を修めた大人が読むような書物は、子供の読み書きの教材にはどのみち使えない。だから、初心者でもとっつきやすい教科書を作成しているんだとドニは言う。
呆然としながら、カシムはドニの手書きの教科書を手に取り、ぱらりとめくった。
それこそお手本として申し分のない、整った文字と文章が目に飛び込んでくる。
「……読みやすいね。よくまとまってるし」
「……本当に、おまえが書いたのか? 本当にお前の字か?」
「いま現在、書いてるじゃねえか。どう違うってんだ」
「……この、かみ砕いてわかりやすいこれを、おまえが? 本当に?」
「わかりやすくしなきゃ駄目だろ。習いたての奴用なんだから」
残りの作業を再開し、顔を上げずにドニがさらっと答える。
「基本の文字表と単語の教科書はそっちの山。そっちに積んでんのは算術。あんたが持ってんのは国法と領主法をなるべく簡潔に要点だけまとめたやつで大人向きだな、調べ直したら結構知らねえ法とかあるんだよ。ちなみに今書いてるこいつはラグレインって童話作家? の作品集を現代の文法と言い回しに直して書き写してるとこだ。文法憶えるなら物語にしたほうがとっつきやすいからな」
「…………」
「ただ難点は紙なんだよな。買うと高価くつくし、なんとか村で自作できねえかって試行錯誤してるとこなんだよ。魔獣素材の皮紙はたいがい丈夫で作るのも早い利点あんだけど、速く書こうとするとペン先が引っかかって、途中で手首が疲れてきやがるし。精霊族に基本教わって植物素材の紙を作ってみたら、今度はインクが滲み過ぎたり脆くてすぐ表面がボロボロになっちまったりしてな、何でもそうだけど上質のモンを完成させるにはそれなりの手間がいるってことだな。最初っから完璧なやり方を訊きゃあいいんじゃねえかっても思うけど、技術は一朝一夕で身につきゃしねえだろうし、何から何までおんぶにだっこじゃいけねえ、自力でやれるとこは自力でやらねえと。んで、とりあえず読み書き知らねえ奴が最初に手にする簡単なやつだし、内容が呑み込みやすくなってりゃいいつーわけで、見栄えは二の次にして安モンの皮紙で作ったのがこいつらだ。いつか皮紙も植物紙も質を向上させてやるのが今後の課題つーか目標だな」
「…………」
「ちなみに精霊族がよく使うのは魔術の透かし入れたやつで、到底俺らが作れる代物じゃねえんだと。そんなもん普段使いにすんなってんだ。ところであんたら、帝国の製紙技術どうなってんのか知ってるか? そこそこ上質で書き心地良い紙があっただろ、あれって最高級品なんか? 違うんなら素材の配合とか手順とか教えてもらいてえんだけど。できれば材料は樹木以外で大量に集めやすい代替植物か何かを――」
「…………」
「…………」
「おおーい、どうした? 聞いてんのか?」
「はっ」
「!」
二人は我に返り、しばし呆然。
やがて、初めて目にする生き物のようにドニを見るのだった。
◇
作業がようやく終了し、大量の教科書が積み上がっている。
ドニは満足げだ。二人は無表情で、この世の摩訶不思議を眺めていた。
カシムより多少早く来ただけの新参者に過ぎないカリムは、今まであだ名やからかい交じりの感覚で「ドニ先生」と呼んでいたが、冗談では済まないレベルだと悟った。
こいつはもう、見るからに小物で小悪党にすらなれなかった、中途半端な運び屋ドニではないのだ。
そうして、この不思議を創りだした魔女について、改めて底知れない不気味さを感じる。
「何を考えてやがんだ、魔女ってやつは……」
カシムの漏らしたうめきともぼやきともつかぬ言葉に、ドニは「あ~…」と同意の表情を浮かべた。
「おまえ、魔女とやらに詳しいんだろう?」
「詳しいっつってもなあ。あの人の思考回路が理解できるようじゃ、人外に足突っ込んでるぞ」
「少なくとも、俺らをどうするつもりなのかは聞いてねえのか?」
「全然。俺も突然だったからなあ。混乱してるうちに保護されることが決まって――ああそうだ! どうも俺、デマルシェリエの動きを誘導するための道具だったみてえなんだよな! あんたら、帝国の間者だったんなら知ってるんじゃねえ?」
痛い所を突っ込まれ、二人はつい目を見合わせた。
「やっぱ知ってたんか。グランヴァル侯爵領へ疑惑を誘導するつもりで、いろいろ工作してる奴らがいるんだろ?」
「……誰から聞いた?」
「だから、魔女だって。当たりか?」
大正解だ。まさにその工作を担っていた者の一部が、目の前にいる二人なのだと、むろんドニに気付く様子はない。
「鋭いね、その通りだよ。――魔女はどこからその情報を? タレコミでもあったのかな?」
「知らねえ。とにかくおっそろしく頭いいし、情報網がハンパねえんだ」
「へえ、興味深いな…」
「せっかく方々へエサをまいたのに、グランヴァルへ喰いつく様子が微塵もねえって同業者から聞いたが。事前に情報を得てたんならそれも当然か」
「喰いつくどころか、魔女がこんなこと言ったんだとよ――」
『皆さんがグランヴァル方面にかかりきりになっている間、黒幕は別の場所で目的のために着々と準備を進めているわけです。やがて皆さんはグランヴァルの背後にいる黒幕の正体に気付くが、時すでに遅し、事態はもはや手の打ちようがないところまで来ていた……とまあ、そんな流れになるんじゃないかと』
『即、グランヴァルに向かったとしても、あちらの歓迎の準備はとっくに整ってそうな気がしますね。とても思わせぶりな感じにおもてなししてくれそうです。台詞とかシナリオ立ててわくわくしてるんじゃないでしょうか。とゆーわけで、時間と労力の無駄に終わりそうですし、無視でいいんじゃない? て思うんですけど』
「って。すげえよなその発想。俺がここに保護されることになったのも、目的は連中に対する〝イヤガラセ〟なんだぜ。真面目にそれだけ。案外あんたらに求めてんのもそれだけだったりしてな」
「――――」
「――――」
聞いているうちに二人の額には汗が滲み、背がひんやり涼しくなり、ついでに視線が定まらなくなってきた。
又聞きの台詞を一言一句違わず憶えている、ドニの思わぬ特技にも動揺したが、とにかく魔女の正体不明感が凄まじい。
先見の明だの賢いだの、そんな常識的な表現で済ませていい相手ではない、そんな気がひしひしとしてきた。
「マジ何者だ、その女……」
「せっかく手ぐすね引いて待ってただろうに、悪名高きグランヴァルも形無しだね……」
生ぬるい笑みを浮かべるカリムだったが、ドニは負けずに生ぬるいまなざしで「むしろずっとそのほうがよかったんじゃねえかな」と言った。
「しばらく無視る方針だったみてえなんだけどよ。どうも、最近、本気でぶち切れたみてえで……グランヴァルも標的になったみてえだぞ……憂さ晴らしの」
「え?」
「なんだと?」
「なんつうか…………レティーシャつったか、そこのお嬢さん。そいつがグランヴァル領の影の首魁なんだろ?」
「影の首魁……」
「……まあ、侯爵家の中で、密かに一番の悪党、という情報はあったな。そいつを、どうするって?」
そこまで知られてたのか。内心で動揺しつつ、カシムはあくまでしらを切りながら尋ねた。
ドニは曖昧な表情を浮かべ、魔女の台詞を思い出す。
「徹底的におちょくり倒した上で潰す、ってよ」
思わぬ天職を得たドニ先生炸裂です。