125話 狩人の月 (3)
あ れ ぇ … ?
長くなりました。誰だろう前後がどうとか言っていたのは。
よ、(4)でおさまると思います。
――まるで地上を狙う銀の弓だ。
今は使われていない地下水路跡を通り抜け、人ひとり通り抜けられる隠し扉を慎重に押し上げれば、閉ざされた外壁の大門の上、鮮烈さを増した月が悠然と見下ろしている。
深夜。自分達のような者だけが知る通路から都を出て、街道を逸れた奥地にある廃墟へと向かった。
鬱蒼と茂る樹々を抜けていけば、ぽっかりとひらけた場所に、かつてこの辺りにも町があった証拠として、建物の基礎の名残が点在している。
人目を避けねばならない相手に会う時、いつも同じ場所を利用することはなく、ここへ来るのはしばらくぶりだった。
微塵の疑いも抱かなかった。
ここへきてまだ、まさか、と否定する己がいる。
「カリム……」
「裏切ってないよ? 嘘も言ってない。俺がおまえに話したのは、全部真実だ」
裏切っていない?
この状況で?
斜めに倒れた柱と、半壊した壁の向こうから、のっそりと現われた複数の人影。
天上の弓から、わずかにこぼれそそぐ燐光を浴び、ぼんやりと闇から区切られたその数は、五名。
ほかにも、どこかに潜んでいる者がいるかもしれない。
匂いと、気配と、音に敏感な自分が、こうも容易に囲まれるとは。
(狼、か)
しかも、五頭。
充分に群れと呼べる数だ。
単純で、深く思考するのを苦手とする半獣族の中、その〝賢さ〟によって戦闘を有利に運ぶ特徴を持ったこの種族は、群れを形成した途端に脅威度が何段階も跳ねあがる。
よくも見事に闇へ紛れていたものだと、感心させられる髪と尾の色は、白――いや、違う。
灰色だ。
「灰狼……」
カシムは喘いだ。なぜ、この連中がここにいる。
問うまでもない。カリムが連れてきた。自分を陥れた? 何故?
「カシム、何度でも言うよ。俺は絶対に、お前のことを裏切ったりしない」
「ふざけるな、ならこれは何だと……!!」
「いや、カリム殿の言う通りだぞ?」
最も大柄な一頭が、のっそりと前に歩み出た。反射的にカシムは後退る。
かりかりと呑気そうに後頭部を掻いているが、騙されはしない。この灰狼どもすべて、単体で既に格上だった。
その中で、この大柄な男はずば抜けている。
「ん? ひょっとして俺は警戒されてるのか?」
「しねえほうがおかしいと思うぜ、長」
「そうか、いやすまん。脅かすつもりはなかったんだがな。――カシム殿だろう? 俺はガルセス=マウロ=ロア。部族の長をつとめている者だ。よろしくな!」
「――は?」
「よろしくじゃねえだろうがよ、長」
「すまんすまん、そうだったな! これからよろしくする予定の者だ、よろしくな!」
「…………は?」
……なんだと?
……よろしくする、予定の者? 意味がわからん。
カシムの警戒心と困惑はますます深まった。
「ったく……つうわけで俺は、族長補佐のラザックだ。すまねえな、当代のうちの長、歴代で最も空気読めねえ逸材なんだわ」
「空気なんぞどうやって読むのだ? 魔女殿も『今回に限っては読む必要なし!』と仰ってくれたぞ」
「あ、そうなん? じゃ、コイツに関しちゃ、これでいけっつーことか」
ガルセスと名乗った男は偉そうにふんぞりがえり、ラザックという男は底の見えない表情でふむふむと頷いた。
(……何の話だ?)
この連中、ふざけているのか? それともただの見せかけか?
からかって、こちらの動揺を誘おうとしているのか?
カシムは微妙な苦笑いで佇むカリムのほうを見やった。視線に気づいたカリムは肩をすくめ、その口からおよそ想像もつかなかった発言が飛び出す。
「あちら側へ行こう、カシム」
「……笑えん冗談だ。信じ難いが、もしやおまえ、例の〝魔女〟とやらに懐柔でもされたか。それとも、おまえから擦り寄ったか?」
「どちらでもいい。なあ、カシム。向こうへ行けば、冗談で笑えるよ。作り笑いも皮肉笑いもいらない。そんなものどこかへ追いやって、楽しく笑ってみたいんだよ俺は、カシム」
「……そう夢想して破滅した輩が、どれだけいると思っている? おまえがそんなくだらんことを言う日が来るとはな……」
「言わなかっただけさ。陽に照らされた市を、人々と挨拶を交わしながら歩んで、自分が決してそこの住人ではないと思い知る瞬間、どれだけの絶望に襲われるかおまえにわかるか? ――わかるだろう。おまえだってずっと、そうなんだから」
「違う」
「違わない。――留まる限り、俺達はずっと、このままだ」
カリムの面に陰りが差す。そうなると、まるで二人は鏡のようにそっくりだった。
「なあ……」
「あんた黙ってろよ、長」
「そうだぜ、黙ってろよ」
「真面目な話をしてんだからよ」
「邪魔すんじゃねえぞ」
「うう……」
「…………」
「…………」
それでこっそり話しているつもりなのか。ボソボソひそひそ、はっきり届いた珍妙な会話に、二人は外野がいることを思い出した。
カリムが気まずそうにコホンと咳払いをする。
仕切り直しだ。
「――ずっとここにいたいわけがない。好んで奴隷なんてやってる奴なんかいない。あの茶、結構いけただろ? 全部飲んでたしな」
「……だから?」
「こっちでは茶なんて過ぎた贅沢だ。俺らはやんごとなき御方の所有物だから、そこそこ大目に見てもらえてるだけ。でもあっちへ行けば、庶民だって平気でああいうものを飲める」
「奴隷はどのみち飲めんだろう。夢物語はやめろ、それこそ過ぎた願望だ。底なしの沼と同じだ。俺がそんなもんを聞くと思ったか、自分を売り込むために俺を手土産にしようって奴の言葉を……」
まさかおまえが、おまえだけはそんな真似はしないと思っていたのに。
声なき声が届いたのか、カリムの顔が歪んだ。
「いや、そんな悲愴にならずとも…」
「黙ってろっつったろ、長」
「ちったぁ言わせろよ!? 『俺の首と引き換えにしていいから兄弟は助けて欲しい』っつー男の願いは何とかしてやりたいだろうが!?」
「――何?」
「あーあ…」
「言っちゃった…」
「……あああ……そこで暴露しますかああ……!?」
カリムが暗がりでもわかるほど赤面し、両腕で顔面を覆い隠した。
「……」
……そんなことを、言ったのか。
カシムが再び、微妙な表情になる。
(――というか、さっきから何なんだ、この野郎は……)
人種が対極に在り過ぎて、真剣にやろうとすればするほど明後日の方角へ突き進まされてしまう。
別の意味で手に負えない、危険な男であった。
カシムの内心もカリムの羞恥心もどこ吹く風と、ガルセスはすっきりしたのか、満面でにかっと笑った。
「そんなわけで、カリム殿ともども、我々と一緒に来んか?」
「……断ると言ったら?」
「そう返されたらこう返せと言われていてな。――『断りたいのか?』」
「――――」
カシムはぎり、と唇に歯を立てた。血の味がかすかに滲み、叫びそうになるのをすんでのところで堪える。
「どうでもいい……俺が、俺達が何をどう思い、望もうと、結果は変わらん。不可能だ。絶対にできない。俺達は奴隷だ、それ以外に道はない、選べるわけがない……」
呪詛のように腹の底から唱えながら、佩いていた剣の柄に手を添える。
さっきまで気の抜けるお喋りに興じていた灰狼達が、別の生き物に変わったかのようにがらりと無表情になり、瞳がぼんやりと月の光に滲んだ。
ほら、見ろ。これが〝本性〟だ。
この連中にとって、しょせん自分は獲物の一匹でしかない。
狩りに来たのだ。
湧きあがる恐怖を、それ以上の恐怖でねじふせ、己はただの道具に過ぎぬと暗示をかける。
魔力などなくとも、それは存外効くものだ。
「俺とやりあうか?」
「……」
勝てると思っているのか? そう問われたように聴こえたのは、空耳ではないだろう。
からかっているのではなく、この男は単に、確認をしているだけだ。
俺は構わんが、おまえはいいのか? と……。
(いいも、悪いもない)
敵が相手ならば、抵抗する。みすみす囚われの身になってはならない。
命と引き換えに腕の一本、有益な情報のひとつぐらいは入手せねばならない。
そうしなければいけない。
それ以外にどうしようもないのだ。
たとえ相手と己の間に、凄まじい差があろうとも。
長くなったのはどう考えてもガルセスのせいです。