123話 狩人の月 (1)
イルハーナム神聖帝国。それは最も強大にして、最も優れた人族の国。
周辺国家を次々と呑み込み、領土を広げ、人界のほぼ東半分を支配するに至った。
敵国の寄せ集めの軍勢により、一度は追いやられた歴史もあれど、不屈の精神で再び持ち直し。
そしていよいよ西の大国エスタローザへ攻め込もうかという時に、邪魔者が立ち塞がった。
デマルシェリエ。
かの国と帝国との間には、その頂が天に霞む山脈と、果てなき広大な大森林が横たわり、地図上で見ると隙間はほんのわずかだけ。
幸運な地の利を悠々と活かし、奴らは帝国の侵攻を長年に渡り阻み続けた。かつてその名を轟かせた猛将が幾人も退却の泥を味わい、どうにもならぬまま無為に時が流れ、口惜しくも停戦条約を結んで以降、十数年ほど足踏み状態が続いている――
(それが、現在の帝国の有様……ということになっているが、真実は異なる)
男は、カシムと呼ばれていた。二十代半ば頃にも見えるし、とうに四十代へ手をかけていそうな雰囲気もある、いまいち年齢の読めない男だった。
彼は畏敬の念をもって己の主君を思い浮かべた。
大勢いる皇子の中、飛びぬけて優れた頭脳を持ち、さらに高潔な人格によって臣民からの忠誠を一身に集めている第二皇子。
ナヴィル=ウル=イル=ハーナム――まだ二十六歳の若さだ。
しかしこの恐るべき皇子が、実質この帝国の頂点に君臨したのは、さらに十年以上も前からだった。
第一皇子サリムは愚鈍、自尊心が肥大し、やることなすこと失敗に終わり、その責を下に押しつけ、下の者が成功すればその功を奪い取る。臣を虐げ、民を虐げ、それでも皇帝の最初の皇子であったことから、可愛がられ甘やかされ大切にされ続けた。各地でどれほど血の川を流し、おぞましい吐き気に満ちた伝説ばかりを築こうとも。
だが彼の権勢はすべて、皇帝という絶対の存在によって守られている儚い砂の宮でしかなかった。
まず皇帝が病に伏した。それが十五、六年ほど前だったろうか。
病床からもエスタローザへの――打倒デマルシェリエの妄執を吐き散らし続け、芳しい成果の出せない数々の勇将や猛将を無能とののしり、憤りのまま更迭し続けた。
皇帝は気付けなかった。もはや己の時代が終焉に近付いていることを。
己の愚かな執念が、世代交代に加速をつける結果になっていたことを。
そう。ごっそりと入れ替わってしまったのだ。
古き者どもの時代は去り、若者達の台頭する時代が来た。
その舵を握ったのが、誰あろうナヴィル皇子だったのである。
はじめは何者にも気付かれなかった。当然だ。彼はあの頃、まだほんの少年でしかなかったのだから。
高潔で公正な少年が、愚かな父皇帝に失望し、愚帝を持ち上げる者すべて葬り去る算段を付け始めたなどと、果たして何者に想像できようか。
最近、皇帝の無駄なやかましさは鳴りを潜め、寝台で粛々と大人しくしている日が多くなった。彼の取り巻きはいつの間にか姿を消し、誰に何を言おうと生ぬるい半笑顔でいなされ、「ナヴィル殿下にお伺いいたします」「それについてはナヴィル殿下の許可を頂きませんと」とくるのだから、己の居場所が息子の用意した豪奢な檻にしか過ぎぬのだと、じんわり恐怖とともに理解が忍び寄ってきたらしい。
第一皇子サリムは、最強の後ろ盾がとうに〝引退〟してしまったことに気付けず、この帝国の最上位に立つ弟を見下し続け、ある日あろうことか刃を向けるという愚行に出た。
駒を動かす盤上の遊戯で弟に負かされ、癇癪を起こして斬りつけようとしたのだ。実に馬鹿者である。
彼は衛兵に拘束され、離れの宮に幽閉された。多くの宮廷医師により〝頭の病〟と診断され、皇位継承権は剥奪。
乱心中のサリムが「奴が死んだら俺こそが皇帝なのだぞ、生意気な!!」と罵倒していたところを、多くの臣が目撃し、その声はかなり遠くまで響いていた。
ナヴィル皇子の処置は誰もが納得するものでしかなかった。
公正にして高潔、優れた人格、優れた頭脳、優れた容姿。
気さくで下々の者に対しても優しく声をかけ、寛大で理不尽な処罰は行わない。
そして何より、その求心力。もはや彼こそが時期皇帝になるであろう未来を、疑いもなく不満もなく、すべての者が納得の上で受け入れた。
(イルハーナム神聖帝国には、とうの前からナヴィル殿下の時代が訪れ、かつてとはやり方がまったく変わっている。見栄っぱりどもが馬鹿正直に、しつこく正面突破にこだわって失敗を重ねた時代にも、あの男は水面下で絵を描き続けた……)
愚帝が自ら取り巻きを追放し、己の首をしめるであろう流れを読み、第一皇子が自爆でたやすく消えるであろうと読み。
ナヴィル皇子に従順な者のみを残し、凡庸な弟皇子達も既に半数は消えている。
かの皇子の周囲は優秀な者のみが固め、皆は彼の指し示す道の先に栄光があると信じて突き進む。たとえ自身の命が打ち捨てられようと、皇子の未来に栄光があり、帝国にさらなる繁栄がもたらされるならば、それは何ひとつ悔やむことではない。
愚帝や愚皇子、その取り巻きどもによってさんざんに荒らされた帝国を、民を救い、きっとこの皇子ならば、イルハーナム全土に光を降りそそいでくれるであろう――
誰もがそう信じ、カシムも、そうなるであろうと思った。
彼が手足となってこなしてきたナヴィル皇子の策――皇子が帝国にいながらして、密かに大陸全土へ張り巡らせてきた罠が。
くすぶる恐怖とともに、疑いの余地を許さない。
◇
だが、どうも最近、何かがおかしい……。
伝書鳥から筒を抜き取り、簡潔な報告に目を通しながら、カシムは訝る。
書ける量がどうしても限られるため、詳細をすべて詰め込めないのは仕方がないものの、それにしても、最近の報告はどれも要領を得ないものばかり目についた。
さらに、頻度が増えている。増えながら、それでも、伝えきれないとばかりに次の報告が届く。
各地に潜む間者の数は有限であり、一斉に全員が行動できるわけもない。あやしい動きを見咎められず、必要な情報をひたすら送り続けるのは困難なのだ。
(……グランヴァルに、まだ食いついていないのか?)
少なくとも、まだその様子が見られない。
あの狡猾な令嬢が、のらりくらりとこちらの問いかけをけむに巻くのはいつものことだ。彼女が何か失態をしでかしたとは考えにくいが、デマルシェリエの動きが、妙に鈍くはないか。
そろそろ、グランヴァルにさぐりを入れそうな頃合いだと思っていたのだが。
(運び屋野郎も行方不明だというし。奴は、やはりあの時に喰われたに違いない。なら、こちらから誘導してやるか……)
もしあの運び屋――ドニ=ヴァン=デュカスが死んでいたら、頃合いを見計らってささやかな情報をこちらから流す。
その予定だった。
そう、予定内のことだった。
なのに、何だろうか……妙に……
(ん? ――あいつ、こちらへ戻っていたのか)
報告の中に、第三者にはわからない暗号で、会おうと言ってきた者がいる。
その男の名は、カリム。別に兄弟でもなんでもないのだが、たまたま同時期に同じ主君に仕えることになり、ナヴィル皇子が二人に似た名前をつけたのだ。
カリムは暗号で、情報量が多過ぎるために詳細を伝える手段がない、できれば直接会って状況を話したいと伝えてきた。
ちょうどこちらも引っかかっていたところである。
しばらくかの王国に潜っていたあの男ならば、こちらの求める土産話をたっぷり持ち帰ってくれているだろう。
お久しぶりの彼です。