122話 Day 5/5
仕込みは、エルダの細胞を採取した瞬間から始まっていた。
人体の一部位だけでも遺伝子操作が可能なのだと、知らなかった瀬名の落ち度である。
さらに使用された培養液の成分をあらためてチェックすれば、この世界の稀少な薬草から抽出される成分が何種類も入っていた。
体力回復薬、魔力回復薬、一時的な身体強化薬などに用いられる薬効成分が、市場に出回っている薬より遥かに高濃度で含まれていた。
そして魔術の補正効果、魔力の伝導性や耐性強化などの魔導陣が仕掛けられた場所は、骨の切断面。
ちくちく目にも止まらぬ高速でくっつけていた、あの針先の医療用接着剤の一部に、アダマンタイトの微粒子を溶かし込まれたものが隠れ潜んでいたのだ。
タトゥーのように本来の身体と新しい腕の骨、双方にその魔導陣が埋め込まれ、ぴたりと合わさって馴染み、もはやどうしようもない。
骨が重要なので、骨折でもすれば補正効果はなくなる。ただし、治れば復活する。
(嫁入り前の娘さんになんてことををを)
しかしやってしまったものはもう仕方がない、建設的な未来を考えねば。
ARK氏がこちらのふわっとした要求や質問を的確に捉えてくれるからといって、拡大解釈されやすい命令を連発していた自分も悪いのだと瀬名は反省する。
ではARK氏に、今後はそれを禁じるべきか?
自問し、即座に「否」と頭を振った。
親しい人間が重傷を負っていれば優先的に治す。治したい、だからそうする。
そして綺麗ごとを一切省いて現実的な本音も言ってしまえば、治さねばこちらの戦力が低下するではないか。
相手は魔王だ。災厄の代名詞である。実は優しい心を隠していて、密かにお友達になりたそうにしてくれる魔物のことを、この世界では魔王と呼ばない。
是非とも自分の御同類であって欲しいと数えきれないほど望んだけれど、違うものは違うのだった。
魔王は魔王であり、その存在は人と隔絶し、この世に地獄を顕現させるものであり、それ以上でも以下でもない。
それがこの世界の魔王。
高位神聖魔術でさえ癒やせないはずの、失われた部位の回復。これはきっと、みだりにやっちゃいけないことなんだ――などと、もはや瀬名は思わなかった。
簡単にやってしまおう。大放出してやろうではないか。何年もかけて没頭し続けた趣味の産物たる反則級の回復薬も、ありったけ提供してくれよう。人の趣味がもたらすクオリティを舐めてはならぬ。
一夜明け、瀬名はもう吹っ切れてしまうことにした。
重傷を負って昏睡する知人を見つめながら、つらいけれど自分には何もできることはない、してはいけないんだ、なんてじめじめ鬱々悩み続け、それが将来的にどんな役に立つというのか?
ぶっちゃけ、「知人は優先的に治したい」というのが個人的感情なら、「みだりに治してはいけない」というのも個人的感情の産物なのだ。数年後の世の中の倫理観を心配するあまり、数か月後に襲ってくるかもしれない魔王対策が甘くなって人類滅亡、なんて展開にでもなったら誰が責任を取る?
戦線離脱する者が増えれば増えるほどこちらは苦しくなり、あちらには都合が良くなる、本末転倒だろうに。
治す対価を金銭以外の何か、難易度を〝鬼〟で設定し、なおかつ「どうせ治るから」と突っ走り自滅した馬鹿はすっぱり見捨てると広めておこう。
実際、そんな馬鹿、見捨てたって心は痛みそうにない。
エルダに関してはこちらが押し売りをしたに等しいので、フォローは万全にするつもりである。
まずはとにかく使い方に慣れてもらうべく、訓練場でそのまま訓練を継続した。
エルダは己の放つ魔術の数々に初めは唖然呆然の呈だったが、その瞳は徐々にきらきら輝き始めた。彼女は慢心の後に来る転落の怖さをアスファともども思い知っており、高く安定した己の魔術に決して増長する様子はなく、ちゃんと真摯に新たな腕と新たな魔術に向き合っていた。
額に浮かぶ汗がとても爽やかで、瀬名は何ともいえない気持ちになった……。
そしていつの間にかエルダにまで「師匠」と呼ばれるようになっていた。今までは「教官」だったが、ニュアンスが違う。
(いかん、気合入れてアドバイスし過ぎた)
的を用意して自主練という名の放置に切り替え、その間は手持ち無沙汰な様子のリュシーの相手をした。
身軽で素早く、外見の細さ以上に力強さを秘めた彼女は、やはり通常の人族とは異なる身体能力の持ち主だった。人族より身軽で力強く、半獣族ほどではない。
咎の末裔に関しては、悪意に基づく噂に過ぎないと識者の間では定説になりつつある。ところが、彼らが魔族の血を引いているのはあいにく事実だった。
彼女の祖先は魔王に与した。精霊族の歴史に、はっきりとその旨が記録されている。
『リュシーの魔力はそんなに高くないけど。そういうものなの?』
『ひとことで魔族と呼んでも、さまざまな種族があるからな。リュシーの血族は身体強化に特化しているのだ。魔力の大半がそちらに回り、細い外見以上の膂力や体力を誇っている』
シェルローいわく、意識してやっているのではなく、生まれながらにそうなっているらしい。
『もとは虚弱体質の生まれやすい種族だったそうだ。魔と契約を交わしてその血を取り込み、強い肉体を手に入れた』
そうして、魔族になった末裔が彼女だったわけか。
彼女の身体に残っているのは、祖先の残滓である。それを素晴らしい遺産としたのが彼女の忌まわしい血族であり、無価値な残りカスと吐き捨てたのがリュシーだ。
〈祭壇〉の結界が彼女を阻まないので、他の魔物や本格的な魔族とは別種のはずなのだけれど、そう割り切れない者は多い――彼女自身を含めて。
しんみりしながら木刀で手合わせをし、上の空でいるうちに二十勝零敗になっていた。
意外な熱血さを発揮したリュシーがさらに挑んできて、もう十勝ぐらい重ねる頃には、彼女まで「師匠」と呼び始めた。
やめて。
ところでアスファ君とシモン君はどうしているのかなと、現実逃避気味に思いきや。
どうやら枕を涙で濡らしたらしいシモン君と、アスファ君がお互いをなぐさめ合っていた。
美しいラフィエナ女史はどうやら、瀬名寄りのスパルタ属性であったようだ。小鳥さんがどこからかそんな噂を拾ってきた。
シモン少年は弓の才能が見込める。彼女はそこを重点的に鍛えるだけではなく――
「こんなのどかな森の外れに何故ブートキャンプが」
《それに近いですね》
生きろシモン。瀬名は清々しい青空を見上げ、彼の未来を祈った。
しかし彼女の鍛え方に間違いはないのだ。ゆくゆくは弓士兼双剣使いに育てる構想も語っていたけれど、腕力も体力もまだ足りていない今は、両手で短剣を握らせるスタイルで接近戦を学ばせているらしい。
長距離専門の才能を伸ばしつつ、いざ懐に潜り込まれても最低限は対応できねば話にならないのだ。
また、捕らえた獲物の解体なら慣れているかと思えば、切れ味のいまいちな安物ナイフしか持っていなかったシモンは、大物を捌いた経験がなく、小さな獲物にしか触れられなかった。灰狼の捕えてきた魔獣を使ってそれも徹底的に教え込んでいるそうだが……既にシモンはラフィエナを「教官」と呼んでいた。
挫けるな、少年よ。瀬名は心の中でエールを送った。
ちなみにアスファ少年は何故か、小鳥さんの姿を目にするなり怯えて逃げた。
「我が忠実なる小鳥よ、そなた奴に何をした……?」
《普通に剣をお借りしただけです、マイロード》
なんでも、最初は本当に普通に、ごく普通に、貸してくださいと普通に頼んだらしい。
ところが何故か、アスファは貸し渋った。アスファが嫌がったのではなく、どうやら剣のほうがARK氏への貸し出しを嫌がったようなのだ。
まあ奇跡の剣なら主義主張ぐらいするでしょ、と瀬名はごく平然と他人事として受け止めた。所有者に洗脳をかましてくる呪いの装備的な何かではなかったし、人前で剣と親密に語り合わないよう注意さえしてくれればいい。
しかし瀬名ほど達観できなかったせっかちなARK氏は、戦法を変えた。
――幼女のいとけない声を合成し、小首をかしげて可愛らしく《貸して♪》とおねだりしたのだ。
アスファ少年の顔面から全身から、血の気が怒涛の勢いで引いた。その場に居合わせた不幸な目撃者・談である。
つぶらな瞳の青い小鳥の、いかにも可愛らしげなおねだりと仕草が、これほど、人の精神の深層をえぐる恐怖をもたらすとは……。
妙に今日は小鳥さんの色艶がいいなと感じたわけだ。
剣はドナドナされる運命となり、少年の心にまたひとつ傷が……いや、いずれこれも成長の糧になると前向きに捉えてくれる、そう信じたい。
◇
夕方近くなり、灰狼の村に、招待客が続々と集まってきた。
宿泊用の部屋を多めに建ててもらってよかった、そう実感せずにいられない顔ぶれの多さである。
一部はそれでも足りないので、村人の家に泊まってもらうことになるだろう。
――しかし、どうしよう。
気力精神力がこの時点で、ほぼ底を尽きかけているのだが。
まだ本格的な日暮れ前なのに、何故自分はこうも疲弊しているのだろうか。かすかに残る瀬名の良心が危機感を訴えた。
気力精神力の残量が乏しくなったがために生じる弊害、それは……
(まあいっか。なるようになるでしょう)
瀬名は思考放棄し、開き直った。考えるのが面倒くさくなってきた。
ARK氏に玩具。
瀬名に開き直り。
決して混合してはならない、劇物と化す組み合わせであった。
剣はこの小鳥さんヤベェと察知し抵抗したのですが主が敗北しました。