120話 Day 3/5
「な……おった……」
《はい》
「……っっはあああ~……」
寝息をたてる少女の傍らに、瀬名はずるずるとしゃがみこんだ。
疑っていたわけではない。治ると信じてはいた。
いたけれど、心配なものは心配だったのだ。
魔力の流れも安定しており、皮膚の色の境目も見当たらず、あくまでも瀬名の印象ではすっかり元の状態である。
《念のために精霊族の処方する薬湯をあと二~三日ほど飲めば、拒絶反応もなく完全に身体に馴染むでしょう。免疫力の低下もありません》
「……よかった……」
瀬名は深々と息を吸い込み、たっぷりと吐いた。
最初は困ったお嬢さんとしか思えなかったけれど、最近ではアスファともども見違えるほどしっかりしてきたし、思いのほか情が移ってしまっていたのだ。
(でも、討伐者を続けるってなれば、今後もこういうこと、あるかもしれないんだよね……)
もしこの先、親しい誰かがまたこんな目に遭ったとしたら――きっと自分はまた、同じようなことをする。
なんだかんだと理屈をこねても、結局は身内贔屓で助けようとしてしまうのだろう。
綺麗ごとなど言いはしない。助けるために手段は選ばない。その手段が身近にあるならば、なおさら。
もちろん何度も繰り返すのは危険なので、今後はいっそう慎重にやらねばならないだろう。
瀬名と親しく付き合っている者は、多少怪我をしても治してもらえるから大丈夫。そんな誤解をされてしまえば、油断して無理をして、身の丈に合わない怪物へ挑み一撃死、なんて事故が起こりやすくなってしまう。
「とにかく今回の関係者には、表向き〝リスクが激烈に高くて誰にでも簡単に出来ることじゃない〟って説明しとくのがいいかな…」
《それがよろしいでしょう。ウォルド殿とシェルローが既に釘を刺してくださっておりますし、誰に対しても簡単にできると説明されるより、却って理解を得られやすいと思われます》
「いつもながら絶妙なフォロー、超ありがたいわ……」
そろそろ各方面への感謝が返済しきれないほど溜まってきているのだが、どうしよう。
魔王の首一個で完済できるかな……?
◇
シェルローはドーミアの騎士団に用事があって不在だった。
移住を始めて間もないからか、郷の女性人口はまばらだ。灰狼の村へ向かう最中、その数少ない精霊族の女性が付いてきてくれた。
「ラフィエナと申します。ラフィとお呼びください」
瀬名より目線が少し低いぐらいなので、彼女も女性では長身の部類に入るだろう。
すんなりとした細身、流れる金色のロングヘアー、若葉色の眼の、凄まじい美女であった。
瀬名より胸があり、身体のラインがぴったりと出る女性戦士の衣装を身に着けているものの、いやらしさは皆無。
通りを歩けば、彼女の足もとに跪きたい男が、そこらじゅうからわらわらと吸い寄せられてきそうな美しさである。リュシーの美貌がさながら月の精霊ならば、こちらは木漏れ日の精霊だ。
外見年齢は二十歳前後ぐらい。
実年齢? そんなもの、永遠の謎でいいのである。
男性にエルダを抱えさせるのは憚られ、村へ向かうまでの交代要員として、彼女が同行してくれることになった。
いくら腕力や体力に自信があっても、瀬名だけで道なき道を人ひとり運ぶのは存外骨が折れ、長時間運び続けると、足元がおぼつかなくなってくる。
郷と灰狼の村の間には、道が引かれていない。今後もその予定はないそうだ。
道があると、迷いの森の特性が失われてしまう恐れがあり、それは精霊族にとって忌避すべきことなのだった。
黎明の森に限って言えば、脇へ逸れようのないトンネルにでもしない限り迷ってしまう極悪レベルな迷いの森なのだけれど、気分的に嫌な部分が大きいのだろう。
なし崩しに移住してきた連中とはいえ、せっかくだから快適に過ごしてもらいたい。彼らの嫌がることを無理強いさせる気はなかった。
「そうだ、ラフィさん」
「ラフィ、で結構ですよ」
「そう? ――あのさ、ラフィはウェルランディアの中でも、五指に入るほどの弓の腕前があるって聞いたことあるんだけど、本当?」
「お恥ずかしながら、そのように言われております」
気負いもなく、さらりと笑みを浮かべてラフィエナは肯定した。
「シモンって子が討伐者ギルドの見習いランクなんだけどさ、ランク上がるのに、ちゃんとした指導係が必要なんだよ。ラフィに頼めないかな? 手の離せない用事とかある?」
「いいえ、ありませんよ。お引き受けしましょう」
本人に会う前から快諾してくれた。まあ、彼はいつかの新人達と違い、謙虚で言葉遣いも悪くはないので、「こんな悪ガキやっぱり嫌です」などと撤回されることはないか。
ちなみにシモンの髪は金というより藁色だが、眼の色は偶然にもラフィエナとよく似た若葉色だった。この二人が並んだら、姉弟に見えるかもしれない。
◇
例の大暴露の件の後、土下座の勢いで瀬名に謝り倒し、「それ以上謝ったら縁を切りますよ」と脅――説得してようやくやめてくれた族長だが、彼は現在側近達とドーミアへ向かっており、幸い――いや、あいにく不在だった。
黎明の森の端にある灰狼の村は、知らない旅人が目にすれば、村の半分が森に呑み込まれてしまったかのように映るだろう。
石造りの建物がうねる大樹の根もとから顔を覗かせ、どこの遺跡か廃墟かといった風情だ。けれど、行き交う村人達の姿から、実際はそこが寂れた場所ではなく、活気に満ちた場所だとわかる。
村の設計のほとんどを精霊族が担当したのだから、こうなるのは仕方がない。
彼らの郷とはまた味わいの違う外観と雰囲気で、何もかも瀬名の大好物であったが、当の住民である灰狼達にとってはいかがなものなのだろう。
実際、暮らしやすいのか?
テント暮らしからいきなり環境が変わり過ぎて、戸惑ったりはしていないか。
訊いてみれば、そちらもまったく問題はなかった。
むしろ彼らは森狼の種族なので、人族よりも森との親和性が高かったのである。
平原でも普通に暮らせるが、どちらかといえば森に近いほうが快適らしい。大樹の根もとに設けられた家々は、彼らの好みに合わせて設計されたものだった。
冬は雪深いので、出入口は高い位置にある。そして屋根の形は三角、もしくは丸いかのどちらか。
華美を好まず、こぢんまりとまとまった家。しかし入ってみると意外と広く感じる。体格の大きさに合わせ、入り口や天井の高さに気を付けたのもあるだろうが、無駄なものをごちゃごちゃ置かないので、すっきりとした広さを感じさせる空間になっていた。
緋色や朱色、黄色などの暖色で統一された絨毯、タペストリー、クッションもある。むろんすべてが手縫いの作品だ。ローテーブルがあり、脚の長いテーブルや椅子は見かけない。
どの家庭にも当然のようにある、壁に立てかけられた剣や弓。ぶら下がるドライフラワー。塗り薬の入った小さな壺。
ドーミアのみならず、エスタローザ光王国民の感覚からすれば、明らかな異文化がそこにあった。
ドニ先生はもうすっかり慣れたご様子だった――口調は前と変わらないのに、だんだん〝先生〟が板についてきている――しかしアスファ、リュシー、シモンは、ここで暮らし始めてわずか数日。
彼らが初めてこの村を目にした時は一様に目を白黒させており、今も見るものすべてが新鮮に映るようだ。
(あいつらがドニ君の青空教室を見学したのって、いつだっけ? あの時はまだ宿がなかったからなー)
宿に限らず、この村にはおよそ店と呼べるものがない。それは精霊族の郷も同様だった。
武器も防具も薬も、皆が作ったものは皆で分け合う。誰かが特別に富むこともなければ、特別に貧しくもならない。
物々交換が基本。誰かが何かしら皆のために貢献する。
瀬名は最近になって気付いたが、彼らはあくまでも種族、部族という単位で自分達を認識しており、国という概念がどうも存在しないようなのだ。もちろん知識として知ってはいるのだが、彼ら自身にそれが適用されないのである。
叡智の森ウェルランディアは女王によって治められているけれど、彼らはそこを〝ウェルランディア王国〟とは呼ばない。シェルロー達は女王の息子なので王子と呼ばれ、郷や都はあるけれど、〝国〟という単位がない。
在り方が人族の国家とは根本的に違っているのである。
だから店がないのだ。鍛冶師も薬師も彫刻師もいるけれど、武器屋も防具屋も薬屋もない。
とりあえず現時点ではその仕組みが上手く機能し、誰も不満を抱いていないのだから、強引に他種族の基準や価値観に合わせなくてもいいと瀬名は思っている。よそはよそ、うちはうち。貨幣経済で回っている国があれば、物々交換で回っている国があったっていい。
ただし異なる価値観の相手と、金銭でやりとりをする必要のある時だけは気を付けなければいけない。そのために読み書き計算を憶えるだけ憶えておく。騙されて不当な取引をさせられないように。ひょっとしたら将来的にすべての種族が貨幣を導入したとしても、学んだことがきっと役に立ってくれる。
その時はその時だ。
(ま、私が考えなきゃいけないことでもないし。必要になってきたら、シェルローとか誰かが言うでしょ)
そんなわけで、村全体の設計には基本的にノータッチの瀬名だったが、宿泊できる場所は必要だろうと、唯一それだけは口を出した。
誰かが一時的に滞在する時に、宿がなければ誰の家に泊めるかという話になる。今までは余所者を招き入れること自体が滅多になかったのだとしても、瀬名がドーミアの人々とそれなりに付き合いを続けていれば、今後そういうことが増えるのではと思ったのだ。
予想は当たり、現在アスファ達が寝泊まりしているのは、宿用に建設された空き家なのである。いくつかの個室を設けてあり、一部屋に二人が余裕で過ごせる程度の広さだ。
建築様式も生活スタイルも違うので一概には比較しにくいだろうけれど、「安宿より居心地が良い」との感想をいただいている。
安宿に慣れているアスファとシモンは同室、リュシーだけ個室に一人だったが、今後はそこにエルダも加わることになった。
◇
リュシーの個室に寝台を運び込み、エルダを横たえ、意識を回復させる効果の鼻薬を嗅がせた。
ラフィエナに呼ばれて集まったアスファ、リュシー、シモンは、エルダの腕がそこにあるのをしっかり確かめるように凝視し、目を赤く潤ませている。
うっすら開きそうになった瞼を確認し、瀬名はひとことも声をかけることなく、そのまま部屋を後にした。
彼女を完治させたのはARK氏であり、後々のトラブル回避のために的確なフォローをしてくれたのはウォルドやシェルロー達であり、瀬名が誇っていい功績なんて何ひとつない。
間違っても感謝だとか尊敬だとかされたくはないし、そんな言葉を言わせたくも、聞きたくもない。
野暮な存在はとっとと退散し、あとはお若い仲間同士でどうぞ。
なかったはずの腕が元に戻っており、夢でも見たのかと困惑するエルダの声。
夢ではないと説明するリュシーとアスファ達の声。
自分などを庇うからそんな目に遭うのだ馬鹿かあなたはとなじるリュシーのきつい声に、咄嗟の行動に文句言わないでとやり返すエルダの元気いっぱいな怒声。
まあまあとたしなめるアスファに、「そういえばこんなことが」と何やらリュシーが不穏なことを言い始め、エルダが「あら……わたくしが寝てる時にそんな素敵なことを」と低い声音で乗っかり、アスファがどもって大慌て…………何の話題で攻撃しているんだろう?
ぎゅうして頭をなでなで、それのどこに責めたり慌てたりする要素があるのだか?
ちょっと考えてみる。
わからない。
「子供っぽいってからかわれてんのかな?」
「……子供ではないからこそ、だと思いますが」
そうこうしているうちに、シモン少年だけがそそくさと出てきた。
つい聞き耳を立てていた瀬名とばっちり視線が合い、少年はわざとらしくヘラリと笑んで、明後日の方向に視線を泳がせる。
(逃げてきたな)
だがしかし残念。ここにはラフィエナ女史がいるのである。
「彼ですか?」
女史はとても素敵な微笑みを浮かべた。疑問形ではあるけれど、これは疑問ではない。
瀬名はこっくりと頷いた。
「連れてお行きなさい、ラフィエナさん」
「ふふ……お任せください」
シモン少年は木漏れ日の精のごとき美女に、ほんのり頬を染めている。さあこの淡い少年の表情はどこまで保つだろうか、今日で終わりかな、瀬名は心の中で手を合わせた。
瀬名と交代でエルダをここまで運んできながら、息切れひとつない彼女を、容姿で判断してはいけないのである。
彼はきっとすぐにでも、それを学ぶだろう。
王子達の誰かが師匠になるかと思ってたのですが、多忙なので付きっ切りで鍛えるのは難しいかなと。
精霊族の女性枠で出ていただく予定だったラフィエナさんに早めに登場してもらいました。