109話 逆鱗 (1)
主人公、キレるの回です。
あまりにも無造作に、抵抗感もなくすっと刃が通り、サフィークは最初「?」と目をしばたたいた。
三分の一ほどを残してぶらんと垂れ下がり、噴き出るそれが鮮血だとようやく認識して、初めて絶叫がほとばしる。
防音に配慮した設計の治癒院は、最奥でどんなに悲鳴をあげようが、外には漏れない。
「か、神よ!! かみよいだいなるみなにおいてわがいのりをききとどけたまえ、【癒光】ッ!!」
「早口言葉か」
呆れる魔女の突っ込みも届かず、サフィークはちぎれかけた己の腕に向けて全力で叫ぶ。
ところが、何も起こらない。
「えっ? ええっ? ……【癒光】!! 【癒光】!! ――【治癒の祈り】!! 【癒しの雫】!! 【気高き神々の御手】!! ――そ、そんな、そんなどうしてっ、なぜだっっ!?」
シェルローが「おや?」と片眉を上げ、仲間に合図を送る。心得た相手は、魔術の鎖をサフィークの上腕に絡みつかせて出血を止めた。
(へえ? この魔術、拘束だけじゃなくこんな使い方もできるのか)
用途の広さに瀬名は感心した。
瀬名の〈精神領域刻印型魔導式〉略して〈グリモア〉は、魔力切れの心配がなく、イメージさえできればたいがい何でも可能になる反則級の優れものだが、もちろん不可能な事柄もある。
炎や風や水といった、形の定まらない現象ほど楽にイメージできるけれど、形の明確な物質は、細部までイメージしなければ発現させられない。以前、初めて〈グリモア〉の練習をしていた時、光輝くなんちゃって魔法陣をどうにも上手く展開できなかったのと同じ理由だ。
前に【大蛇】を倒した時は、ひたすら単純な〝剣〟の形状のみを保っていたため、なんとかそれを長時間維持できていたけれど、あれだけでもかなりの集中力を要した。物質化した魔力の鎖を自在に操るなど、少なくとも現時点では成功させられる自信がない。
痛みと貧血で顔色が真っ白になっているが、ショックが上回ったのだろう。サフィークは気を失うことなく、その意識は明瞭なまま、「なぜ、なぜ……」とうわ言のように繰り返した。
「【癒光】……【癒光】…………な、なぜ? 神よ? 嘘だ……どうなさったのです、神よ? 早く、はやくお聞き届けを……」
どうしてもこうしてもない。瀬名はサフィークに何が起こっているのか、正確に把握していた。
〈グリモア〉によって魔素の動きを感知できるようになり、相手の魔力の流れも読めるようになっている。その気になれば、相手が魔術を発動させる前に、その魔力を魔素に分解して妨害する芸当までも可能になっていた。
けれど、瀬名はサフィークに対し、一切の妨害をしていない。――その必要などないからだ。
「おや? ひょっとして、神聖魔術が使えなくなっているのかな?」
知っていながら、意地悪く尋ねる。
「そっ、そんなはずはないッ!! そんなわけがないだろうッ!! 私はッ、私にッ、そのような馬鹿なことなどあるはずがないッ!!」
「そう? じゃあどうして何も起こらないんだろうね? 魔力切れでもないのに」
「――――ッッ」
サフィークは再び詠唱を唱え始めた。一連の展開を目にしていた他の神官達が蒼白になってがたがた震え、むしろ彼らのほうが意識を失いそうな勢いだった。
精霊族達はそれを見越し、気絶しかけた者に微弱な電流を流して覚醒させ、徹底して逃げを赦さない。中には恐怖のあまり失禁しかけた者もいたようで、浄化の詠唱も聴こえた。
どうやらこいつらも、サフィークに何が起こったかを知っている――それは彼らにとって、痛いほど身に覚えのある現象であり、だからこそ、それが明るみに出ようとしている予感に恐怖せずにいられないのだ。
驚愕に血走った目で、サフィークを凝視するラゴルス以外は。
瀬名は蔑みを眼差しにこめ、いまだ魔術の詠唱を狂ったように続けるサフィークへ宣告した。
「もうあきらめなさい。使えなくなっているんだろう」
「っ、……なにを、何をしたんだ!? あなたは私に何をした!?」
「何もしてないよ、人のせいにすんな。あんたは、あんた自身のしたことが原因で〝資格〟を失ったんだ」
「そんな――そんなわけがないッ!! 私が何をしたというんだ!? 神々の意に反することなど、何ひとつッ!!」
「したんだよ。だから使えない」
出来の悪い生徒に言い聞かせるように、瀬名の声音はいっそ優しげだった。
この世界では、数多くの神々が信仰されている。だが、国の都合によって神話の内容を大きく変えられることは滅多になく、登場する神々の顔ぶれもほとんど変わらない。
国によって言語が異なるため、微妙にスペルや発音が違う程度であり、たとえ耳慣れない言語であっても、どの神の話をしているのかだいたいの当たりを付けられる。
それは、神聖魔術という、明確な神々の証拠が存在するためだ。
民は神々に信仰と敬愛を捧げ、神々は神聖魔術という恩寵を民に与える。
神官は見習いを脱却する十代半ばから後半ぐらいからその〝資格〟を得て、後は個々の才覚によって能力を伸ばしてゆく。
幼い子供は心身ともに成長途上で、魔力を自在に操れるほどに熟していない。保有魔力量が少ないだけでなく、大きな魔術の行使に耐えられるほど身体に強度がないのだ。
精神と肉体の成長に比例し、保有魔力も増えてゆく。それが一般的な人族の術士であり、神官だけでなく、魔術士も大成するのはだいたいが二十歳を過ぎてからだ。
そのあたりの基本は、どちらも同じ。
ただし神聖魔術が属性魔術と大きく異なるのは、〝ある条件に抵触したらあっけなく失われる〟点だ。
それこそが神官達にとって、この世で最大の恐怖だった。
「神聖魔術の資格を失う条件。それは〝私欲のためだけに神聖魔術を行使すること〟だったよね」
「私は己が欲望のためだけに魔術を使ったことなどない!! あなたが私に、何かしたんだろう!! こんな、このような酷いことを……!!」
「酷い? 尊い犠牲で良かったじゃないか」
「こ、これのどこが、尊い犠牲だと!?」
「私の気が晴れて、アスファ達の溜飲が下がる。あんた一人が痛い目を見れば、ひょっとしたら他のお仲間は無傷で済むかもしれないし。良いことじゃないか?」
思わせぶりに、他の神官達を見やった。
恐怖をたたえた瞳の中に混じる、見間違えようもない、かすかな期待。
魔女の怒りを買った青年一人を差し出せば、自分達はなあなあで済ませてくれるのではないか。そんな期待を抱いている目だ。
鈍いサフィークは、彼らの様子に気付かない。
「あ、あなたはおかしい……尊い犠牲とは、人々のため、より多くの民の幸福のために、傷付き苦しんだ者のためにある言葉だ……あなたは、ただ私に、暴力をふるっただけではないか……!!」
「エルダは、まさか自分が〝尊い犠牲〟呼ばわりされるなんて夢にも思わなかったろう。もし運悪く命を落としていれば、永遠に知ることもなかった。つまりその言葉は、犠牲にされた当人が名乗るものではなく、犠牲にならなかった他人が、そいつの都合で勝手に押し付けるもの。自分だけ助かりたい人間が、そのことを誰にも責められないようにするための方便だ」
「――」
「アスファもエルダもリュシーも皆、肝心な情報の一切を知らされないまま、何も知らずに危険な遺跡へ足を踏み入れさせられた。矢の雨を浴びた少年は、自分の死が世の人々のためになると認識していたと思うか? ぺしゃんこの肉塊にされた少年は? 落とし穴に落ちた少年は? エルダは魔王に対抗する手段を得るためと覚悟の上で遺跡に挑み、怪物の凶刃に腕を落とされたわけなのか? ――違うだろう」
「そ……れは……」
「エルダはただ、恐ろしい敵に重傷を負わされた。あんたは、目の前の私に腕を落とされそうになっている。同じなんだよ。どちらも同等に、理不尽な、大義もクソもない〝暴力〟だ」
「……ち、…………ちがう……私は、私たちは、同じではない……あなたは、何を言っているんだ……わけがわからない…………」
「わからない、じゃない。考える気がない、だろう?」
自分にとって都合の悪いことは、特に。
「あんた達は魔王が怖かった。魔王によって世界中が混沌と絶望一色に塗り替えられてしまうことが、ではなく、そんなものと戦う時に、あんた達神殿が矢面に立たされる可能性を恐れた。だからあんた達は自分達が直接そんなものと対峙せずに済むよう、自分達の代わりに戦ってくれる存在を探した。そしてその少年を見つけた」
それがアスファだった。神託なのか、別の方法で見つけたのか、それは後できっちり訊くとして。
「神殿の秘宝の中に、伝説の神々の剣があった。そしてその剣を少年に取りに行かせた。もし魔王が現われても『対抗する手段を相応しい者に与えた』と、声を大にして貢献を主張し、堂々と神殿の奥に隠れていられる。たとえ少年が自分達の都合どおりに動かなかったとしても、『より相応しい者が他にいる』と嘯いてそれを取りあげ、従順な者に与えてやればいい」
「わッ、我々がそんな非道な真似をするものかッ!!」
「じゃあ、アスファがあんた達の思惑通り動こうとしなくても、取り上げる気はないと?」
「話をすりかえるな、私は……」
「すり替えてるのはあんた達だ、サフィーク、最初からね。あんた達は、自分達以外の誰が犠牲になろうと構わなかった。自分達さえ無事でいられればよかった。魔王とやりあうなんて冗談じゃない、誰か別の者が戦ってくれたらいい。つまりそれはあんた達の都合であり、顔も知らないどこぞの人々のためでは有り得ない。さらにあんた達は、そのための手段として、神々の名を利用した――自分達の行動を、『神々もそう望んでおられるのだ』と勝手に決めつけ、すべてを神々のせいにした」
「……ウォルド!! ウォルド、友よ、助けてくれ……!!」
サフィークはあろうことか、ウォルドに助けを求めるという暴挙に出た。
「この罪深い、恐ろしい魔女をどこかにやってくれ……!!」
「罪深いのは貴様だ、サフィーク」
「え……」
「いつだっておまえは、皆のためと言いながら、自分のことしか考えていなかった。昔からそうだ」
「ウォ、ウォルド?」
「かつて俺の生まれ育った、エレシュという小国が滅びた。他国に占領される最大の原因となったのは――エレシュの大神殿で、内部の阿呆が内側から扉を開き、王族の軍勢を招き入れたことだ」
「え、……え?」
「〈祭壇〉が王族によって占拠され、そこはもはや敵国にとって〝不可侵の領域〟ではなくなった。俺もそうだが、おまえもエレシュ陥落の前に間一髪で国を出ていただろう。だから、皮肉にも元凶たるおまえだけ巻き込まれずに済んだ。当時、おまえの〝勇気〟を褒め称えていた者は多いが、皆が皆そうではなかった……おまえは他者からの苦言など、右から左へ聞き流していたがな」
ウォルドの拒絶に、サフィークは声を失い、呆然と目を見開く。ここに至ってようやく理解した。
ウォルドがサフィークに対し、凄まじい怒りを向けていることに。
「そ……そんな……わた、私は……」
瀬名はふう、と息をついた。
自覚して悪事を働いていた小悪党のほうがまだマシだった。ここまで逐一説明してやらなければ、自分の行いが善行ではない〝かもしれない〟とさえ思えないなんて。
「シェルロー。ラゴルスも話せるようにしてくれる?」
「ああ」
声がもとに戻っても、ラゴルスはまだ瀬名を睨みつけてくる。が、さすがに最初ほどの勢いはない。
どうやらサフィークの現状を見せつけられ、次は我が身と理解した様子である。額に汗を滲ませ、虚勢を張っているが、どこまで保つか。
「では、お仲間のラゴルスさん。サフィークもあんたも、己が未来の安泰のために他人を犠牲にし、あろうことかその口実に神々を利用したわけなんだが、それについて何か弁明でもあるかな?」
「……」
「遠慮せずに言ってごらん?」
「…………我々は、必要と、最善と思われることをした。その結果犠牲が出て、神々の怒りを買うことになろうとも……残念ではあるが、大義のためになら、それもやむを得ぬだろう」
「言い訳が上手だねえ。ところで、罠用の少年を何人も用意する点の、どこが最善なのか訊いてもいい?」
「他に方法はなかった」
「高ランクの討伐者を雇わなかったのは、虚偽ばっかりの事前情報を訴えられてギルドともめたくないからかな。だから、死んでも誰も文句を言ってきそうにない人選に……」
「くどい。たとえランクの高い討伐者であろうと、あれはどうにもならんだろう。神々の御業を用いられた遺跡であり、そこにあるのは神々の剣だ。試練を経ずして、犠牲なく楽に手に入るものと思ってはならん」
「あんたの欲しいものを手に入れるために、あんた以外の全員に押しつける試練ですか。どう聞いても迷惑にしか聞こえませんねー」
「我々は、間違っていない。我々の尽力なくして、あの迷宮を迷わずに進み、ひとつの罠も意に介さず回避できる方法など、あると思うのか?」
「あるよ?」
「――えっ?」
予想だにしなかった即答に、ラゴルスは目を瞠った。
ラゴルスだけではない。隣でそれを聞いたサフィークも、他の神官達もぽかんと目をまるくした。
「ARK。遺跡の図面を」
《かしこまりました》
小鳥が応え、光が照射された。
空間に浮かびあがったその光の線に、瀬名を除く全員が息を呑む。
「瀬名……それは?」
「神殿から地下遺跡、それにこの治癒院に至るまでのすべてを描いた〝地図〟だよ」
「な――なんだと!?」
「馬鹿な!?」
ARK・Ⅲが瀬名の求めに応じ、表示させたそれは、紛れもなく地下遺跡の構造を余さず描いた〝地図〟――
幻術や魔封じ結界など一切の影響を受けない、ワイヤーフレームで表示された、詳細な立体図面だった。
こういうウラワザが存在するのでした。
神官サイドの正当性、木っ端みじんです。