割り算の魔法少女②
(……なあ、行かなくてよかったのか、屋上)
(何を当たり前のことを)
放課後、私たちは暦の呼び出しに従って、中庭のベンチを目指していた。無論、告白の相手が待っている屋上など、絶対の絶対に行かない。
太陽は私を焼き焦がすようにジリジリと暑苦しいし、鳴き喚くセミは私をあざ笑い、片隅に見える陽炎は私の心身に異常があるからそう見えて、下校していく生徒たちは誰ひとりとして私に興味など持っていない。
(何発か殴っても問題なかっただろ)
(それじゃあ我慢できなくて、きっと殺してる)
私が言い切るのと同時、中庭が見えてくる。
木漏れ日の下のベンチには、暦がその小さな体をいつも以上に小さくして座っていた。
「……ああ、やっぱり」
ひどく陰鬱な声音。もう帰りたいが、しかし帰れない。そんな権利はない。
私たちは少し躊躇いながらも、拳二つ分ほどの距離を離して暦の隣に座った。
「ごめんね、いきなり呼び出して。テスト前なのに」
「別に、暦がいなかったら私なんて赤点よ」
私たちは目も合わさずに、正面を向きながらそう言った。……ああ、久しぶりの会話がこんなのなんて、あまりにも悲しい。
「……それで、なんで私を呼び出して――」
白々しくも言い終えるよりも早く、暦が私に抱きついた。
シャンプーを変えたのだろうか、あの頃とは違う柑橘系の匂いとともに、彼女特有の甘やかな匂いが鼻腔をくすぐる。
「――うわあああああああん!」
そしてそのまま、少女は慟哭した。
私はただ無言で、その背をぽんぽんと優しく叩くことしか、出来なかった。
本当は私も泣きたかったが、他ならぬ私がそれを許さない。
ああ、断じて許してなるものか。
感情の混沌、その渦の中で、溺れそうになりながら私はそれでも耐え続けた。
呼吸が出来ない、必死に手を伸ばす私を、意味のある言葉が掴む。
「……私ね、振られちゃった。本木くんに」
しかしそれは、言葉のナイフだった。
ああ、私の胸に顔を預けた暦は今、どんな顔をしているのだろう。
「……そうなんだ」
それでも私はなんとか喉を振り絞って、私はただ白々しい言葉を吐いた。
そうだ、何もかも知っていた。
あの告白の手紙に書いてあった名前は、モブ男――本木武夫だった。
「いきなり、好きな人ができたって」
ああ、それは他ならぬ私だ。
感情の混沌が、再び鎌首をもたげる。
ひとつは、怒り。たかが私ごときに惚れて暦を泣かせたあの男への。たかが私ごときが惚れられてしまったことへの。私がどう足掻いても手が届かなかった暦を簡単に捨ててしまえることへの。
ひとつは、嫉妬。そんな最低な理由で暦を振ったにもかかわらず、ここまで涙を流させるあの男への。
ひとつは、歓喜。暦とあの男が別れたことへの。……いいや、それだけではない。そこにあるのは『ざまあみろ』という暦への気持ち。私を振った報いだと。
……そして何よりも、罪悪感。そんな後ろ暗い歓喜を覚えることと、何よりも私がその引き金を引いてしまったことへの。
「……ごめんね」
「……セツナはなんにもしてないじゃん」
思わず謝ったが、しかし『その好きな人は私だ』とは言えない。
ああ、私はただ自分の罪悪感を和らげるためだけに脊髄反射的に謝っただけに過ぎない。
「……私、浮かれててバカみたい。自分からセツナを拒んだのに、自分が辛くなったら都合よく頼って、最低」
最低なのは私だ。
我が身可愛さが、暦に嫌われたくないという気持ちが、全てを白状して謝るという選択肢を喉に貼り付けて剥がさせない。
「……嫌いになったよね、私のこと。……きっと、本木くんも私のそんなところを見透かしてたんだ」
「それは違う。絶対に」
私はたしかにそう思ったが、しかしそれよりも早く、口が勝手に動いていた。
そして私の口は、さらに勝手に動いていく。
「少なくとも私は、天音セツナは、あなたが大好きよ。いまも、むかしも、ずうっと」
まごうことなくそれは私の気持ちだが、しかしその言葉を紡いでいるのは私の意思ではない。
「いいや、愛してるわ」
私の体が勝手に動いて、暦を優しく離す。
そしてそのまま見つめ合い、私の唇は暦のそれとゼロ距離になった。
……すなわち、キスをした。
小さな唇。あのときと同じ、柔らかい感触。あのときと違う、涙の味。あのときと違う、まるで他人事のような感覚。
全て、私の制御の外で。
ああ、全て私の中のカレンの仕業だった。
『セツナさん!』
ミヅキの声とともに、インターホンが鳴り響き、私の意識は覚醒した。
『いるんですよねー、出てきてくださいー! もうテスト終わっちゃいましたよー!』
「……ああ、もうそんなに経っちゃったんだ」
暦とキスをした放課後の翌日から私は不登校になっていた。
薄暗い私の部屋、カーテンからは未だに陽光がうっとおしくも差し込んでいる。時刻は昼過ぎだった。
私はミヅキの声と連打されるインターホンをBGMに寝ぼけ眼をこすりながらスマホを取り出して、ミヅキだらけの着信履歴をスクロールしていく。
「暦はなし、か」
あれから、暦とは会ってない。
キスをした直後に私が逃げたからだ。
そして再び会う意気地もまったくありやしない。
『……』
そして、本当にキスをした下手人――カレンは私から顔を背けて部屋の片隅でむっつり黙っている。
最初の頃は何千何万回も『ごめん』と言っていたが、しかし私が許さなかったからか、もはや置物状態だった。
『おーい、一体何があったんですかー! 勉強のしすぎで知恵熱でも出したのー!?』
もし、本当に私が一人でも、ああやってキスをしたかもしれない。いや、しただろう。あのタイミングではなくとも、思案の後に。
では果たして、私はカレンの何がそんなに許せないのだろうか。
今の私には自分のことだと言うのに分からない。
それでも、怒りやら何やらが複雑に混じり合った沈殿物が私の体と心を鉛のように重くさせ、行動を阻害させる。
『おーい、生きてるー!? 死んでたら返事してくださいー!』
「……眠」
ミヅキに応対しようにもベッドから立ち上がるのも億劫で、再び睡魔が私に襲いかかった。
カレンが暦にキスしたのは、別に悪気があったわけではない。
セツナがあまりにも暦暦暦うるさいから、少し嫌がらせというか意趣返しというか、そういった気持ちがそこにあったことは認めよう。だが、それでも善意で動いた。あまりにももどかしく、セツナがあまりにも可哀想だったから。
……だけど、現実はもうカレンは何日も無視されている。
「……えー、寝てるじゃん、セツナさん」
部屋に入った途端、ひどく残念そうにミヅキは言った。
『ああそうだよ。私が念力で開けたんだ』
あまりにうるささに耐えかねて、カレンはセツナの魔力を使った念力で家のドアを開けて、彼女を家に招いていた。
「……それで、なんでセツナさんは絶賛不登校なんですか? 私なーんも楽しいことがないんですけど」
セツナと一緒にいるときよりもぶっきらぼうに、ミヅキは問う。
『教えねえよ。とりあえずセツナは元気だ。それがわかっただけで十分だろ』
「あれだけピンポン言ってるのに寝てるとか絶対おかしい」
そう言って、ミヅキはカレンを至近距離で睨みつけた。
『……』
それだけで吸い込まれるような琥珀の瞳――少女の魔性のようなものにカレンは思わず息を飲む。
「答えないと、セツナさん起こしますよ。どうせ喧嘩でもしてるんでしょ、また悪化する」
『……なんで知ってるんだ』
「なんとなく」
『……わかった、教えるよ』
カレンは長い長い思案の末に、仕方なしに教えることにした。
セツナが破局の原因であることを伏せて、それ以外の概ね全てを。
「……なるほど、なるほど」
得心言ったかのようにミヅキはうなずいた後、つぶやいた。
「カレンさんが悪いですね、全面的に」
『わかってる。だから死ぬほど謝った』
「生きてるじゃん。……そもそも、なんで怒ってるかわかってるんですか?」
『……』
いざ言われてみると、即答できない。
『……勝手に動いたから?』
「そうなんだけど、そうじゃないですよ。多分、セツナさんは自分にとって大切なことの判断を他人に勝手に下されたことに怒ってるんです。カレンさんが思ってた以上に、セツナさんの暦さんへの思いというのはずっと重かった」
『……た、他人』
体を共有していても、他人は他人。その気持の重さを正しく推し量ることなど出来るはずがない。だからこうなっている。
「そう、他人。いくら近くても他人は他人。それなのにしゃしゃり出て、自分にとって大切なこと――暦ちゃんとの今後を勝手に歪められたら怒るのは当然です」
言われてみれば、得心できた。
たしかにそのとおりだ、たとえセツナの性格上キスをするタイミングが少し早くなった程度だろうとも、それでも自分にとって大切な判断であることには違いがない。
それをしょせん他人であるカレンに邪魔されたら、怒るのはごく当然だった。
『……そうだよな、しょせん、他人だ』
「よくわかんないけど、納得できたならいいですそれで。これお土産、セツナさんにあげてねくださいね」
そう言ってミヅキは部屋から出ていったが、しかしカレンはそのことにさえ気づかないほどに憔悴していた。
『ねえ、私たち本当に同じ高校行けるかな』
それは、夏休み、中学3年生の私たち――天音セツナと間宮暦が交わした会話。
私の部屋。少し開いた窓から差し込む風がカーテンをはためかせて、蝉の鳴き声が聞こえた。ちゃぶ台には二人分のノートが広がっている。
『……まあ、正直今のままじゃセツナは危ないかな』
『うう、忌憚なき意見』
『最悪私が志望校をランクダウンすればいいよ』
『それは駄目』
こともなげに言った暦に、私は即答した。うれしいが、しかしそれでは駄目だ。私が暦の未来を狭めてはいけない。
……その頃の私は、その思考がすなわち、ずっと一緒にいるという願いに矛盾していることに気づいていなかった。
『私が頑張ればいい』
『じゃあ私は勉強を教えるのを頑張る。……正直、かなり重荷だけど』
そう言って私たちはまた勉強を再開する。それから30分もしないで、私はこう言った。
『……ねえ、ここがわからないんだけど』
『ん?』
無防備に真横に来る暦、甘酸っぱい汗の匂いと彼女特有の甘やかな匂いが渾然一体になった香りが私の鼻孔をくすぐる。
『好き』
私はそんな匂いの誘惑に負けて、彼女を押し倒してキスをした。この頃にはもう慣れたが、しかしそれでも心地よい感触。そのまま長い黒髪をさらさらと手元で弄ぶ。
『『……暑』』
しばらくそうやって触れ合っていたが、流石に暑くなってきてお互いに離れた。
『ていうかさっき頑張るって言ったばかりじゃん、バカ、偏差値42』
『……やめて、その罵倒は効きすぎる』
『真面目に危ないよ、セツナの成績じゃ。E判定とかいうけどあれは下限がそれなだけでZ判定くらいだと思う』
『……でも、きっと高校が一緒じゃなくても、私たちはずっと一緒だよ。私たちは永遠だ』
あえて友情とかそういった言葉を用いなかったのは、私たち二人の関係をそんなありきたりな言葉で定義したくなかったからだ。
『うん、永遠』
私たちはうなずきあって、再び机に向かった。そのとき、対面の暦に変化がもたらされる。
『まあ、そんなわけないんだけどね』
その腰まで伸ばされた黒髪が、首元までばっさりと短くなった。そして残酷な言葉が続く。
『実際はクラスが違うだけで簡単に崩れちゃった。男ができて、それで永遠ごっこはおしまい。バカバカしいね、永遠なんてないんだよ』
『……!』
言葉とともに、私たちの足場が一気に崩れていく。まるでブロックのように。
気がつけば私は、高校の教室に立っていた。
足元には心臓にナイフを突き立てられ、血まみれの床に倒れ伏せる一人の少女。
『……嘘でしょ、なんで、暦が』
真っ青な顔でこちらを見上げ、力なく手を伸ばす少女は、まごうことなく暦。
私の目の前で、髪を短く切った、高校生の暦が生々しく息絶えようとしていた。
「うわあああああっ!」
私は悲鳴を上げながら、ベッドから立ち上がった。
「……夢、か」
気がつけば夕方の6時近い。すでに日は真っ赤に焼けて、セミの声にカラスの声が加わっている。先程から寝てからかなりの時間が経過したことを告げていた。
(前もこんな夢を見た気がするな。たしか、初めて魔法少女になった日だったか。……そういえば、あれから一ヶ月そこらしか経ってなかったのか)
『……』
そんな魔法少女の片割れに視線を遣ると、そこには私との糸を必死に引きちぎろうと引っ張っているカレンの姿が見えた。
(……そうか、もう私にはすっかり愛想も尽き果てたって、そういうことか)
私は何もかもどうでもよくて、特に感情が湧き上がらなかった。
(でも、暦がいなくなって、カレンもいなくなったら――)
私はそこで、なんだか急に悔しくなって思考を止めた。そして己をごまかすようにスマートフォンをいじり、そこに衝撃的な文字列を見る。
『午後の6時に学校の屋上で待ってます』
たったそれだけの、間宮暦のメッセージがそこにはあった。
現在時刻は、午後5時46分である。
「そうですか、来てませんか」
やっとのことで、試験1日目が終了した。暦はすぐさま帰り支度をして1年1組を目指したが、しかしそこには彼女が求めていた相手はいなかった。
「……どうしたのかな、セツナ」
暦は心配する。
きっと、あのキスが原因なのだろう。中学生のときは毎日のようにしていた、彼女にとって友愛なのか恋愛なのか、最後の最後まで曖昧なままだったついばむようなキス。
(……でも、なんでそれだけで不登校になってしまったんだろう)
久しぶりだったが、しかし慣れたものだ。それどころか心のどこかで期待してさえ抱いていたかもしれない。無論、暦にとってのそれは友愛なのだが。
(でもそれって、おかしいんだよね)
自分だってわかっている。友情で唇同士のキスなどしないことは。だから暦は高校生になったことを機に二人の関係を離そうとしたのだ。このままでは、取り返しの付かないことになりそうで怖かったのである。
あるいはすでに、暦もセツナも取り返しがつかないのかもしれない。その証拠として、あんなにも本木に振られたことが悲しかったのに、それ以上にセツナのことが心配で、そんな事を考えてる余裕がなかった。
「……まあ、何にせよ、セツナに会わないと駄目か」
暦はそう考え、セツナの家を目指した。彼女がどう考えているかを知らねば、何も始まりやしない。ディスコミュニケーションは最大の過ちだ。
「――!」
そうして見慣れた彼女の家の門にたどり着いたとき、暦は背後、首筋から鋭い痛みを感じた。……そしてそのまま、瞬く間に目の前が真っ暗になっていく。
「……おはようございます」
そして次に目が覚めるとそこは、まったく見覚えのない異様な光景だった。
「―――」
反射的に恐怖の叫びをあげようとするが、どうしてか声は上がらない。まるで喉が麻痺しているようだった。暴れようにも、どこかに横たわっている体には喉同様に力が入らない。
(……嫌だ、何なの、これ)
怖いのに、涙腺さえも機能しない瞳。それに映るのは、手術台のようなまばゆいライトの下で暦を見下ろす、十字の仮面をかぶった不気味な男。
「大丈夫です、痛くないですよ」
男はまるで父親のように言って手術をする前のように両手を掲げて、
「さあ、実験を始めましょう」
暦の視界は再び暗転した。




