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家族といても1人の2人

聾も聴覚過敏も、五感の感覚が違うと、家族にすら他の国の生物のように扱われてしまうことがある。

期待していた病院は最悪だった。電車ではまた無理解から差別を受けた。だけど、そんな悲しみを吹き飛ばしてくれるような人に出会えた。円からもらったLINEのIDを大事にアプリにしまい、幸せに微笑みながら縁が家の玄関を開けると、仁王立ちで母が困惑と失望、怒りの入り混じった顔で待ち構えていた。


『縁!今日は体調不良で会社早退したって本当なの⁉︎』


母は怒っていても、大抵ゆっくりしたスピードで、表情や口の形を見せながら会話をしてくれる。内容がごくシンプルなものであれば、程度理解できる。が、その気遣いとは裏腹に、娘の体調不良を第一に心配する態度ではない。。


『うん』


縁はぶすっとして頷いた。この人はいつもそうだ。縁の気持ちなど考えない。ただ世間的に見て、少しでも平均とズレていないか、他人より多く迷惑をかけていないか、そればかりを気にする。


聴者並みになれ。


そんな母の理想を叶えるため、どれだけ無茶苦茶な努力を強いられ、地を這うような苦しみを味わってきたか分からない。母親は憮然とした娘の態度にいらついた様子で、手に持ったホワイトボードに文字を書きなぐり、縁の眼前に突き出した。


『うんじゃないわよ!さっき会社から電話があって、縁さんお腹痛いって言ってましたけど家で悪い物食べたからですよね?縁さんいつも自前のお弁当だし、うちで提供してる社内弁当が原因じゃないですよね?って言われてびっくりしたわ!』


せっかく円が散らしてくれていた暗い澱が、心の中に溜まっていく。会社の人間もまた、縁の体調不良の心配なんかより、それが業務上の災害にならないかどうかが大事なのだ。

母は、縁の手を強引に引いてキッチンに連行していった。脱ぐのが追いつかず、無理やり主人の足から外されたパンプスが玄関に散らばる。ダイニングテーブルには角ばった父の文字が書かれたノートが出されており、その前に父親が腕を組んで座っている。


『上司の方が、せっかく病院まで送って行くと言ってくださったのに、1人で行ったそうじゃないか。せっかく申し出たのに、頑なに嫌そうに何度も断られたから、相手方は気分を害したようだったぞ。お前はどうして、そういう人の心の機微に気づけないんだ。子どもの頃から注意しているのに、まったく直っていない!』


瞬間的に、食器棚に陳列されているコップを全部割ってやりたくなった。


(あなたに何が分かるの?耳が聞こえなくて、できないことを全部私の甘えのせいにし続けていたら、いつか私の耳が聴者と同じになるとでも思ってるの⁉︎自分は聞こえない苦労を1つも知らないくせに!)


音声コミュニケーションを取る相手の心の機微が分からないことがあるのは、遠慮しているのか冗談で言っているのか、怒っているのか心配そうにいっているのかなどの、発音の微妙なイントネーションが聞き取れないためだ。大体、件の上司との行き違いはそれが原因ではない。

上司達は、耳の聞こえない縁をセクハラやストレス解消のターゲットにしてくる奴らなのだ。特にセクハラが酷い上司に、下心丸出しの顔で、不必要に肩を抱かれながら車に連れ込まれそうになるのが嫌ではない女性がどこにいるというのか。そもそも、娘が逆らえない立場の男性との同乗を嫌がった時点で、親ならば何か察することはできないのか?

けれど縁がいくら自分の意見を伝えようとしても、暴れても、父親は男の腕力でそれを押さえてかかる。そして結局縁が100%の非を被らされることを知っている。子どもの頃から、幾度となく挑んでは知った無力的な真実。

ほんの数回だけ、縁の主張が通ったことはあっても、それは縁の頑なな態度に呆れ果てた親の苦渋の措置であって、縁の心を思ってのことではない。


『私聞いた、話、うわさ、上司、女の人、みんな、嫌。 みんな、体、触る、彼氏はいるのか』


殺した怒りを胸の内に押し込め、父親が納得するであろう言葉を選びながらノートに書いた。自分だけではなく、みんなが被害に遭っている、と嘘を入れた。自分だけターゲットにされている惨めな事実を、自分で認めるのが辛すぎたからだ。

自分の日本語では分かってもらえないこともあるので、男に体を触られる女性職員のイラストを添える。絵を描きながら、上司にされてきた数々のセクハラが頭に浮かんできて吐きそうになった。こんなこと、異性の親に話さなきゃいけないこと自体、鳥肌が立つほど嫌だ。


『最近の女はちょっと触ったり、彼氏がいるか聞くだけでセクハラだと騒ぐ。お前たちの自意識過剰じゃないのか?』


父が書いた内容に、流石に母が何やら言いながら諭した。父は納得できないという表情を崩さなかったが。母は再びペンを取り、ノートの隣に置かれたホワイトボードに書き始めた。


『でも、男の人が駄目なら女の人に頼むとか、色々方法はあったでしょう?あなた、入社して2年も経つのに、まだ同じ年くらいの友達も作れてないの⁉︎』


無知と無理解に縁取られた残酷な言葉。縁はズンと胃の底に鉛の弾を沈められたような気分になった。それができれば、私は今こんなに苦労も傷つきもしてない!


『その通りだ。嫌なことがあってもニコニコして、聴者並になれるように人の10倍努力しろ。周りは聞こえる人ばかりなんだから、筆談してくれないのも当たり前だ。お前がもっと頑張って口の形を読めばいい。そうすれば聴者もお前を友達にしてくれる。これも小さい頃から言い聞かせていることなのに、なぜ実践できないんだ!』


書き足されていく父の文字に、薬で収まったはずの胃がよじれる。大嵐の海に放り出されているのに、1番近くの船に乗っている人が、何も助けてくれない。どころか、自力で泳いで陸まで辿りつけと叱りつけてくる悪夢。痛い、お腹が痛い。

ぐらりと縁の体が椅子から傾く。母が慌てて支えようとしたのが見えた。が、縁の意識はそれよりも早く、海底のような闇に呑み込まれていった。


「痛って」


円はビンタされて腫れた頬を、氷水の入ったビニール袋で包んで冷やしていた。円は、でアニメを再生していたパソコンに繋がったイヤホンを外し、その下の耳栓を取った。この耳栓は、100均の耳栓を2つ、刺繍糸で縫い合わせて作った、自家製のパワーアップ耳栓だ。本当はモルデックスの高級な耳栓を買いたいのだが、ネットでしか手に入らない。ネットショッピングだと必然的にクレジットカードがいるので、未成年の円は自力では買えないのだ。そもそも母親が、円が部屋に隠している耳栓を見つけ次第処分してしまうので、あまり高級なものを買えないというのもある。先ほど耳栓を外した時は、台所から怪鳥のような金切り声を上げる母親と、それを必死で宥める父親の喧嘩が聞こえていた。しかし今は静かだ。良かった。ようやく疲れて眠ってくれた。

丁度その時、コンコンというノックの音とともに、ひょっこりと父が顔を出した。廊下の明かりが、パソコンの光だけを付けている円の部屋を細く照らす。


「まどか。ごめんな、母さんを止められなくて。痛かっただろう」


父が眉を八の字に下げてすまなさそうな顔を作る。そこで謝るなら離婚しろよ、という文句は、自分も娘を庇ってビンタされ、赤くなった父の頬を見て呑み込まれる。


「私、殴られて当然のことをしたんだから仕方ないよ。それより父さんも大丈夫?」


父は頷いた。


「ごめんね、私がこんなんに生まれたばっかりに。あいつの腹ん中にいる間に流れればよかった」

「そんなことを言わないでくれ、まどか」


目尻に涙を潤ませて、父は円に近寄って肩をさする。障害を母親に理解してもらえない、哀れな娘を見る父の目に、別の人が写っていることは、できるだけ気にしないようにした。

ちろりろりーん。

生ぬるい偽りの優しさの空気を割って、円のスマホ声を上げた。


「あ」


円の足下にどしゃっと氷袋が落ちた。結露が沢山ついたそれを、父親が慌ててカーペットから拾い上げたが、円は気にしない。


「あの人からだ!」


大急ぎで通知のバナーをスライドして、トーク画面に飛ぶ。ぴゃっぴゃっと自分のズボンにかかった水を指で払いながら、父が円のスマホを覗き込む。


「誰だ?山口…?まどかのクラスにそんな子いたか?」

「クラスの奴じゃないよ。大人の人」

「先生か?先生と個人的に連絡先を交換して大丈夫なのか?」


円は父親が拾ってくれた氷袋を受け取り、机の上にティッシュを敷いて載せた。


「今日知り合った人。電車で会った」

「なに⁉︎前から知ってるんじゃなくて、今日初めて会ったのか?」

「うん」

「全くの赤の他人か?同じ学校の卒業生とかでもなく?」

「うん。ちょっと困ったことがあったみたいだから助けてあげたらすげー感謝されてさ、いつかお礼したいからLINE交換してくださいって」


ぴくりと父の眉毛が心配そうな形になった。父は人から親切にされたり感謝されたりしたら、まず裏にある悪意や下心を疑う。それは父の子供時代の生育環境が影響しているに違いない。


「お前それは…、わざと困ったふりをして、心配して声をかけてきた女子高生の個人情報を聞き出してストーカーする奴とかじゃないのか。この前そんな事件があったし」

「心配しないで。女の人だよ」

「女でもなあ」

「耳聞こえない人だよ」


え、と素っ頓狂な声を父が上げる。


「フリじゃないよ。補聴器してたし障害者手帳も持ってる本物。それで困ってて」

「はあ。ああ、そうか。なら大丈夫か」


ふと父は馬鹿なのかと思う。障害者というカテゴリに入った人は、全てが父の妹のように、悪意も下心もない人間ばかりだと思っているのだろうか。目の前にその、健常者の勝手なイメージを覆す娘がいるというのに。


「この人に返信したら、台所の掃除しとくね。あの女コップ割ってたでしょ?父さんも早く寝なよ。今日は本当にごめん」


日常的に小さな怪我の耐えない円は、部屋に消毒液を常備している。それを父の血が滲む揉み上げに数滴垂らしてやると、アチッ、と小さく父が声を上げた。


「あ、ああ。その人と仲良くなれたらいいな。…でも、仲良くなってもその人の話を僕の前ではしないでくれ」


分かってる。と円はそっと口の中で呟き、父を部屋から出した。扉の閉まる音を背後に聞きながら、円は縁からのメッセージに目を落とした。


『返事すぐに返せなかったのは私椅子の倒れました。最近は目が冷めベッドで寝る中』


円は縁の日本語を必死で頭の中で修正し、それを縁に1つ1つ確認していった。そうしてやっと、縁は家に帰ったらすぐ円にLINEしようと思っていたこと、だけど両親に、縁に職場で友達ができないことや、いじめられることを責められて、また胃痛で倒れてしまったこと、だから今まで連絡できなかったこと、今ベッドの中からLINEを打っていることが分かった。


(この人、私と同じ毒親育ちなのか…!)


円は驚愕した。耳が聞こえないという分かりやすい障害なら、両親も理解してくれやすいだろうと思ったからだ。あの天然バカみたいな筆談の文章から、頭の緩い両親に甘やかされて育ったんじゃないかと、勝手に想像していたきらいもあるが。

同じような家庭で育った人と話すなんて久しぶりだ。興奮と好奇心から、普段は人には言わない家庭のことを、円は縁に打ち明けてみた。


『別にいいですよ。実は私も帰ってからしばらく、母親に泣きながら殴られてそれどころじゃなかったですし』

『殴られた どうして!』

『うちの母は、娘に聴覚過敏があることを絶対に認めないんですよ。だからそれでぶっ倒れても、音に耐えられなくて教室から飛び出しても、それが私の怠けや甘えのせいだって言ってとりあえずビンタです』


しばらく、相手が文章を書き込んでいる『…』というマークが映っていた。待った割に文章は短かったが、縁が懸命に難しい言葉を文章にしようと悩んだのが分かった。


『病院所で、も、あなた言った聴覚過敏、今言う。それはあなたも耳の悪いにあります?過敏は聞くのができませんのことですか?』


円は一瞬、迷った。耳が聞こえない、という、分かりやすい困難で苦しんでいる人間が、耳が聞こえすぎて辛い、という分かりにくい症状で苦労している私を理解できるのか?「自分は耳が聞こえないのに、聞こえすぎて辛いなんて贅沢な」と、逆に罵ってくるのでは?

しかし、彼女の障害は、自分の障害とは真逆にも関わらず、境遇が驚くほど似ているのではないだろうか。1人だけ、皆が団欒している家から締め出され、17年間誰もいない荒野を彷徨っていた時に初めて巡り会った人のような…。


『逆なんです。私は、普通の人が気にならない音が気になったり、苦痛に感じたりすることがあるんです』


気がつくと、円は今までの苦しさをトーク画面にぶつけていた

『昔から、私は人が気にしない音が気になる子でした。ドアを閉める音や、花火が遠くで鳴る音にもびっくりして泣く。母親には神経質でめんどくさい娘だと罵られました。父親からは、自分たちの育て方が間違ってたから、こんな過敏な子になってしまったんだと謝られる毎日でした。学校に通い始めると、教科書のページをめくる音、椅子を引く音、夏の扇風機や冬のストーブが唸る音、果ては隣のクラスの先生の授業の声まで、全部がうるさい。自分のクラスの先生の話し声に全然集中できない。だから先生の口頭の指示を聞き逃すし、休み時間のみんなのお喋りのうるささに耐えきれずに、図書室まで避難して行ったこともありました。一度そのことで、三者面談で両親と担任と話し合ったことがあるんです。けど、私がいくら「音が気になる」と訴えても、「その程度の音、みんな我慢してる。勉強をサボるための言い訳だろう」って、また叱られて。その頃私は、他の人も自分と同じように聞こえてるって信じてましたから、その言葉を真に受けてしまいました。他の人たちもこんな騒音の中、頑張って授業を受けてるんだ。自分だけ怠けるわけにはいかないと、徹夜で自主勉強することにしました。昼間、学校の騒音に晒され続けて、家に帰った時にはもうクタクタでしたけど、それでも手のひらにピンを指して眠気を飛ばして、必死で勉強してました』


辛いとかしんどいとか、円は自分の負の感情は、できるだけ隠すようにして生きてきた。そうでないと、このくらいでと罵られたり、骨折した脚を蹴るかの如くさらに執拗に攻撃を受けたりと、とにかく碌な目に合わないからだ。

なのに、なんで私は初対面の人に感情を晒け出してるんだろう?


『それと、小さい音でも、鉛筆のコツコツ音とか、鼻水をすすったり咳払いをする音とか、ページをめくる音、咀嚼音なんかも、不快すぎてものすごく怒りが湧いてきて無理です。これは正確には聴覚過敏とは違くて、ミソフォニア、音嫌悪症って呼ぶそうです。テスト中とかに鉛筆をカリカリする音が聞こえてきたら、イライラがMAXになるんです。授業中そういう音が聞こえたら、いっつも涙目になって左手で耳押さえながら答案書いて、それでも耐えられない時は、みんなにバレないようにこっそり泣いてました。隣の子が花粉症だった日には、休み時間のたびにトイレに駆け込んで、泣きながら腕や服を噛んでストレスを発散しようとしてました』


辛い思い出がまざまざと目の前に蘇る。円が怒りを押さえきれずに睨んだ花粉症の子は、きょとんとするだけで、自分の発する音が人を苦しめているとは全く分かっていなかった。けれど、苦しみはそれだけではなかった。


『中学生になって、周囲との違いに敏感になった同級生は、私の聴覚の過敏性に気づきました。わざと大きな音を私の耳元で鳴らしたり、必要以上に咳払いをしたりしました。そしてその度にパニックになったりビクついたりする私の反応を見て、笑う遊びを開発しました。一度、勇気を振り絞って担任に相談したことがあります。でも、担任は「そんな音が気になるなんて生きていけないだろう。神経質な子だなあ」って笑い飛ばしたんです。それから私は、誰にも音が気になることを相談しないと決めました』


LINEを打つ手が震えた。あの脳みそお花畑のクソ担任。どうしようもない音だというのは自分でも十分分かってる。防ぎようのない音だからこそ、とても困っていたのに。このままじゃ学校で生きていけないというのも分かっていたからこそ、ただ話を静かに聞いてくれるだけでよかったのに。何で人の深刻な問題を笑い事にしたんだ。自分は薄くなった髪の毛のことをちょっとでもからかわれると激怒する癖に、他人に同じことは平気でやる。


『もう誰にも相談しないと決めて、音を気にするのをやめようと努力して、それでもできなくて。気が変になりそうでした。中学の奴らと離れたかったから、猛勉強して今の高校に受かりました。授業に集中できないから、授業中寝て家や図書館で勉強してました。でも、高校でもまた目をつけられましたよ…ちょっと大きな声や音がするたびにビクついたり、耳を塞いだりする私に気づいて、また中学校の時と同じような悪戯をされはじめたんです。そんなある日、学校の授業でパソコンの授業がありました。キーボードのタイピング音にイライラするから、その授業も凄く憂鬱でした。ふと思いついて、自分の症状をこっそり検索してみたんです。そしたら、聴覚過敏っていうワードが出てきたんです』


そこに書かれた説明を見て、私はこれに違いない、と飛び上がりそうになった。けれど、15歳になってからじゃなく、5歳の時に誰かに気づいて欲しかった。そうしたら、「自分の性格や心の器量の問題だ」とこんなに悩まずに済んだのに!



『家に帰ってから両親に検索結果のことを話して、私はそれに違いないから病院に連れてってくれってお願いしたんです。馬鹿ですよね。母が発狂しました。「些細な音にいちゃもんつけて我儘ばかり言いやがると思ったら、今度は障害者気取りか!私が障害児を産んだって言うの⁉︎」って。ひとしきり私と父は、暴れ狂う母親のサンドバックにされました。土下座して謝りながら、必死で母を宥めすかすフリして、こっそりリキュールを混ぜたビールを振舞って、奴を昏睡させました。それから、父と私はもう一度、聴覚過敏について検索しました。そこには、私のことがそのまま書かれてたんです。「 騒音のある環境で集中したり読書をすることに困難を感じる。音楽など統制の取れた音は平気だが、無秩序なざわめきや金属音などは、頭を割るような不快な大音響で聞こえる。周囲の雑音の音量が全て同じ大きさに聞こえ、必要な音を聞き取れない。普通なら気にならない音までうるさく感じるので、注意力散漫になる。人体から出る咳やくしゃみ、鼻水をすする音など、特定の音を聞くと激しくイライラする場合もあるが、これはミソフォニア(音嫌悪症)という症状である。

今まで私が色んな音をうるさく感じるのは、私の人格や心の器量に問題があるせいだと思っていました。だから、これが障害の一種で、自分の気質とは関係ないこと、自分の性格を否定しなくてもいいことが分かっただけでも凄い嬉しかったんです。私は全部の霧が晴れたみたいでしたが、父親は泣いてましたね。円がこういう風に生まれてしまったのは、きっと自分の悪事が子に報いたんだって』


ごめん、ごめん、と父は泣いていた。自分が妹を見殺しにした罰がお前の聴覚過敏なんだと。他人の天罰が下った脳みそか私の頭は、と円は思った。私が欲しいのは、そんな言葉じゃなかった。


『それから私と父は母に黙って、心療内科に行って聴覚過敏の診断をもらってきました。驚きとかはありませんでした。ただ当然の結果が出ただけだと思いました。なんで今まで誰も、私をここに連れてきてくれなかったのか、もっと早くに適切な診断を下してくれなかったのかという怒りだけが残りました。でも、それよりも大変だったのは母親です。私を診断した心療内科にわざわざ私を引っ張っていって、診断した院長の前で一言「私はちゃんと育てたのに、障害者になるはずがないんです。私の家系にそんなのはいないんですから。あの検査結果を書き直してください」。院長先生は、一生懸命、聴覚過敏は育て方やしつけでなるものじゃないこと、遺伝がなくても一定の割合で産まれるから、両親の責任は無いことを伝えてくれました。でも殆ど母は聞いてなくて。その晩、父に泣きながら「何で自分の娘が、よりによって脳に障害があるんだろう。もう一度産み直したい。どこまで私は不幸になればいいの。産まれる前に分かっていたら堕ろしてたのに」ってぐちぐち言ってました。結局、最初の心療内科には2度と通わない誓約書を無理矢理母に書かされました。で、地元で1番ネットレビューの悪い病院に移されました。「娘が聴覚過敏なんて何かの間違いだ。怠けてできないことを全部病気のせいにして、今以上に甘えようとしてる」って母の考えに賛同してくれる先生だったからです』


最初の心療内科の先生は、母が無理矢理円を転院させる直前まで、ずっと円に親身にしてくれた。そして「絶対に家を出なさい。こんな過酷な状況で、今まで生きてきたあなたなら絶対にできる」と言い続けた。円と同じ症状に苦しむ人達が集う、フェイスブックのチャットサークルを紹介してくれた。このサークル1つしかないのかと円が聞くと、「聴覚過敏は、最近認知されたばかりの障害なの。だから他のメジャーな障害よりピアカウンセリングや自助グループの数が凄く少ないんだよね。聴覚過敏について書かれた本も、私が知る限り日本語のものは一冊しか無いし…」と、先生は悲しそうに呟いていた。自分は世界に認知されていない、同じ仲間を求めることすら許されない存在なんだと、円はその時悟った。


『転院させられる前、院長先生は大急ぎで診断書を書いてくれてました。父と私はそれを持って高校に行きました。「こういう診断が出たから耳栓やイヤホンの使用を許可してほしい。音で気分が悪くなったら別室で休ませてほしい」とお願いしたんです。実は、その時の担任は今までになくすごい優しい先生で、私の特性を一生懸命勉強して、対策までとってくれてました。でも間もなくして妊娠が分かって、旦那に家庭に入れと命じられて辞めてしまったんです。代わりに来た担任は、全く理解してくれませんでした。前の担任が私のために対策してくれたことも、全部「1人だけ特別扱いできない」って白紙に戻してしまいました。「1人だけがイヤホンをしているのを見たら、他の生徒はどう思う?特別扱いだって、いじめに繋がるかもしれないし、他の生徒もイヤホンをしたい、別室に行ってさぼりたいと言ったら、収集がつかないだろう。お前1人のためにクラス全体を学級崩壊させる気か?」って、キレ気味に言われました。なんで教師がそんなこと言うんでしょうか?私だって、できれば集団の中でわざわざ1人だけ違うことをして目立ちたくはない。けど、それをしないとまともに勉強もできないし、毎日ストレスなんです。あなたの補聴器のように、せざるを得ない補助器具と同じなんですよ。私は勇気を出して、「車椅子の人に、他の生徒も車椅子を使いたがって収集がつかなくなるから、這って学校に来いって言うんですか?足が悪くて体育の時間に休むと、他の子もズル休みしたがるから、ほふく前進で健常者と同じ量グラウンド回れって言うんですか?」って反論しました。けど、ダメ。「車椅子と音が気になる神経質じゃ全然違うだろ」って。だから聴覚過敏は我儘とかじゃなく脳の障害だし、診断書見せたのに。目に見えない障害ってだけで、なんでこんなに冷たい扱いされなきゃいけないのかって、私も父も悔しくて…』


スマホの金属カバーに、円の顔が映り込んでいる。凍りついたような無表情だが、その瞳は思い出した怒りと悲しみに燃えていた。


『実は私は今日、テストが午前までだってあなたに嘘をつきました。本当は午後から二教科残ってたんですけど、耐えられそうになかったんです。先生には、「聴覚過敏だから、別室で受けさせて」って事前にお願いしてたんです。でも生返事で返されて、数日後に「そんなの感覚の問題でしょ。風邪とかならともかく、そんな理由で別室とか前例無いよ。いろんな音も聞き続けてれば慣れるよ」って言われて、脱力したんです…。感覚の問題じゃなく脳機能の問題だし、聞き続けて治るならとっくに治ってるし、むしろ聞き続けて悪化したから今この状態なんだし。テストはいつも出席番号順に並び替えて受けるんですけど、隣の席の人は鼻風邪にだったんです。かまずにすするから、テストの間中イライラして集中できるわけない。しかも、私にいつも嫌がらせしてくる奴らも、わざと椅子や机の位置直すフリしてガタンガタン鳴らしたり、缶ペン落としたりして、その度私がビックリして飛び上がるのを見て、先生に見えないところでニヤニヤしてくるんです。テスト問題考えて頭抱えるフリして、必死で耳塞ぎながら解いて、やっと終わったら担任が「おい一青、テスト中ずっと頭抱えてたけど、頭痛でもするのか?」ですよ。もう頭にきて、「そうです。頭痛いし風邪っぽいからもう帰ります。これで後日別室受験させてもらえますよね?」って言ってカバン引っ掴んで教室飛び出したんです。そのことで学校から家に連絡がいって、母親に「どうせ仮病でしょ⁉︎」ってビンタ。以上です。確かにそうなんですけど、そうせざるを得なかった理由が酷すぎますよね』


長い長い話を打ち終わり、円は椅子の上で仰け反り、反動で戻ると同時に大きく息を吐いた。何分かそのままの体勢でいたら、『…』と、相手が書き込んでいるのがわかるマークがついた。


『話ししたくれた、めんどう』


ガンと頭に重い鉛が落ちた。


「…面倒って…はは…やっぱ、分かってくれなかったかな」


また、人に嫌われてしまった。


-お前みたいな奴は、耳が不自由な人たちからしたら失礼極まりないよ。チョウカクカビンなんて嘘だ、そんな訳分からない病気あるわけない!


前の心療内科の先生は、「娘さんは聴覚過敏です。普通の方なら気にならないような音でも、彼女は聞くだけで疲れたりイライラしてしまうので、無理せず休ませてあげてください」と母に言ってくれた。その後に母に言われた台詞が、まざまざと耳の奥で蘇る。

せめてもの母への抵抗だったのかもしれない。母は、自分の既存の知識から少しでも外れたものを、決して受け入れようとしない。それは違うと一言でも反論すれば、徹底的にこちらを異常者の悪者扱いして、糾弾してくる。

円は生まれた瞬間から、母の理解が至らない側の人間だった。だから、そうした否定の罵倒は毎日受けている。そうしていると、ひょっとして本当に母の主張が真実なのかと思う瞬間がある。恐ろしいことだ。

だから、母の主張とは真逆のことが起こったと、つまり耳の聞こえない縁が、聴覚過敏の円のことを受け入れてくれたと、ちゃんと反例を示したかったのかもしれない。


(…馬鹿なことをしてしまった)


自分が心を開かなければ、相手も開いてはくれないという誰かの言葉は嘘だ。円は思った。健常者で、異性愛者で、日本人で、まともな家庭に育った『多数派の』人間だから、そんなことを言えるんだ。少数派の人間は、心を開くどころか厳重に施錠しておかないと、みんなのコミュニティから永遠に締め出されてしまうことを分かっていない。現に、耳が聞こえすぎてしんどい、という切実な問題を打ち明けたら、先生には笑われた。母親には罵倒された。同級生には、わざと嫌な音を耳元で出されるいじめを受けた。唯一共感してくれた、以前の心療内科の先生は、母親や、母親から話を聞いたクラスの担任から狂人扱いされていた。そして今、また1人私のもとから去っていった。しかも彼女は多数派のカテゴリには入らない人間にも関わらず、だ。やはり、持つ困難が違えば、同じ少数派の人間同士でも、分かってはくれないのだ。

沈黙したスマホの画面が光を失っても、円は呆然と椅子に座り続けていた。



聞こえる両親のもとに生まれた聾の子が、「親は手話をみっともないといい、覚えてもくれないから、何を話しているか分からない。聾学校にいる方がよほど楽しい」と言った例。

聴覚過敏の子が、親に「そんなのただの甘えだ」「そんな音が気になってたらどうやって生きて行くの」と苦しさすら理解してもらえない現実。

心が痛いよ。

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