聾者と病院、私は死にそう!
お腹が痛い聾者のOL.縁≪ゆかり≫に付き添って病院に辿り着いた円≪まどか≫。実は下心たっぷりだったのですが、病院でのあまりの待遇の悪さにそれどころじゃなくなる。
女子学生に軽く体を支えてもらいながら、病院の自動ドアを抜ける。消毒液の匂いが鼻をつく。点滴を引いたおじいさんが、忙しなく咳をしながらすれ違うと、女子学生が嫌そうに顔をしかめながら耳を塞いだ。そんなにうるさいんだろうか。
健康保険証を取り出し、電車の中で書いた『耳が不自由です』というメモを渡すと、受付の女性があからさまに嫌そうな顔をした。その表情の変化を女子学生も感じとったらしく、受付嬢の顔を見る目がさっと厳しくなり、ちりりとした火花が散った。
「…ざわ…たは…▲●か?」
「んと…ざわざわ…の、よう#もぉ…」
「…わ…やく@?」
「しゅわ…きまぇん」
「ぁ…は、どこ…ぃたい…☆たが、○ぃて」
縁は、周りのざわめきの中から、必要な音声を拾い出せない。けれど女子学生の呆れた表情から、受付嬢の応対がどんなものかも分かろうものだ。女子学生は、仕方なさそうな動作でルーズリーフを取り出して何やら書き込み、カウンターの上で縁の方に滑らせた。
『腹部が痛いんですよね?どこらへんですか?って言ってます』
(何?そんなこと、この子をわざわざ通さなくてもいいじゃない!)
縁はすぐに受付嬢への憤りと、女子学生への申し訳なさで一杯になった。彼女は手話通訳はできないというのはもう分かっているはずだ。どうせ筆談するなら、直接自分とやり取りすればいいのに。何で彼女が伝書鳩みたいに、わざわざ文字起こししなきゃいけないの?私は耳が不自由なだけなんだから、私に聞いてよ!日本語が下手なのは自覚しているけど、お腹が痛いくらいは自力で伝えられるのに!
「…ぁ、がやがや…いれん…ふだ…待ち…あぁた…へんじ」
女子学生は周りが煩いらしく、片耳を受付嬢の口元に向け、フロア側に向いている耳を塞いで、もう片方の手でルーズリーフに書き起こしている、
『鳩尾のあたりなら多分胃痙攣ですね。お名前お呼びしますのでお待ちください。あなたが代わりに返事してくださいね。だそうです』
(だから、直接筆談してよ!)
結局受付嬢は最後まで縁とは目も合わさず、女子学生ばかりに話しかけて伝書鳩扱いした挙句、返事係まで押し付けていった。
この、自分だけガラスの壁で世界から切り離されてしまったような疎外感。24年間の人生で、もう何千回も味わっているが、きっとこの先もずっと慣れることは無いのだろう。
(…でも)
隣に座る女子学生の手を、縁は親愛と感謝を込めて両手で包んだ。すると彼女は椅子から数センチ飛び上がってしまった。いけない、聴者はろう者よりもボディタッチが少ないんだった。それにしても、こんなに驚いて、怯えた表情をするなんて…?と訝しく思いつつ、縁は鞄から自分のメモとボールペンを出して筆を走らせた。
『私経験しました、私耳が不自由のこと伝えた時。前に他の病院。長い期間呼ばれないだから確認のこと、「呼んだだけど返事ないだからとばした」言われでした。それは辛かったでしたしかしあなたの存在は安心です』
女子学生がびっくりした顔でこっちを見た。健聴者が縁の体験談を聞くと、「話盛るよね」とか、「普通生きててそこまでされることってあり得なくない?」と疑ってかかることがある。話を盛るとはなんなのか、ネットで知り合った中途失聴の人に聞いてみると、大げさに物事を言う例えだと教えてくれた。でも1度だって被害を誇張して伝えたことなんてない。されたことが酷すぎて、それ以上盛りようがないのに。差別されたことがない人というのは、本当に鈍い。
『障害を伝えたのに、対処もされず無視された?それって』
縁の文の下に書き込まれていく女子学生の筆が止まった。
-この子はとても優しいけど、やっぱり健常者には想像し難いことだから、疑ってるのかな。会社の専務は、聴覚障害者が直面する厳しい差別の現実を信じてくれなかった。「日本はそんな冷たい国じゃない。被害妄想を広げて、日本人の暖かさを疑うとは何事か」と、10歩も100歩もズレた説教をしてきた。だが数秒後、動き出した彼女の筆は、そうではないことを書いた。
『私が聴覚過敏で体験してきたことと同じです』
ちょうかく…かびん?耳慣れない言葉を、指文字で呟いて縁は目をぱちくりした。その言葉に下線を引いて、円に意味を尋ねようとしたその時。
「…、」
声は聞こえなかったが、「あ」という口の形をして女子学生が顔を上げた。
『呼ばれましたよ。3番の部屋の前の椅子でお待ちください、だそうです』
*
…耳が不自由な患者とはタチの悪い漫才しかやれませんと、正直に看板にでも書いとけばいいのに。
空腹と気疲れで足を引きずりながら、円はようやく病院から出た。3番室の医師は、縁の聴覚障害を知りながら、全く筆談に応じてくれなかったと、部屋から出てきた縁が顔を真っ赤にして怒っていた。
「どのくらい前から痛いんですかー⁉あれ、これでも聞こえないの?ど~の~く~ら~い~、ま~え~か~ら~‼」
待合室で座っていた円にも医師の大声は届き、びっくりして戸を開けると、怯えた表情をした縁と、その耳元で、イライラした表情で片手を口元に当てて叫んでいるポーズの医師と目が合った。
「ちょっと、診察中に扉開けちゃだめ」
「すみません。でもあの、その人かなり大きい声でも聞こえませんよ!筆談してあげないと」
「筆談?時間かかるし少しは聞こえてるでしょこの人」
「だから、本当にほんのちょっとしか聞こえてないでしょう⁉︎あの、それなら私が文字に起こしますから」
「だめだめ、筆談でも手話通訳でも患者以外の人は入ってこないで。プライバシーの関係があるから」
返事を言う前に付き添いの看護師がぴしゃりと扉を閉めた。仕方なく円は椅子に座りなおした。すると再び医師の大声が数回聞こえた後、今度は「ひゃっ」とも「きゃっ」とも取れない悲鳴が聞こえてきた。またびっくりして扉を開ける。案の定、医師は嫌そうな顔を向けた。
「君ねえ、だから診察中に」
「今のどうしたんですか⁉」
青ざめた顔の縁が、心配を宥めるための引きつった笑顔を円に向ける。そしてブラッドバンが貼られた腕を見せ、またメモに何やら書き出した。
『唐突に、注射がされました。何なのか分からないでしたにびっくりしました』
「…注射打たれたけど、何か分からないって言ってますよ」
「はあ、あれだけ言ったのに聞こえなかったの?胃痙攣に効く筋肉注射。何回も説明してたら他の患者さん待たせちゃうから、もう」
筆談の努力すらせず、謝りもしない医師の代わりに、円は筋肉注射の説明をメモに書き起こした。すると今度は別の看護師に話しかけられ、朝何か食べたかを尋ねられた。縁が前日の夜から胃が痛く、以降殆ど何も食べていないと分かると、バリウム検査を実施することになった。無論この間も、看護師は縁にではなく、付き添いの円にだけ話しかけた。
バリウム検査を行う技師も技師だった。
「多分この人、マイクで話しかけられても分かりませんよ。紙に書くとか何かできませんか?」
「でもねぇ。こういう人は初めてですし…まあ、とりあえずやってみましょう」
無責任な一言で、技師は検査室にいる縁に、隣室からマイクで指示を出すという無茶を決行した。案の定、予想通りのことが起こった。
「はい、バリウムを少し飲んで。右向いて…違いますよ!」
指示を聞き取れず、言われた通りに動けない縁は台の上でおろおろし、それを技師が怒鳴り、見かねた円が諫め、というやりとりが数回続く。運悪く病院は混雑しており、技師の怒声に加え、患者のお喋りのざわめきや医師の指示の声、大勢の人が床をスリッパでパタパタ走り回る音、時折聞こえる子どもの泣き声、点滴台を引きずる音…それら全てが洪水のように、無秩序に、敏感すぎる円の耳を襲った。
「もっと真ん中に寄っ「5番室の田中さん「パタパタうわーん「薬もらってきてねえおじいちゃん点滴持って「えーん注射したくないよ「松下さんカウンターにガラガラガラ‼︎」
円にはこんな風に聞こえているのだ。普通の人なら、必要な音だけ選別して聞き、不必要な音は耳に入らないよう調整する機能がある。だが円の脳にはそれが備わっておらず、必要な音も不要な音も、全てが不快なレベルの大音響で聞こえてしまう。
(あーうるさーい‼︎せっかく地獄の教室から逃げ出してきたのに、なんでこんな所まで来て耳壊れそうにならなきゃいけないんだよ‼︎)
うるさすぎて頭が割れそうだし、技師は馬鹿だし、ついでにテスト前にはトイレに行っている隙に鉛筆を全部真っ二つに折られ、新調したばかりのルーズリーフが引っ張り出されて踏みつけられ…。イライラはついにピークに達した。
「だからこの人聞こえないって言ってるでしょ⁉医者なら病気や障害のことを勉強してるんじゃないの⁉︎ひょっとして、どっかの医大の大学入試みたいに、男だからって試験の点数優遇してもらっ…うぐっ!」
思わず本音が口をついて出て、はっと口を押えた。しかしもう遅い。プライドを傷つけられ、逆切れした技師の顔がみるみる歪んで真っ赤になる。
「あー、もういいです。仕方ないですね」
やはり無責任な締めの言葉とともに、結局バリウム検査は取りやめになった。縁はまずいバリウムを頑張って飲んだのに、全部無駄になった。そして、最後まで縁の方を見ない受付嬢が、円に胃痙攣の薬とバリウムを洗い流すための下剤、「消化にいい食べ物リスト」を押し付けて終わった。
「…酷かった…」
どっと疲れた。聴覚過敏の苦労、母親からの折檻と、そんな円を庇って一緒に罵倒される父親への罪悪感、障害を馬鹿にする同級生からのいじめ、障害を理解しない教師からの無茶振り…等、劣悪極まりない生育環境で、ただでさえ疲れ果てているというのに。そんな円の横で、すまなさそうに縁が眉を下げる。
『今日を本当ごめんなさい、病院ががっかりしましたね。看護師に手話できる聞いた、残念です。それはあなたが疲れさせたこと思います、すみません。私の目が安かったです』
円は疲れを極力顔に出さないようにしつつ、顔の前で「いえいえ」と手を振る仕草をした。それにしても『目が安い』という謎の言葉は何だ?
『それからありがとうございました‼今日電車で助けにもらったのが最初の嬉しいかったでした。病院まで共行きしてくれましたのが喜びでした。名前教えて』
最後の一文を見て、思わず「あ!」と声をあげた。初めての聴覚障害者との筆談に、医師達とのやり取り、通訳に大わらわで、一番大事なことを忘れていた。ちなみに縁の名前は、病院で保険証を出した時に見た。
『大したことはしてませんよ。私は荒川高校二年三組、一青円と申します』
書いた後に思わす消そうかと思った。これでは大したことをしてやったんだぞ、感謝しろと捉えられかねないではないか。
『いっせいえんちゃん?』
円は思わずふふっと馬鹿にしたような笑い方をした。円でえんちゃんなら、縁もえんちゃんになってしまうではないか。珍名の苗字だって、とても有名な歌手がいるおかげで間違われることはまずないのに。途端縁の顔がぽっと赤くなる。しまった。慌てて頭を下げ、口パクで「すみません」と伝える。
『ひととまどかです。それから、今日電車や病院でされたこと、絶対に警察やご家族に伝えた方がいいと思いますよ。ああいう人たちは捕まりでもしないと後悔しないんですから』
ああ、でもこの人の言葉じゃちゃんと人に伝わらないんじゃないかな。家族なら分かってくれるんだろうか。この際、酷いことをされた聴覚障害の女性を守りたいからと言って、私から警察に話した方がいいのかも?なんて考えていると、縁が笑顔でメモを差し出した。
『そのことはわかってます。これ私をID。LINEしましょう』
聾者が病院に行った時、本当にこういうことがあったんですって…絶句。もちろんちやんとしてる病院も沢山ある(と信じたい)んでしょうが…。
聾者の親が聞こえる子どもを病院に連れて行ったら、看護師が子どもにだけ話しかけて、案の定子どもは病院の中で迷いかけた事例とか…。
頼む、どこの病院でも手話講習と手話通訳士の常時派遣してくれ。