聞こえすぎるえんちゃん
「ゲホッゲホッ、クシャン!」
ガタン!いかにもわざとらしい咳払いとくしゃみの後に続いた。これまたわざとらしい、椅子の足が床にぶつけられる金属音。自分の意志とは関係なくびくりと体が揺れて、反射的に耳を手で塞いでしまう。思いきり睨みつけると、にやにや笑いの男子生徒と目が合う。そして彼はまた面白そうに周りの同級生とひそひそ話をするのである。
「きもいよね。いちいち音するたびに見てくるとか」
「絶対ヤバイ奴だって」
「動画撮ったよ!今度LINEでみんなに回してやろ」
耳までかっと熱くなる。円は今すぐその無駄に伸ばした爪ごと、ふざけたデコを付けたスマホを手から引っ剥がして窓から投げ捨ててやろうかと思う。けれどそんなことをやったら確実に多勢に無勢、こちらの方が何百倍もの暴力を受けることは分かっている。事なかれ主義の担任は、厄介者で普通ではない円の方を悪者扱いして、単位を盾にいじめのことを騒ぐなと脅してることも分かりきっている。
大体、「聴覚過敏だから、トリガー音を出す生徒からは離して、1番後ろの席にしてほしい」とはっきり要望を出したのに、嫌な音を出してくる同級生の隣で、しかも教室中の音が飛んでくる1番前の席に設定しやがった、このクソ担任に期待できることなんて何もない。
「おいおい、かわいそうだろ。あいつ障害あるんだぜ。だから音したら反応するのもしょうがないんだって~」
話している内容とは裏腹に、そう話す別の男子生徒の表情には明らかな侮蔑の色が浮かんでいる。そして『障害』という部分にたっぷりの嫌味と軽蔑を載せて発音している。
「そうだよね~、かわいそうな子だからバカの学校行かなきゃならないのに、なんでうちら健常者の学校来てるんだろうね〜浮いちゃうの分かってんのにね〜。あ、バカだから分かってなかったりして」
別の女子生徒が、それに同調して吐いた台詞に、円は今度こそ全身の血液が沸騰した。
円が本当に入りたかった高校に行ける可能性は、最初から母が潰してくれた。そこで円は、母が進学を許してくれる高校の中でも、最難関の高校を選んだ。優秀な高校なら、いじめなどという馬鹿なことをしてくる生徒も少ないかもしれない。そう父と話し合い、必死で猛勉強して入った先がこの有様だ。こいつらも、勉強だけはできるから、将来優秀な地位につくのだろうか。頭は良くても人権意識の欠片もない輩が公務員やら、政治家やらになるのなら、当然世の中も円のような人間を徹底的に苛め抜く構造になるはずだ。円の心が黒に塗りつぶされていく。どこまで逃げても、この学校を卒業して社会に出ても、私が人と違う限り、いじめは追いかけてくるのか…。
「ええと、問題27番、出席番号27番一青さん」
修羅場の地獄に迷い込んできた道化のような担任の声が教卓から飛んでくる。円ははっと伏していた顔を上げ、ノートと黒板を見比べる。大丈夫だ、解けていた問題だ。そのまま、さきほどひそひそ話をしていた同級生に、特に件の女子生徒にはこれでもかの殺気を込めた一瞥をくれてやりながら席を立つ。その視線にいやらしい笑顔と、生意気だという凄みを載せた威嚇の表情で返される。無視して、黒板に向かう。さっと足が進行方向に伸びてくる。予測していたので、ひょいと跨ぐ。
「ジョーダンじゃんジョーダン。あいつマジ空気読めねえよな〜」
ふと、担任には本当にこいつらの声が聞こえていないのかと円は思った。あいつらが、聴覚が普通より鋭敏すぎる自分にしか聞こえないよう、声量を調整してるだけなんだろうか。それとも単純に厄介ごとが嫌いな担任が聞こえないふりか、悪ふざけやじゃれ合いとして済ませようとしているだけなのか。そこまで考えて、円は考えることを諦めた。どちらにせよ、どうせ地獄だ。結果を変えられないことについて無駄に考察する暇があるなら、今日はどうやって同級生達の嫌がらせを避けながら下校するか、帰ってから自分を罵るしかしない母親を躱すかを考えた方が有益だ。ただでさえ、聴覚過敏があると普通の人より疲れやすいのだと、以前かかっていた病院の先生が教えてくれた。それなら少しでも結果を出せることに力を注いだ方がいい。この17年の人生で学んだことだ。
「先生、この公式2通り解き方ありますね。両方書きましょうか」
無表情で担任に聞くと、満足そうな笑みで頷かれた。この担任は、勉強の態度が積極的か、たとえ地毛でも頭が茶色くないか、ハンカチやティッシュをちゃんと持っているか、スカートを折ったりズボンを下げたりしていないかよく見ていて、それらを全て守っている生徒が好きだ。それだけ細かく見ているくせに、いじめだけは何故か見えないようだが。
だけど、あと少し我慢すれば晴れて卒業を迎え、この監獄のような高校ともおさらばだ。それからのことは考えても仕方ない。今できるのは、少しでも先生の気にいる言動をし、できる限りの高評価を貰って、就職に有利な内申をもらうことだ。それから、無理やりにでも父親を説得してあの家を出て行ってやる。チョークを握る手に力が篭る。
ガアッシャアン‼︎
突然、鼓膜から鉄の棒を突っ込まれて脳を直接ぶっ叩かれたような衝撃が走った。脊髄反射のレベルで、円は両手で耳を塞ぎ蹲る。びっくりした拍子に、黒板のへりに置かれていたチョーク入れに手が当たってしまい、しゃがんだ頭上に降ってくる。いつも嫌がらせしてくる同級生の1人が、故意に缶ペンケースを机から落としたのだ、と気づいた時には、円の頭はチョークの粉で白、赤、黄色に染まっていた。同級生の爆笑が耳障りに響いた。
こちら、実際に聴覚過敏でいじめを受けた方に許可を取り、体験を参考にされてます。
どんな病気や障害でも、困ってる生徒に「校則違反」って言って何も配慮しない学校ってクソオブクソですよね。
そもそも障害の子が困るような校則自体おかしいんじゃん。