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・ * 残された者 * ・


 線香の香りが鼻腔をくすぐり、淡雪はゆっくりと意識を取り戻した。

 それから湿った土と苔、(かび)の臭い。頬には藺草の感触。風はなく、ぬるい空気が澱んでいる。

 そろりそろりと身を起こせば、突いた手の平の感触でひんやりした堅い土の上に薄い(むしろ)を敷いてあるのだと察することができる。目を開けても淡雪の瞳は暗闇しか映さず、それが夜半だからなのか、それともどこかの洞穴にでもいるからなのかは判別がつかなかった。常ならば夜半でも障子を隔てた向こう側に控えている秋津雨の規則的な呼吸音が聞こえて心安らかに眠るのに、それがないことが酷く心細い。

「秋津雨……?」

 細い声で供の名を呼ぶけれど、ただ緩やかに流れる線香の香りがほんのりと揺れただけだった。

「秋津雨」

 少しだけ声を張ってみても同じように線香の香りが揺れるだけ。

 しょんぼりと項垂れた淡雪は、手の平に何かが膜を張っていて動かす度にパリパリと剥がれゆくことに気づいた。これは何かと鼻に近づけて見れば、その臭いに気を失う寸前の記憶が鮮烈に蘇った。

 耳が裂けそうな破裂音。鼻が曲がりそうな悪臭。その奥から溢れ出る濃い血臭。秋津雨の呻き声。そして濡れた毛皮の感触――。

 怖気のする想像に及んだ淡雪はぎゅっと身を縮めた。

(ならばこの線香は彼の弔いのために?)

(いいえ、秋津雨がそんなはず)

(でも、居ない。秋津雨がわたくしから離れるはずがないのに――)

 自答を繰り返すうち淡雪はぽたぽたと袖に降り落ちるものに気づき、それが自分の涙であることに気づくと、堰を切ったように嗚咽が溢れて止まらなくなった。

 幼い頃から淡雪が泣けばすぐに駆け寄ってくれた足音も、気遣う穏やかな声も、鈴の音も――この涙を止めてくれるものは、ここにはなにひとつとしてありはしなかった。

 けれど代わりに、ジャリッと小石を踏む音がした。それと同時に草熱(くさいき)れを含んだ風が吹き込むのを感じて、淡雪は顔を上げた。

「目覚めたのか」

 それは耳に馴染んだ優しい秋津雨の声ではなかった。

 そしてあの無遠慮に淡雪の肩や腰に腕を回したり、息のかかるような距離に顔を寄せたりして秋津雨を憤慨させていたあの狸の若旦那の甲高い声でもなかった。

 それは全く聞き覚えがなく、どこか疲労感を滲ませる低く掠れた男の声だった。

「あの……あなたが、助けてくださったのですか?」

 恐る恐る問うても返ってきたのは鼻で笑う声だけだった。

 近づいてくる足音は小石を踏むものからひたひたと土を踏むものに代わり、線香の香りが揺れて硝煙の臭いが混ざる。不躾にぐいと顎を引かれ、鼻の先に生臭い吐息がかかる。

 曇硝子のような瞳を無遠慮に覗き込まれているのも、その臭いも大層不快だったが、不安と恐怖から声が出ない。

「お前、見えないのか」

 淡雪がゆっくりと頷くと、顎を掴んでいた手が離れていく。

「そうか」

 その声音は興味なさそうにも面白がる風にも聞こえ、淡雪は居住まいを正した。

「あの、秋津雨と権一郎さん――わたくしの護衛をしていた兎と、夫となる狸をご存じでしょうか?」

「死んだ」

 今度こそはっきりとわかる程面倒臭そうに言い捨てながら、男はごろりと横になった。筵を踏む音の荒々しさを不審に思い耳を傾ければ、単に眠るのだとは思えないほど男の呼吸は浅く、早く、荒い。

 そして、血と硝煙の臭いが鋭く鼻を刺す。

「あの、どこか……お加減が……?」

「五月蠅、い……ッ!」

 のばそうとした手を、鋭い爪が薙いだ。けれどそれはかすっただけで、再びどさりと重い音を立てて筵に倒れ込む音の方が強く耳に届いた。

「大丈夫ですか!?」

 今度は呻き声だけで答えはなかった。

 響くのは浅い呼吸音と呻き声。血と硝煙の臭い。

 それは最後に感じた秋津雨のものと同じで、淡雪は思わず短い悲鳴を上げた。無我夢中で手探りで触れる頬も額も腕も首も酷い高熱に蝕まれている。そして肩に触れると、そこは着物がじゅくりと湿っていて、指先程の穴が――。

「誰か……!」

 淡雪は叫んだ。

「誰か、助けて!!」

 何度も、何度も。

 声が嗄れるほど叫んだ。

 だがしかし、どれだけ叫んでもこの怪我人と自分しかいないのだとようやく思い当たると、弾かれるようにして先刻風の匂いがした方向に向かって遮二無二駆けだしていた。

 あの鈴の音を追わずに無闇に動いたことなど、記憶にある限りでは一度もない。けれどただ泣いていれば誰かが助けてくれる状況でないことを、そして泣いているだけでは先刻の男は確実に死に向かっていくのだと、それだけのことは淡雪にもわかったから。

 小石を敷き詰められた一角を通り過ぎると次は登り坂になっている。手探りで見つけた壁に手をつき、もつれそうになる足を進めるごとに暗闇は乳白色に変わり、冷たく草の匂いを含んだ風を頬に感じた。

 その風に勇気づけられるように歩を進め、そして最後にぱっと壁が途切れると、涼やかな風が吹き付けた。

 膝を撫でる草の感触もその香りも酷く懐かしく思えて、刹那、淡雪は立ち尽くした。

 けれどすぐに怪我人のことを思いだし、声の限りに叫んだ。

「誰か! 誰か、助けてください! 怪我人がいるんです……ッ!」

 助けを求めて叫ぶことしかできないのがもどかしいが、目の見えない淡雪が平原で歩き回れば誰かを見つけたとしてもここに戻ってくることなどできないから。

「誰か――」

 誰かと呼ばわりながらも、淡雪が心に描いているのはただ一人だった。

「秋…津……雨……!」

 あの規則的な鈴の音。優しくて穏やかな声。

 それを思い出せば、助けを求めずには居られなかった。

 けれどいつだってすぐに返事をしてくれた彼の返事はなく、風の音が鳴るばかり。

 悲嘆と己の無力を噛みしめ、再び堪えきれない涙が零れた。なにもできない不具の身を怨んだことがかつてなかったとは言わない。けれどこれほど狂おしい激情に呑まれることなどなかった。

 チッ、と秋津雨の動きに鳴ることさえ忘れた鈴の音。パンッと竹が弾けるような激しい音。秋津雨の叫び声。

 それらに続いたのは、胸元に倒れ込んできた秋津雨の身体と、強烈な異臭。ぬらぬらとした血が流れ落ち、呻く秋津雨はそれでも淡雪の安否を気遣ってばかりいた。

――死んだ。

(ならばなぜわたくしだけが生きているの……? いっそのこと――)

「おんや、随分と位の高いお姫さんとお見受けするが、こんな辺鄙なところでどうなさったね?」

 暗い思想に沈みかけていた淡雪は不意に声をかけられて泣き腫らした顔を上げた。

「おや? 失礼。貴女、目が――」

「お医者様ですか!?」

 郷里で医者がよくしていたように、慣れた手つきでくいと涙袋を押さえられた淡雪は咄嗟にその手を掴んだ。

「ふむ、まあ一応は医者の端くれをしている貴一きいちと言う者だがねぇ」

「お願いです、助けてください! 怪我人が、怪我人がいるんです!!」

 ぴくぴくと三角の耳を揺らした貴一は、細い目をさらに細くした笑みを浮かべて白い手を退けさせた。

「大丈夫大丈夫。ちゃんと診てやるから、まずは落ち着きなさい。ほら、長くゆっくりと息を吐いてごらんなさい」

 苦笑いの貴一にとんとんと優しく背中を叩かれ、淡雪は言われるままにゆっくりと息を吐いた。吐ききった息の代わりに吸い込んだ冷たい空気は、彼女が随分長いことまともな呼吸を忘れていたのだと気づかせた。




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