・ * 巡り合わせ * ・
牙狼は関所からは程良く距離を取った街道脇の茂みの中に伏せ、獲物が通りかかるのを待っていた。けれどその茂みからはゴロゴロと遠雷のような音が響いて、通りかかる者が不審がって避けて通るほどだ。
(畜生……!)
憤りに任せて齧った木の根を空腹を紛らわせるために腹に納め、遠雷のような音を止めるべく努める。こんな音がしていたのでは獲物に気取られ逃げられてしまうことは自明の理。
牙狼はかつてこれほど食うに困ったことなどなかった。そう、狸共が鉄砲隊を組んで一族を殲滅に追い込むまでは。
(あの狸共め……!)
ちりん……ちりん……
一瞬怒りを忘れてしまいそうなほど涼やかな音が耳に届いて、牙狼はすかさず黒い耳をぴんと立てた。
ちりん ちりん ちりん
(……鈴?)
音のする方を見やれば、太刀を佩いた茶兎の武人が街道を歩いていた。どういうわけかあの茶兎は腰に鈴をつけているらしい。その後ろでほくほくと笑みを浮かべ、羽織を左右に大きく揺らして歩くのは恰幅の良い狸。そしてその狸のさらに後ろには、上質な朱色の着物を纏った美しい白兎の姫が俯いて歩を進めている。
(狸もいいが、あの白兎は格別柔らかそうだな――)
牙狼が目算をつけて舌舐めずりをすれば、また腹の虫が鳴き出しそうになって一層力を込める。
(まずは厄介そうなあの茶兎を仕留めるか)
見て取れる限りではあの一行の武具は茶兎の太刀だけだ。幽かに臭いがするのが不思議だが、2尺程もある鉄砲を抱えていれば嫌でもわかるはず。それにあの狸と白兎ならば、いくらでも対処のしようがありそうだ。一方の茶兎は引き締まった身のつき方や歩き方だけでもその力量が知れる。
ならば茶兎からと決めた牙狼は、この獲物を焦って取り逃がすわけにはいかないと穴が開きそうなほどに見つめ、じりじりしながら飛びかかる頃合いを見計らった。
だが、丁度間合いに入ろうかという寸での所で突如として武人が足を止め、ちりりりりっと鈴の音が不規則に揺れた。
「雪姫、お下がりくださいっ!!」
すらりと太刀を抜き放ちながらも鋭い警告を発した茶兎の声に弾かれるように、俯いていた兎姫は顔を上げて立ち竦む。
逃がすものかと茂みを飛び出た次の瞬間、爆音が雲を裂かんばかりに空に響いた。
武人が太刀を抜くよりも牙狼の牙がいずれかの首を噛み千切るよりも早く、狸が懐から取り出した短銃が火を放っていたのだった。
「……ちっ!」
牙狼は左肩に燃え上がりそうな熱を感じ、同時に左腕の感覚が消え失せた。
「出たな、死に損ないの狼め!」
次いで耳障りな狸の騒ぎ立てる声が耳を刺し、硝煙の臭いが鼻につく。そしてその臭いは一族を惨殺された記憶を呼び起こし、空腹も痛みも忘れさせた。忘我の心中に残っているのは憤怒と怨嗟のみ。牙狼はさっと身を翻し、短銃を放った狸に躍り掛かる。身を翻すのとほぼ同時に狸は牙狼に銃口を向けた。
「まだこの国に1丁きりの最新型、連弾式の拳銃の銃弾――有り難く受けろよぉ!」
狸が叫んだ言葉の意味を理解する暇もなく、引き金が引かれゆくのが牙狼には矢鱈ゆっくりと見えた。
「…………ッ!」
本能的に身を屈めた牙狼の視界の端に柔らかそうな焦茶の毛並みが閃き、二度目の銃声が脳を揺さぶるほど激しく弾け散る。
駆ける兎の形相に目を奪われるうちに熱気が頬を掠めた。牙狼はまだ反動で空を向いている銃口を三度牙狼に向けようとしている狸に向かって地を蹴り、その喉笛に食らいつく。断末魔を上げ損ねてひゅうっと風の鳴き声を漏らすだけの喉笛に食らいついたまま止めに首を振ると、ゴキッと鈍い音がした。
「きゃぁあぁぁっ……!」
銃声に劣らぬほどの悲鳴を一瞥すれば、座り込んでいる白兎の姫の頬には生温かく鉄臭い血糊が飛び散っている。血に濡れた顔が恐怖に歪み、悲鳴は永遠を思わせるほど木霊する。朱の着物に包まれた細い腕の中で、茶兎の武人が呻いていた。
立ち込める硝煙の臭いと喧しい悲鳴が癇に障り、その喉笛もさっさと噛み千切ってやろうかと思った矢先――悲鳴は細くなり、最後にはぷつりと途切れて消え、白兎の姫は意識を手放した。
左肩の熱とだらりと垂れたまま動かない左腕。それから酷い倦怠感に苛まれつつも、これだけの収穫があれば当分食うには困らないという安堵感もあった。そのまま眠りに落ちてしまいたいほどだったが、騒ぎを聞きつけた野次馬の足音が遠くから近づいてくるのが黒い耳に届く。
この場を離れなければ気怠い四肢に喝を入れ、軽い兎姫の襟首を銜え、太った狸を引きずるように右腕に抱え――虫の息の茶兎を一瞥する。これ以上は運べそうにないし、なにより銃弾を受けた茶兎は硝煙臭かった。
だから牙狼は茶兎は捨て置いて、狸と兎姫を塒へと運んだ。