・ * 序 * ・
ちりん ちりん ちりん。
淡雪の紅の瞳は日中であっても一面の白濁した空気しか映すことはない。けれどくたりと垂れた耳は、その淡い象牙色の霧の先から聞こえてくる規則的な鈴の音をしっかりと聞き取ることができた。
淡雪はその鈴の音に心まで委ねるようにしてついてゆく。その鈴は幼い頃から淡雪を守り続ける秋津雨が、盲の淡雪を導くために――けれどその手を取るのは畏れ多いからと――身に付け続けている物だから。だから淡雪はいつもその鈴の音を頼りに歩いてきたのだった。
突如、りんっと鈴が高く強くひとつだけ鳴って、それからリリリリリッと回るような音色が響いた。秋津雨が立ち止まったのだと悟った淡雪もまたゆっくりと足を止める。
「雪姫様」
鈴の音と同じく凛とした声が穏やかに呼びかける。
「そこに木陰があります。暫し足を休めましょう」
けれど淡雪は一歩足を前に踏み出し、口元に笑みを作って答える。
「いいえ、先を急ぎましょう。わたくし、秋津雨の鳴らす鈴の音に導かれて歩くのが好きなのですよ」
常ならばピンと伸びている秋津雨の茶褐色の耳が哀しげにそよりと揺れる様を、淡雪は見ることができない。けれど、長年傍にいた彼のこと。見えずともその心象を受けることはできた。
「それに、先方もお待ちのはずですから」
ほんの2歩の距離を追いついてしまうとそこから先を淡雪が自力で歩むことはできない。そっと手を伸ばすと、リ……と弱々しく鈴が鳴った。
「高貴な白木家の姫君であられる雪姫様が、あんな成り上がりの古狸に輿入れなど……!」
小刻みに震える鈴の音に向かって淡雪は改めて手を伸ばすが、空気は揺れて鈴はりんと強く鳴る。それで淡雪は秋津雨が身を引いたのを察する。
「父様が決めたことです」
「その上、足入れ婚などと巫山戯けた申し入れです! 殿の命とはいえ、このような無体を了承することなど到底……っ!」
淡雪が人差し指を立てて鼻息荒い口元に寄せるとぴたりとその怒気が冷めた。しゅんと力なく垂れる茶色の耳が、鈴が、そよそよと吹く風に揺れた。
「わたくしは、かまわないのですよ」
姫の声はわずかに震えていたけれど、口元にはほんのりとした笑みを浮かべていた。
「ようやく、わたくしのような不具の姫でも父様のお役に立てるのですから」
歯噛みする音が聞こえた淡雪は、秋津雨の着物の袖をきゅっと握った。
咄嗟に「嫁入り前の姫君としての慎みを」と窘めようとした秋津雨だったが、しかし見上げる姫君の瞳は何も映していないはずなのにまるで仏の来光を地獄から見上げるかのような佇まいで、つい言葉を呑んでしまう。
「……秋津雨が導いてくれる限り、わたくしはこの道を歩きます」
秋津雨は息を呑む。
それから、ぽつ、と一粒の涙が落ちて地面に黒い染みを作ったのを見た。たったひとりで嫁ぎゆく姫君の身の上を嘆く秋津雨の涙だった。
この護衛只一人という侘びしい嫁入り行列の末、秋津雨が長年拝命していた淡雪の護衛の任は解かれる。そんな話が整っていることを、淡雪は知らされていないのだった。
(それを知らせれば、姫様は心変わりするだろうか?)
姫に気取られないよう涙を拭いながら秋津雨は幾度となく繰り返したのと同じ自問をし、そしていつもと同じように胸の裡でそっと首を振る。
いっそのこと狸の屋敷などではなく、どこか別の場所にお連れして匿おうか、などという考えすら何度か秋津雨の脳裏を掠めた。けれど淡雪が嫁ぐ約束を違えることを狡猾な狸が許すはずもない。恩義ある白木家に仇名すこともできず、そろそろと歩みを進めてきた秋津雨だったが、それでも旅の終わりは着実に近づいている。
(この街道の先はもう――)
鈍る足を無理矢理先へ伸ばさなければと自身を叱咤した時だった。
「いいや、雪姫。遠いところをようおいでなさった!」
見れば黒の羽織を羽織った狸の若旦那が、ふうふうと重そうな腹を抱えて駆け寄ってくる。
「遠目にもその雪のように美しい毛並みが見えましてね、到着を待ち侘びる余り、お迎えにあがった次第です。ああ、私は権一郎といいまして――」
捲し立てるような早口に淡雪は声もなく目を丸めた。狸は淡雪の手を強く握ったかと思うと、腰へと腕を回す。太刀を抜くのは留まるにしても警戒心を露わにした秋津雨に、狸は商人らしくへらへらとした軽薄な笑みを向けた。
「武人さん、そう睨みなさんな。これは西洋のエスコートというやつですよ」
淡雪はひたすらに戸惑っているが、それに気が付かないのか権一郎と名乗った狸は淡雪を強引に抱き寄せる。
「それにね、これは私の嫁だ。どうしようとおまえに関係あるまい?」