夢なき者の描く未来に夢はない
最近、真面目に将来のことを考えているのか、とかそういった類 の言葉を言われることが多くなった。理由はもちろん明白で、ただ単にそういうものを考えなければいけない時期、いわば人生の岐路に立たされようとしているからだ。いや、あるいはもうすでに立たされているのかもしれないが、そうした自覚がないからこそ、そういった言葉を投げかけられるのだろう。
そんな言葉を何度も聞くうちに、自分でも少しは考えてみようかとある時思い立った。その時の自分はただ単に、人に聞かれたら答えられるように一応考えてみよう、とかそんな軽い気持ちであったように思う。
何になりたいか、どんな職業に就きたいか、そんなことをまじめに考えた。小一時間くらい。お湯につかりながら。冗談抜きで。
結果から言って答えは出なかった。なんとなくこんな道に進みたい、ということは大体イメージできたが、どんな職業に就くべきかということはまったく決まらない。まあ、これは単純に自分の知識不足なのであろう。そもそも日ごろからそんなことを考えて生きていないので当然の結果である。
前置きが長くなってしまったが、その過程の中で生じた疑問についての個人的な悟りのようなものを書いてみたいと思う。
大人の多くは、大きな夢を持つように子供に言い、そしてそれは良いことであると子供に伝える。それは確かに良いことであるだろうと多くの人も思うはずだ。
しかし、その言葉の後ろにはある文が隠れている。但し子供の時に限るという一文だ。多くの大人は小学生や幼稚園の頃に子供が何を言っても、がんばれ、とか応援するよ、とか言う。
具体的に言えば私なんて幼稚園のころの夢は総理大臣になることだった。それを幼稚園の保護者参観で発表したときにも、もちろん咎められることはなかった。今考えてみればあまりにも荒唐無稽な夢なのだが、少なくともそれに関してマイナスの発言をされた覚えはない。
しかしながら、これが少し大きくなって高校になると話が変わってくる。高校になるとやはりその先の道がその時の選択によってだいぶ絞られてしまうため、そういった将来について考えたり、話したりすることが多くなる。大学全入時代と言われ、ある程度昔よりは道を選ぶまでの猶予が長い今日でさえこんな調子であるのだから、昔はどんなものであったのだろうか。
教師と面談したとき、もしくはあなたがあなたの親と将来何になるのか話したとき、あなたは、小さなころからの夢、例えば、歌手、声優、あるいはこの場に即するならば小説家、そのような夢をそのまま言えるだろうか。よほど気心知れていて、よほど信頼している相手であるならば別であろうが、大多数の人は言えないだろう。
なぜ言えないのか、それは明確だ。反対されるとか、笑われるとか、冗談としか思われないとか、マイナスの言葉を言われるとわかりきっているからだ。自分でも、それらの職業になれない可能性が高いというのを薄々気づいているからである。
なぜ大人は子が成長すると夢を応援することをやめてしまうのか。これの答えも単純だ。大人も子供が薄々気づいているように、大きな夢をかなえることは無理だと思っているからである。いや、無理とまではいわないかもしれないが、それでご飯を食べて人並みの生活を送れると思っていないからである。
実際、大人がそう述べる理由もわからなくはない。大人は子供にできるだけよい生活を送らせたいと思うし、夢をかなえられなかった時のリスクを考えれば、安全策をとるべきだという考えもわかる。生きてきた時間も長く、その意見にも一定の重さがある。
五人ほどの老人、五人ほどの大人に人生は良かったと思えるか、と聞いたところ、少なくとも深刻そうにダメな人生だったとかはいなかった。その大体は笑いながらダメだったと答えるか、ある種悟りでも開いたかのように良かったと答えていた。その反応を見るに、少なくとも、自分で折り合いをつけられる程度にはまともな人生だと思っているのだろう。
はっきり言おう。私はそんな人生つまらない、あまりにもつまらなすぎるものであるように私は思う。こんなことを言うと多くの人に非難を浴びせかけられそうだが、尻の青い子供の戯言だと思ってほしい。
なぜ、1パーセントでも可能性がある夢を諦めなければいけないのだろうか。私にはまったくわからない。わかりたくもない。
大多数の人がその夢をかなえるのは無理だ、その職業に就くのは無理だ、という理由は、突き詰めればそうなれる可能性が低いからである。そんな人生をかけたギャンブルのようなものをするなんて馬鹿げていると思うからである。
しかし、私は思う。ならばなぜ、その夢をかなえた人がいるのだろうかと。それは、その分の悪い賭けに勝った人がいるからである。勝者というものは、まず賭けに挑むものが現れない限り生まれることはない。もちろんその草葉の陰に夢破れて散っていった人々がいることを忘れてはいけないのだが、少なくとも、たとえ一人であろうとも、その勝負に挑み、その夢をかなえた人がいるのである。一人でも夢をかなえた人がいる以上、その夢をかなえられる確率は限りなくゼロに近いとしても、間違いなくゼロではない。
しかし、その夢を最初からあきらめている人には、そんなチャンスが訪れることはない。夢を諦めた人はその時点でそのわずかな確率を0パーセントにしているのである。
自分はあまり我慢強いわけではないし、輪廻転生を信じているわけでもないので、前にも述べたが自分の夢に突き進まない理由がわからない。
日本人に生まれた以上、少なくとも世界中の多くの国の人よりは自由に選択肢を選べるはずだ。社会的責任が、とか言われるかもしれないが、あなたの夢はそれと比較して完全に諦められるような夢なのだろうか。そんな程度の夢であるならば諦めてしまえばいいと思う。本当に何の未練も残さずに生きていけるのならば。多分無理だろうが。
本当に家庭の事情で、とかいう人もいるかもしれないが、いや、必ずいるのであろうが、そうであるならば、できるかぎりその夢をかなえるための方法を今一度調べるべきだ。幸いなことに今の時代はインターネットが普及しているので調べものをすることは容易であるし、大した手間もかからない。酷なことを言うようだが、人より恵まれていない環境に生まれ育った以上、そこは自分の労力で埋めるしかない。オブラートに包んでもしょうがないし、これが現実だ。
自分の夢を胸を張って人に伝えることができないという人がいる。では問おう、あなたの夢は叶えたとしても他の人に誇れないような夢なのであろうか。否、断じてそんなことはないであろう。胸を張れる夢だからこそあなたの夢なのだ。
ならば誇りを持て、自分の夢に。自分が信じる自分の夢に。あなた自身が選んだあなたの夢だ。それは間違いなく輝かしいものである。
突き進め、自分の夢へ。
後書きになるが、これを書くにあたり、夢について語ってくれたある友人に心よりの感謝を申し上げ、最後の締めとさせていただく。