麗景殿さん、宮中の幽霊に出会う。の巻
いづれの御時にか、女御、更衣、数多候いたまいける内裏の一角に、その人は居りました。
高貴なる宮家の姫君であり、内裏での序列は第二位。
にも関わらず、弘徽殿女御vs桐壺更衣のガチンコバトルも何処吹く風。
空気を読むのは苦手だが、空気になるのは大得意。
宮中の大嵐を雅やかにスルーする彼女は、人呼んで麗景殿。
後に言う花散里の、一の姉君でありました。
〈麗景殿さん、宮中の幽霊に出会う。の巻〉
「……しくしくと、女の泣き声が聞こえるのです。さる高僧殿がそこへ行ってみると、そこには女の頭蓋骨が。」
きゃー、と女房達の声が響く。
季節は麗らかな春である。
ぽかぽかと暖かい陽気に、思わず麗景殿女御の口から欠伸が洩れる。
「まぁ、麗景殿さま。ちっとも怖くなさそうですわね。」
乳母子で一の女房でもある愛宕が、麗景殿こと梗子姫に不満気に話し掛ける。
「だって、ねぇ。」
眠たげな様を隠しもせず、梗子姫は言う。
「こーんな春の真っ昼間に怪談して、怖がる方が無理があるわよ。だいたいなんだってこんな、平和を絵に描いた様な日に怪談なんかするわけ?」
よくぞ聞いて下さいました、とばかりに、周りに居た麗景殿付きの女房らが、ずずいっと膝を寄せてくる。
その迫力に、若干退き気味の梗子姫。
そんな主の様子を気にも止めず、女房達は口々に話し始めた。
「正にその事ですわ。」
「近頃、聞こえると専らの噂ですの。」
「なんでも内裏の外れの桜の木の下に」
「しくしくと女の泣き声が。」
えーと、つまり?と首を傾げる梗子姫に、女房達は声を揃えて言った。
「幽霊です!」
俄然話に喰い付き始めた梗子姫に女房達は喜んだが、姫とは赤子の頃からの付き合いの愛宕だけは、嫌な予感に身を震わせた。
そして予感とは、嫌な物ほど当たるのである。
さて、その晩の事である。
梗子姫は、その身に何故か、愛宕の女房服を着込んでいた。
一方で、上等な寝間着を身に纏い、姫君が眠るはずの寝台に座る愛宕。
「じゃあ愛宕。いつもの様に頼むわね。どうせ今上帝は来ないだろうけど、何かあったら上手く誤魔化すように。朝までに帰らなかったら、幽霊に拐かわされたとでも言っといて。」
そう言い捨てて、梗子姫は颯爽と夜の暗がりへ出ていったのだった。
「姫様ぁ。それ、洒落になりませんって……。」
愛宕の呟きは、誰にも拾われることなく、虚しく闇に溶けて消えた。
「えーと、内裏の外れの桜の木の下……って、そんなのあったっけ?」
ぶつぶつと呟きながら、月明かりを頼りに地面をてくてくと歩く梗子姫。
時刻は丑三つ時。
随分と胆の据わった姫である。
どんどん歩くうちに、いよいよ敷地の外れまで来てしまった。
「う~ん、いよいよ淑景舎も越えちゃったよ。もう塀しかない。こんな所に桜って……。」
ふと風向きが変わる。
すると、風に乗って、シクシクと泣き声が聞こえてくるではないか。
「やったぁ!こんな夜中にウロウロさ迷った甲斐があったよ。」
幽霊に喜ぶとは、なんとも風変わりな姫君である。
泣き声の主の元へとやって来た梗子姫。
「あー、桜ってこれかぁ。ていうかこの木、桜だったんだ。」
件の桜の木には、花が一輪も咲いていなかった。
桜と認識されぬのも無理は無い。
さて、桜の木の下で泣いているのは、どう見ても生身の若い女性である。
なんというか、泣き方が、人間らしいのだ。
「ぶぅぇ~、ぐすっ、ひぃっく、ぐぶぅ……。」
幽霊ならもう少し、儚い泣き方するよなぁ。などと考えながら、梗子姫は声を掛けた。
「もうし、もうし。如何なさいました。」
「ぎゃー!出たぁ!幽霊!」
失礼な上に喧しい女性である。
「あの、私は幽霊ではありませんよ。麗景殿様付きの女房で、桔梗と申します。」
梗子姫はいつも、外歩きの際には桔梗という女房名を名乗っている。
麗景殿付きとしておけば、自分で誤魔化せるので楽なのだ。
「それで何を泣いておられたのです?」
「えーと、私、最近内裏に上がったんですけど。あの、淑景舎に。でも全然馴染めなくて。心細くて、帰りたいとばかり考えてしまって……。」
あぁ、この方が最近噂の桐壺殿か。と梗子姫は気付いた。
なんでも亡き父君の遺言で入内したものの、後見もなく心細い思いをしているとかなんとか。
果たして、実家から疎まれ、厄介払いのように内裏に送られた自分とどちらがましか。
などと考えている事はおくびにも出さず、梗子姫は言った。
「楽しむのです。己が身に起こる事を、楽しむ事です。泣いていては、悲しい事しかやって来ませんよ。」
他人事なので、いかにもそれっぽいけれど中身の無い、適当なアドバイスをする梗子姫。
幽霊の正体もわかったし、残念ながら既に飽きていた。
「ところでこの辺り、幽霊が出ると専らの噂です。あなた様も、お気をつけ下さいまし。」
桐壺殿は、目に見えて真っ青になった。
どうやら幽霊が怖いらしい。
「か、帰ります!あ、話を聞いて下さって、ありがとうございました!」
パタパタと足音が遠ざかるのを聞いて、梗子姫も身を翻し、麗景殿を目指して歩き出した。
翌日も春らしい陽気であった。
「昨晩は如何でした?」
あふあふと扇の影で欠伸をする梗子姫に、主の寝所で爆睡していた愛宕が訊ねた。
「幽霊の正体見たり枯れ尾花、ってね。まぁ収穫もあったよ。あれは如何にも御上が好きそうだ。面白くなるかも。」
梗子姫の答えとも言えない呟きに、充分な睡眠のお陰か艶々した顔をぽかんとさせて、愛宕は首を傾げた。
「内裏は荒れそうだってこと。ざまぁみろ、だね。」
そう言うと、梗子姫もとい麗景殿女御は、目を瞑り、すぅすぅと寝息をたて始めた。
縁の下で、猫がにゃあと鳴いた声がした。