番外編 家族という存在【参】
ちょっとした騒ぎを起こした翌日、私は縁側に出て日向ぼっこをしながら読書をしていた。今日も体の調子は良い。悪阻が収まったのかもしれないと、気持ちも明るくなった。
今日はぽかぽかと温かい陽気で、読書をしているうちに眠気がやってくる。猫の姿のゴロー君も私と同じようで、大きな欠伸をして体を丸め、私にすり寄ってくる。その様は本物の猫みたいで愛らしく、思わずゴロー君の背中を撫でると、ゴロー君は気持ち良さそうに喉を鳴らし、すやすやと眠ってしまった。
そんなゴロー君を眺め、背中を撫で続けているうちに、私もうとうととしてしまう。うつらうつらと船を漕いでいると、『あら。寝てしまったの?』という聞き覚えない艶のある声が聞こえ、私の眠気が吹き飛んだ。
はっとして周囲を見ると、そこにはとても美しい女性が私の顔を覗き込んでいた。
まったく身に覚えのない人。
そのはずなのに、私が彼女をどこかで見た事があるような気がした。
(いったい、どこで見たのだったかしら…)
私が考え込んでいると、彼女は嬉しそうに笑った。
『目が覚めたのね!おはよう、あなたってお寝坊さんなのね』
「おはよう…ございます…?」
朗らかに挨拶をされて、私は戸惑う。
知らない人なのに勝手に家に入り込んで挨拶をする。いや、もしかしたら私が知らないだけで、睦月さんとか夕鶴君の知り合いなのかもしれない。…とも思ったけれど、それでも他人の家に勝手に入って来るのはいかがなものだろうか。
『ふふふ。戸惑っているのね?とっても可愛いわ、環さん』
「え……なぜ、私の名を…」
『だってわたし、ずっとあなたたちを見てきたのだもの。…ああ…わたしの自己紹介がまだだったわね。初めまして、環さん。わたしの名は六花』
「りっ…か…?」
六花、という名前に聞き覚えがあった。
しかし、どこでだっただろうか…と記憶を辿り──思い浮かんだのは。
(そんな…まさか…!ありえないわ…だって、あの方は…)
『信じられない?ふふ、そうでしょうね。でもきっと、わたしはあなたの考えている通りの人物──人物だった、というべきなのかしら?』
「どういう意味ですか…?」
『つまり、ね。わたしはもう“人”ではない、ということ。──改めまして、わたしの名前は六花。桐彦と帷の母です』
どうぞよろしくね、と穏やかに微笑んだその人を、私は信じられない思いで見つめた。
(ありえないわ…だって、桐彦さまと帷さまのお母様──皇后さまは二十年ほど前に亡くなっておられるはずだもの…)
しかし、母親と言われたらそうかもしれない、とは思える。
彼女の顔立ちはどことなく帷さまに似ていた。ただし、雰囲気は桐彦さまに近い。
けれど、彼女の年齢は私と変わらないか、ほんの少し上くらいにしか見えない。そんな女性に自分が帷さまの母親だと言われても、俄かには信じ難い。
(…待って。さっき、この方は『もう“人”ではない』と仰らなかった?…と、いうことは、つまり……)
さあっと血の気が失せていく事が自分でもわかった。
もし、私が今思いついた事が事実ならば、彼女が帷さまの母親であってもおかしくはない。
けれど、私はどうしても、それを認め難かった。
私が苦悩していると、隣から『ふわぁ~』と呑気な欠伸が聞こえてそちらに目を向けると、ゴロー君が体をの馬事、良く寝たと言わんばかりにもう一度大きな欠伸をした。
『いっけね…寝ちまったか。おい、お姫さん、何もなかっ…………あ?』
ゴロー君が何か言い終わる前に私はゴロー君を抱き上げ、ぎゅっと抱き締めた。
ゴロー君がうちに来てから毎日毛並みを整えてあげている成果か、ゴロー君の毛並みはとても心地良い。もふもふとした体に顔を埋めると、心が少しだけ落ち着く気がする。
そんな私にゴロー君はぎょっとした様子で、『お、おい!何すんだよ!おれの毛並みを乱すんじゃねえ!…聞いてんのか!?』とぎゃあぎゃあ騒ぐ。それに聞こえないふりをしてゴロー君を抱き締めていると、私が震えている事に気づいたのか、ピタリとゴロー君が大人しくなった。
『お姫さん、何で震え…………って…は?』
おろおろとして私を見ていたゴロー君は不意に何処かを見て目を見開く。
『あ、あんた…!』
『こんにちは、子猫さん』
『おれは子猫じゃねえっつーの!!……じゃなくて!あんた何者だ!?どうしてここにいられる!?』
ゴロー君の問いかけに、彼女はにっこりと微笑んで答える。
『わたしは帷の母親よ。どうしてここにいるのか…というのは、実はわたしにもよくわからないの』
『はぁ!?あのご主人サマの母親だぁ?それに、何でここにいるのかわからないって……あんた、亡者なのか?』
『きっとそのようなものだと思うわ。気づいたらここにいたのよ。…ねえ、わたしの話を聞いて頂けないかしら?』
そう言って、彼女は茶目っ気たっぷりに笑ってみせたのだった。
*
彼女──六花さまは、少し前まではこの辺りをただふわふわと漂っていたのだという。漂いながら、息子である帷さまの成長をずっと見ていたのだとか。
このままずっと帷さまを見守っていくつもりであった六花さまは、ある日突然、気づいたらこの屋敷の庭にある、桜の木の下に立っていたのだという。
それは昨日の夜の事だと仰っていたから、昨日私が見た女性は六花さまだったのだろう。
『びっくりしたわ。今まで屋敷の中に入る事は出来なかったのに、気づいたら屋敷の中に…それもあの桜の木の下にいるのだもの。どういうわけか、この屋敷の外に出れないにし…本当に困ったものだわ』
(『あの』…?あの桜の木に何か思い入れがあるのかしら…?)
そう疑問に思いながら、私は六花さまの様子を観察した。
おっとりと仰る六花さまは、私の想像していた六花さまの姿とは違う。もっと、帷さまを恐れ、目にしたくないと拒絶する、そんな心の弱い女性を想像していた。けれど、この場にいる六花さまはどうだろう。
『帷は背が低いのを気にしていたようだから、大きくなって良かったわ。……それでも、まだ低い方みたいだけれど。陛下も背が高いし、桐彦も背が高いのに…誰に似てしまったのかしら…』と一人で仰っている姿はとても楽しそうで、一般的に想像する母親そのものの姿のように見える。
しかし、私はその事よりも先に気になって仕方がない事があり、おずおずと六花さまに問いかけた。
「あ、あの…つ、つまり……六花さまは、ゆ、ゆゆ幽霊だと…そういう事なのでしょうか…?」
今は昼間だ。昼間から幽霊が出るだなんて信じられないし、信じたくもない。けれど、もし彼女が本当に帷さまの母親であられる六花さまならば、皇后さまがお亡くなりになられたのは、確かな事なのだから、彼女は幽霊、という事になる。
どうか否定して欲しい──その私の願いは叶わず、彼女はあっさりと『そういう事になるわねえ』頷いた。その事にがっかりしながらも、私は不思議と、彼女の事を“怖い”と思っていない事に気づく。
幽霊は、怖い。それは確かだ。けれど、今、ここにいる六花さまは怖くない。
その違いは何なのだろうかと考え込んでいると、私の考え事を見抜いたのか、それとも私がうっかり声に出していたのかはわからないけれど、ゴロー君がその問いに答えた。
『お姫さんが幽鬼を怖がるのは、奴らが“負”の感情に囚われているからだ。けど、このヒトは“負”の感情に囚われているわけじゃなさそうだ。幽鬼──幽霊ってのは、害になるモノとならないモノがあって、このヒトは害にならない方なんだろう。だから、お姫さんも怖くねえんだ』
ゴロー君の説明に、私はなるほど、と思った。
私が幽霊を恐ろしく感じるのは、禍々しい印象が強いからだ。妖怪もそうだろうと言われてしまえばその通りだけれど、伝承に聞く妖怪は良いモノがある。亀吉君やゴロー君が良い例だろう。だからなのか、幽霊ほど怖ろしいという気持ちはない。
とはいえ、妖怪も禍々しいモノ──例えば、人を襲う事を目的としたモノは怖ろしくないわけではない。しかし、それと幽霊に関する恐怖というのは別物なのだ。人を襲う妖怪や物の怪に遭遇した時は命の危機を感じて恐ろしく思ったけれど、幽霊に関してはどちらかと言えば、植えつけられたものなのだと思う。
そんな、妖怪に対する恐怖と幽霊に対する恐怖の違いを考えていると、六花さまに呼びかけられた。
『環さん。私の事、恐がらないで欲しいわ。だって、あなたは帷のお嫁さん──わたしにとって、義理の娘になるのだもの。ぜひ仲良くして貰いたいの』
にこにこと無邪気に笑う六花さまに、私はなんと答えたものか悩んだ。
私の六花さまに対する印象はちぐはぐとしていて、六花さまにどう接するべきなのか、判断がつかない。
『…環さんがわたしに良い印象を持っていない事は知っているわ。いいえ、良い印象を持っている方がおかしいくらいね。けれど、ね、わたしはあなたに感謝しているの。あなたのような娘が帷のお嫁さんになってくれて、本当に良かった…』
「六花さま…」
儚げに、切なそうに笑う六花さまにかける言葉を見つけられず、私は口籠ってしまう。
何か言わなくては、と思うけれど、その“何か”が出てこなくてもどかしい。
『…ああ、そろそろ時間ね。また、わたしをお話をして頂戴ね?』
「え…」
どういう事ですか、と問いかける前に、六花さまの姿は、あの夜に見たのと同じようにすっと消えた。
それに戸惑っていると、唐突にゴロー君が人型を取った。
「あのヒト……普通の幽鬼じゃ考えられないほど、強い力を持っている。気をつけろ、お姫さん。悪い感じはしねえけど…あのヒトの気配はどうにも…」
「え?」
聞き返した私にゴロー君が苛立たしそうな顔をした。けれど、すぐに小さく首を横に振って「なんでもねえ」と言う。
「…ともかく、気をつけるに越した事はねえ。特にあんたは今、大事な時期だろ。絶対、一人で会おうとするなよ。会うならおれか、おれじゃなくても、誰かが一緒にいる時にするんだぞ」
「え、ええ…わかったわ。ところで…六花さまはなぜ突然消えてしまわれたの?」
「うーん…なんて言えばいいか…」
ゴロー君は腕を組み、難しい顔をする。私にもわかるような説明を考えてくれているのだろう。だから、私はゴロー君が喋り出すのをじっと待った。
「いいか、幽鬼っつうのは、本来は常夜にいるべき存在だ。それが現世にあるという事は、本来はあり得ねぇ事なんだ。だが…その“あり得ない事”を無理やり“あり得る事”にするには、それなりの力が要る。ここまでは大丈夫か?」
「ええ」
常夜というのは、亡者たちが住む世界の事をいう。黄泉の国とも言われている。それに対し、現世というのが私たちが今いる世界の事を指す。
また、常夜に対し常世もある。こちらの常世は神の住まう世界の事をいう。
「その力っつうのは、大体“負の感情”である事が多い。恨み、妬みといった感情は、喜びや楽しいといった感情に比べて、強い力になる事が多い。幽霊におどろおどろしい印象が強いのは、負の感情が強い力に変わり、その力によって現世に留まる事が多いからだ。あのヒトみたいに負の感情が強いわけでもないのに現世に留まる幽鬼っていうのは珍しいんだ。…まあ、亀坊みたいな例外もあるが…あれは幽鬼っつうより、精霊に近いんだが…」
話が逸れたか、とゴロー君は気まずそうな顔を一瞬し、ごほん、とわざとらしく咳払いをする。
「現世に留まるのは強い力が必要。そして……現世に顕現するのには、もっと強い力が必要なんだ。幽鬼たちが現れやすいのは、逢魔が時。それはその時間帯が常夜と現世の境が淡くなる時間帯だからだ。その時間帯なら、強い力ななくとも顕現しやすい。だが、今は昼間だ。本来ならば幽鬼であるあのヒトが顕現出来る時間帯ではないのにそれが出来るという事は、あのヒトが強い力を持っている、という証拠だ。だがまあ…さすがにずっとは疲れちまうんだろうな。今は視えないだけで、すぐそこにはいると思うぜ」
「そうなの…」
わかりやすいゴロー君の説明に頷きながら、私は辺りを見回す。
六花さまの姿はどこにも視えない。けれど、微かに六花さまの気配がするような気がした。
(六花さまはどんな方だったのかしら…。生前の六花さまをご存じの方に、聞いてみようかしら)
以前は知ろうとも思わなかった六花さまの事を知りたい、と強く思う。
それが帷さまの不安定な心を落ち着かせる鍵となるような、そんな気がした。




