番外編 家族という存在【弐】
環視点です。
彼女を初めて見たのは、珍しく体調の良い日だった。
身籠っている事が発覚する少し前から、起き上がる事が出来ない日が多くて皆に心配を掛けてしまっていたけれど、今日はいつになく体の調子が良かった。
この体調不良はとても辛いけれど、でもこれは自分の中に宿る命が育っている証であると思うと、とても嬉しくて頑張ろうと思う。そう思うのだけど、やはり辛いものは辛かった。
悪阻というものは、人によって症状がまちまちなのだという。症状がまったくない人もいれば、すごく重たい症状の人もいる。早く終わる人もいれば、出産するまで続く人もいる。
私はどちらかといえば症状が重い方になるのだと思う。ここ数年、健康だった頃が信じられないほどに私の体は弱くなってしまった。これもある意味、自業自得で仕方がないと割り切ってはいる。しかし、そのせいで悪阻が重くなってしまったようだ。
お腹の子が安定するまでは悪阻が続くだろうと、お医者様にも言われてしまった。あと一月ほどはこの症状が続くのかと眩暈がしそうだったけれど、あと一月耐えれば悪阻も収まってくる、と前向きに考える事にした。
とはいえ、周りの人に心配をかけ続ける事に変わりはない。寝込んでしまっているのだから、心配しないでというのは無理だろう。だから、私のためにも周りの人のためにも、一日でも早く悪阻の症状が和らぎますように、と毎日祈っている。
そんな中で、帷さまは誰よりも心配性だった。今まで心配性なのはお兄様だと思っていたけれど、そのお兄様が呆れるほどの過保護ぶりなのだ。
たまに調子が良くて散歩をしていると、駆け寄ってきてなぜ寝ていないと怒ったり、少し本を読もうと動いただけでも、人に頼めと苦言を仰る……そんな帷さまの様子に、正直なところ、戸惑っていた。
帷さまの言動は私を心配しての事だとはわかっている。けれど、それ以外の何か、別の想いもあるような気がする。帷さまの心の奥底に潜む、本人ですら自覚していないような、そんな潜在的な想いが。
きちんと帷さまをお話をするべきなのだとは思っている。だけど、私は起き上がれない事が多いうえに、帷さまも何かとお忙しい方だ。そのため、すれ違いの生活が続き、なかなか話し合う機会が得られないでいた。
どうしたものかしら、と思いながら私は湯船に浸かった。
最近はお風呂に入る事すらままならず、体を拭いて貰うだけの日が続いていた。久しぶりに湯船に浸かって、心も体もほぐれていくような気がする。やはりお風呂は良い物だわ、としみじみと実感した。
体を伸ばしたあと、少しだけ目立ってきたお腹をそっと撫でる。
まだお腹の子の動きはわからないけれど、お腹を撫でるとそこに確かに小さな命の息吹を感じられるような気がする。
生まれてくる子は男の子だろうか、女の子だろうか。どちらでも良いけれど、元気な子が生まれて欲しい、と心から願う。
まだ見ぬ我が子に想いを馳せながらお風呂から出てきちんと体を拭いて着替え、部屋に戻るために廊下へ出る。
部屋に戻るためには縁側を通らなければならない。少し暑く感じていたから、縁側で夜風に当たって涼むのも良いかもしれない、と思いながら縁側に差しかった。そして、何気なく、庭の桜の木が植えられている方を見て、桜の木の下に誰かがいる事に気づく。
(帷さまが帰って来られた?それとも睦月さんか、夕鶴君かしら。…いえ、人型を取ったゴロー君かも…)
誰にしても声をかけようと思い、私がその人物を良く見ようとした時、その人物がこちらを振り返った。
その姿に、私は息を飲む。
(──綺麗な、女の…人……?)
それは私が想像していたどの人物でもなく、見知らぬ女性だった。
どうして女の人がここに、と思うと同時に彼女はにっこりと艶やかに微笑み──消えた。
(……え?)
慌てて辺りを見回しても、先ほどの女性の姿はどこにもない。
もしかしたらどこかに隠れたのかも、とも思ったけれど、それにしてもいなくなったのは唐突だった。突然消えてしまったとしか考えられない。
そう理解すると、私の頭にとある一つの単語が思い浮かんだ。
(も、もしかして…い、今の女の人って……ゆ、ゆゆゆうれ……)
心の中でも最後までその単語を言い切れず、私は混乱と恐怖で思わず悲鳴をあげた。
「きゃああああ!!」
「──どうした!?」
悲鳴を聞きつけて慌ててやって来てくれたのは、ゴロー君だった。
ぶるぶると震えながら蹲る私に、ゴロー君はおろおろとしながら話しかける。
「お、おい…お姫さん…?どうしたんだよ…何があった?」
「ゴ、ゴロー君…」
「いや、だからおれの名前は小五郎……うん、まあ今はいいや」
ゴロー君は人型を取っていた。
猫の姿のゴロー君は三毛猫の愛らしい姿だけれど、人型のゴロー君は帷さまとはまた違う魅力の美青年だった。猫らしい吊り目な瞳に明るい茶色の癖毛。この国では見られない、珍しい色の髪と瞳。しかし、近年では西洋から訪れる人も多く、黒髪黒目以外の人も見かける機会が多くなったため、外で歩いていても「少し珍しい容姿をしているな」程度にしか思われないだろう。そのため、私がたまに外出する時は、人型のゴロー君が付き添う事が多い。
いつもは自信に満ちた表情をしているゴロー君も、ぶるぶると震えている私にどう接すればいいのか戸惑っているようで、いつになく動揺していた。
ぎこちない手つきで背中を撫でるゴロー君の手は、とても温かい。私を気遣ってくれているのが、その手を通して伝わってきた。
ゴロー君を見ているうちに、段々と私も落ち着いてきて、私は先ほど見た事をゴロー君に話した。
「あそこの桜の木の下に、見知らぬ綺麗な女の人がいたの…」
「…綺麗な、女?」
不思議そうに聞き返したゴロー君に、私はしっかりと頷く。
「私を見て、笑ったの……そして、瞬きの間に…す、姿が、消えた、の……」
あの時の光景を思い出し、再び震え出した私にゴロー君は困ったように「あー…思い出させて悪かったよ」と頭を掻く。
「怖がらなくても大丈夫だ、お姫さん。なんつったって、お姫さんの傍には天下無敵の大妖怪、小五郎サマがいるんだぜ?怖い事なんざ、あるはずがねえ。…というか、早くいつも通りに戻ってくんない?じゃないと、おっかないおれのごしゅじん……」
ゴロー君は台詞を言い終わる前にハッとしたように玄関の方を見て、「げぇ!」と叫ぶ。
どうしたのかしら、と不思議に思ってゴロー君を見ると、ゴロー君の顔は青ざめていた。
「まずいまずい…!こんな場面見られたらおれ、どんな目に遭わされるか…!」
「…ゴロー君…?」
どうしたの、と聞く前に「環!」と私を呼ぶ声が聞こえ、私は声のした方を向く。
すると、帷さまがこちらへ駆けつけてくるところだった。
「……帷さま?」
「どうした?なぜこんなところに座り込んでいる?」
「えっと…その…」
幽霊らしき人影を見かけて震えていました、と正直に言うのは少し恥ずかしい。
私が口籠ると、帷さまはぎろりとゴロー君を睨んだ。
「おまえが付いていながら…何をしているんだ、ゴロー」
「おれは小五郎だっつーの!…それに、これは不可抗力だし!」
おれは悪くねえ!と主張するゴロー君に、帷さまは冷ややかな目を向ける。
「そ、そんな目をしたっておれ、謝んねえから!そもそも、あんたの結界が緩んでんじゃねえの!?だからお姫さんが幽鬼を見かけんだよ!」
「……幽鬼?」
「おれは見てねえけど、お姫さんは女の姿を見たんだと。でもその女、すぐ消えちまったらしいぜ?だからきっとお姫さんが見たのは幽鬼なんだろ」
「馬鹿な…幽鬼など入れないはずだが…」
「おれが知るかよ。でもお姫さんが見たっつうんだから、いたんだろうよ」
「……」
難しい顔をして考え込む帷さまに、私はおずおずと声をかける。
「あ、あの…帷さま……も、もしかしたら、私の見間違いかもしれません。私が一人で騒いでいただけなので、どうかゴロー君を責めないでくださいまし」
「……わかった。君がそう言うのなら、ゴローを責めるのはやめよう」
帷さまのその台詞に、私とゴロー君は揃ってほっとした顔をした。
しかし、帷さまは厳しい顔をして私を見つめているので、私は背筋を伸ばして身構えた。
「君は身重の体だ。医師からも平静にしていろと言われているというのに…もう少し慎重に行動してくれ」
「…はい、申し訳ありません。深く反省しております」
始まった帷さまのお説教に私は生真面目な顔をして返事をする。けれど、帷さまは私のその返事を聞いて、呆れ顔をされた。
それもそのはずだ。私のこの台詞は、何回も使われているものだから。
「いつもそう言いながら君は……まあ、今日のところはもうよそう。風邪を引かれたら困る。部屋に戻ろう」
「はい」
帷さまのお説教が手短に済み、私は密かにほっと胸を撫で下ろす。
そして立ち上がろうとしたのだけど……。
「と…帷さまっ!?」
「なんだ」
「い、いきなり抱き上げないでくださいまし!」
私が立ち上がる前に、私は帷さまに抱き上げられた。
突然の事に私がとても動揺しているのに反して、帷さまは不可解そうな顔をして私を見つめる。
「そんなに驚く事か?」
「いきなり抱き上げられたら誰だって驚きますわ!抱き上げてくださるのなら、一言声をかけてくださいまし!そうでないと…心臓に悪いです…!」
「…よくわからないが……これからは気をつけよう」
心底不思議そうな帷さまに、がっくりとしてしまう。
帷さまは女心というものをまったくわかっておられない。きっと帷さまは私に気遣って抱き上げてくださったのだろうけれど、夫とはいえ、いきなり好きな殿方に抱き上げられれば心臓が悲鳴をあげてしまう。現に、私の心臓はばくばくと激しく音を鳴らしている。
帷さまは私を抱えたまま、部屋に向かって歩き出す。それと同時にゴロー君は猫の姿に戻り、庭の方へと消えていった。
それをぼんやりと見ていたが、途中で帷さまに抱えられたままである事に気づき、はっとする。
「と、帷さま、下ろしてくださいませ!一人で歩けますし…重たいでしょう?」
「別に重たくないぞ。むしろ、これで二人分なのかと驚いたくらいだ。部屋はすぐそこなのだから、大人しく運ばれろ」
にべもない帷さまの台詞に言葉を失っているうちに、部屋に着いてしまった。
部屋に入るとあらかじめ敷いてあった布団の上に、まるでガラスを取り扱うかのような慎重さで、帷さまはそっと私を下した。
「……あ、ありがとうございました、帷さま」
色々と複雑ではあったけれど、運んで貰った事に変わりはない。
私がお礼を述べると、帷さまは表情を変える事なく、「これくらい、なんともない」と仰った。
「…君に何もなくて、本当に良かった…。頼むから、あまり無理はしないでくれ…君を失う事など、考えたくもない…!」
もう、あんな思いは懲り懲りだ、と呟いた帷さまの声は、震えていた。
少し前では考えられないほど、今の帷さまは感情的になりやすい。それは私が身籠ってから見られるようになった事だった。
心が不安定な帷さまを、私はそっと抱き締める。
「私はどこにもいきません。ずっと、帷さまの傍におりますわ。もう無理はしないと、約束します」
「環…」
私に抱き締められるがままに身を任せている帷さまの背を優しく撫でる。
帷さまは私を…いや、身近な誰かを失う事を恐れている。それは帷さまの過去の出来事のせいであり、私のせいでもある。だから、私はずっと傍にいる事で、そんなに怖がらなくて良いのだと、証明しなければならないのだと思っている。
こうして抱き締める事によって、私がここにいるのだと帷さまに少しでも実感して貰えればいい。それによって帷さまが安心出来ますように。
そんな願いを込めて、私は帷さまの心が落ち着くまで、帷さまの背中を撫で続けた。




