仲違い
帷さまに連れられてやって来たのは浅草六区だった。
開発が進み、若者たちで賑わう街並みと人の多さに、私はただただ圧倒された。
馬車が通ることが難しそうなほどの人混みに私が呆然としていると、帷さまは馬車から降りてしまった。
どうすればいいのかわからず戸惑っていると、小さく笑みを浮かべて私に手を差し伸べた。
「お手をどうぞ、お嬢さん?」
少し芝居がかかった口調と仕草をした帷さまに私は目を丸くした。
帷さまらしからぬ行動に私は更に戸惑った。
それでもいつまでも帷さまに手を差し伸べさせているわけにもいかず、私はおずおずと手をとった。
すると帷さまはほんの一瞬、ほっとした表情を浮かべたように見えた。
瞬きをする間くらいの変化だったから、私の見えた間違えなのかもしれないけれど。
帷さまに手を取られて馬車から降りると、人の熱気で蒸し暑く感じる。
「体調は大丈夫か?」
「は、はい。平気です」
「ならいいが…くれぐれも無理だけはしないように」
「はい」
「少しでも不調を感じたらすぐに言ってくれ」
「はい」
まるで子どもに言い聞かすかのように言う帷さまに、私は神妙に頷いた。
普段なら子ども扱いをする帷さまにむっとするけれど、今は何も感じない。
夢の中にいるかのような浮遊感は今でもあって、ぼんやりしていたと言うこともあるし、なによりこんなに人の多い所に来るのは久しぶりで、帷さまが心配する気持ちもわかる。
なにしろ、当の本人である私が不安に思うくらいなのだから、帷さまからしてみれば気が気ではないだろう。
しかし、私が素直に頷いたのにも関わらず帷さまは心配そうだった。
私はそんなに信頼がないのだろうかと落ち込みそうになる。
そんな私の雰囲気を察したのか、それとも偶然なのか、帷さまは「行こうか」と歩き出す。帷さまに手を掴まれたままだった私も、帷さまが歩き出すのに倣い、自然と歩くことになった。
帷さまは器用に人混みを進んでいく。
私は慣れないドレスを着ていることもあって、思うように歩けない。けれど、誰かにぶつかることもなく歩けているのは、帷さまのえすこぉと上手だからなのだと思う。
私が眠っている間に、私以外の女性とこうして歩いたのだろうか。
今の私と同じように手を繋いで?
そう考えるともやもやとした気持ちが胸を占めだし、私はそれを追い払うように首を横に振った。
過去のことを思っても、過去は二度と戻らない。だから、『もし』を考えるだけ無駄だ。
何度も何度も繰り返したその言葉を、私はまた同じように繰り返し唱える。
そうしないと、私はきっと狂ってしまう。
―――嫉妬と言う名の、熱くて昏い炎に身を任せて。
なんとかもやもやとした気持ちを追い出すことに成功し、ほっとしたとき、前方が騒がしいことに気付き、私たちは自然と足を止めて顔を見合わせた。
どうやら騒ぎの中心は、今私たちが向かおうとしていたトキワ座らしい。
いったいなにがあったのだろうかと疑問に思った私たちがトキワ座に近づこうとしたとき、「あんたたち、近づくのはやめておきなよ」と声が掛けられた。
私たちに声を掛けてきたのはそれなりに身なりの整った中年の男性だった。
ふっくらとした顔とお腹を揺らし、私たちに近づいた彼は困ったように眉を落として言った。
「今、トキワ座に近づくと碌な目に合わないよ。どうせ今夜の放映は中止だ。行くだけ時間の無駄さ」
「いったいなにがあったんだ?」
「ここ最近よくあることさ。トキワ座に訪れた客が突然喧嘩をし始める。一組くらいの喧嘩なら可愛いものだが、あちこちで同じような喧嘩をする人たちがいて、とてもじゃないが落ち着いて活動写真を観れないし、巻き込まれて怪我をした人もいるらしい。…まったく。活動写真を楽しみにしてきたというに、観れず終いとはなぁ…」
最後の方はただの愚痴になってきた男性の話を私は聞き、「お互い不運でしたわね」と苦笑をした。
しかし帷さまは難しい顔をして、「ここ最近よくあること…?そんな報告は…」と小さく呟いていた。
もしかして、この騒ぎは妖怪に関係のあることなのだろうか。
そう問いかけようとしたとき、話を切り上げようと男性が私たちに言った言葉に、私は固まった。
「…とにかく、トキワ座に行っても時間の無駄だ。お兄さんは可愛い奥さんと一緒に美味しいご飯でも食べに行った方が、よほど有意義に時間を使えるだろう」
「騒動に巻き込まれないうちに帰りなさい」と助言を残して男性は去っていった。
そんな男性に帷さまは律儀に「…ああ、忠告感謝する」とお礼を述べていたけれど、私はお礼をいうどころではなかった。
それはもちろん、男性のあの爆弾発言のせいだ。
(お、奥さんって…そんな…!まだ私は奥さんではないし……私、帷さまの奥さんに見えるのかしら…)
混乱して考えがまとまらない。
ただずっと男性の残した『奥さん』の言葉が私の頭に繰り返し再生され、私の顔が急激に熱くなっていくのを感じた。
きっと今の私の顔は真っ赤になっているに違いない。
私は両手で頬を押さえ、少しでも頬の火照りを隠そうとする。
無駄な行為だとはわかっている。けれどやらずにはいられない。
「――環?具合が悪くなったのか?」
頬を押さえて俯いた私を見て、勘違いしてしまったらしい帷さまに心配そうに声をかけられて、私は慌てて顔をあげた。
顔が赤いままだけれど、具合が悪くなったと勘違いされて心配をさせるのは申し訳ない。
「い、いいえ。なんでもありませんの。どうぞ私のことはお気になさらず」
「…顔が赤いようだが…熱があるんじゃないか?」
「ち、違います!これは、その……そう!久しぶりに人の多い場所へ来たから、ちょっと暑く感じてしまっただけですわ。本当になんでもないのです。本当に調子は悪くないのです」
私が必死になんでもないのだと伝えると、少し心配そうな様子を見せながらも帷さまは「ならいいんだが…」と引いてくださった。
そのことに心からほっとした。
「しかし…どうしようか。活動写真を観るつもりだったが…肝心の活動写真はどうやら本当に放映されないようだ」
「ええ…そうですね。少し残念ですけれど…仕方ありませんね」
活動写真を観てみたかったけれど、放映されないものは仕方ない。
運が悪かった。そう思うしかない。
気分が沈みそうになるけれど、私ががっかりした様子を見せて帷さまに気を遣わせるのも申しわけないと、私は一瞬だけ俯いたあと笑顔を浮かべた。
「帰りましょう、帷さま」
「環…」
帷さまの眉間にしわが寄る。
きっとこのまま帰すのも悪いと思っておられるのだろう。
だけど、私はこうして普段着ることができない洋服を身にまとってお洒落をし、滅多に見れない帷さまの洋服姿を見ることができただけで十分だ。
それだけで、とても嬉しかったし、幸せだ。
そう、こんなにも満たされて幸せなのだから、これ以上を望んだら罰が当たってしまう。
だからきっと、これでいいのだ。
「もう十分ですわ。こんな風にお洒落をして帷さまとお出掛けをして、活気のある場所に連れて行って貰えただけで、十分です。だから、帰りましょう?」
にっこりと微笑んで私はもう一度帰りましょうと帷さまに言う。
そんな私を帷さまはじっと見つめ、もどかしそうな表情を浮かべた。
そして口を開こうとした時。
「―――いい加減にして!!」
女性の悲鳴のような怒鳴り声に私たちは顔を見合わせた。
どうやらトキワ座の入り口付近から聞こえたようだ。
私は驚いて声のした方を向いたあと、こっそりと帷さまの様子を伺う。
帷さまは眉間に皺をよせて声のした方を睨んでいた。
しかし私の視線に気づくと、ため息を堪えるような表情をして、「やはり、帰ろうか」と私に告げた。
私はそれに頷こうとした時、先ほど声のした方から男性と思われる怒鳴り声が聞こえた。
今度は本当に帷さまはため息をついて、「少し様子を見てくるから、君はここにいてくれ」と言って私から離れていく。
その後ろ姿に手を伸ばす。
待って。私も一緒に。
そう言いたかったのに、私の手も声も帷さまに届かず、帷さまはどんどん遠退いていく。
私から離れていく帷さまの姿に、私は胸が苦しくなって、急に不安になった。
帷さまが一緒にいてくれた時は不安なんて感じなかったし、こんなに胸が苦しくなることもなかった。
(ああ…私、いつの間にか帷さまに依存していたんだわ…帷さまが傍にいてくださるのが当たり前のように感じていた。だから、帷さまが傍にいないと不安になって胸が苦しくなる……私、いつの間にこんなに我儘になっていたの…?)
もう十分だと、これ以上望んではいけないと自分に言い聞かせていた。
だけど、本当は…───
「……っ」
苦しい、辛い、助けて。
心がそう叫んでいた。
醜い感情で渦巻く心を抑えようとしても、嵐みたいにそれは心を吹き荒らす。
帷さまの傍にいたい。離れたくない。
その気持ちを抑えることができず、私はここで待っていてと言った帷さまの台詞を無視して帷さまが歩いて行った方へ駆け出した。
まるで自分が自分でないかのような、感覚。
それがなんなのか、私は知っている。
それに飲み込まれて身動きができなくなった人をたくさん見てきた。
恋に、溺れる。
それがどういうものなのか、私は初めて知った。
今までは自分の醜い感情だけで抑えることができた。行動には移さなかった。
だけど今は、人が多く溢れているこの場所に一人取り残され、不安で不安で、行動を起こさずにはいられない。
どうかお願い、私だけを見て。
よそ見をしないでほしい。私だけに笑顔を見せてほしい。私の傍にずっといてほしい。
そんな独占欲が私を支配する。
あぁ、私はなんて醜く、我儘なのだろう。
今、私がこうして帷さまと一緒にいられるのは、帷さまの優しさでしかない。
こうして私が帷さまの婚約者でいられるのも、あの時の事に帷さまが責任を感じているからなのだろう。
帷さまはお優しい。
あの時の事は決して帷さまが責任を感じるようなことではない。だというのに責任を感じて、私と婚姻を結んでくれる、優しいかた。
帷さまに幸せになってほしい。私のことなど気にせず、帷さまが幸せになれる道を進んでほしい。
そう思う気持ちと共に、嫌だと叫ぶ私がいる。
ずっと帷さまの傍にいたい。
私以外の誰かと並んで幸せそうな帷さまの姿なんて見たくない。
そう思うのもまた確かだった。
私は狡い人間だ。帷さまが頷かないとわかっていて、私のことに責任を感じる必要はないと、だから私と無理に結婚しようとしなくていいのだと、そう告げた。
予想通りに帷さまは首を横に振り、「責任など感じていない」と私に言った。
その回答に私は内心でほっとし、そんな自分が嫌になった。
私が帷さまに責任を感じなくていいと言ったのは、私が楽になりたいからだ。
帷さまがそんなことはないと言うのがわかっていて、その回答を聞いて帷さまは自分の意思で私の傍にいてくれるのだと、安心したいから。
そんな自分の狡さに自己嫌悪し、どうしようもないくらい安心している自分も見つけた。
帷さまへの“好き”という気持ちは日に日に大きくなっていく。いつか溢れて止まらなくなるのではないかと不安に思うくらい。
恋という病を制御するのは難しい。
わかっていたことだけど、改めて日々実感する。
更新めっきり途絶えていてすみません…。
これからはもう少し更新スピードをあげて行きたい…(希望)




