恋愛相談と歌劇2
あの歌劇を観に行ったあとから、帷さまが忙しくすることが多くなった。
学校も一緒に帰ることはなく、夕鶴さんに私を任せ、自分はどこかへ行ってしまう。
朝でさえも一緒でない時がある。
仕事だとはわかっているけれど、心配だ。体を壊してしまわないだろうかと。
「環様。今日はどうされますか?」
「今日は真っ直ぐ家に帰ります」
「畏まりました」
そう言って夕鶴さんは美しく微笑んだ。
夕鶴さんが来ているのは、帷さまと同じ黒い詰襟である。学生帽をしっかりと被り、真面目そうな雰囲気だ。
夕鶴さんが黒い詰襟を着ていることから、夕鶴さんが男性であると私は判断した。
だけれど、夕鶴さんと一緒にいても、異性と一緒にいる、という感じはしない。
その中性的な顔立ちのせいか、それとも彼の性格によるものか。恐らく両方だろう。
丁寧な物腰に美しい姿勢としぐさ。それがより彼を中性的に仕立て上げている。
「夕鶴さん、帷さまは今日も遅くなるのですか?」
「どうか夕鶴と。それに私に丁寧な口調で話しかける必要はありません」
にっこりと微笑みながらも、頑として譲らなそうな雰囲気を出して彼は言った。
私は少し戸惑いながらも、彼の言うとおりにする。
「えぇっと…では、夕鶴君?」
「はい、なんでしょうか」
呼び捨てにするのは何となく阻まれて、“君付け”で呼ぶ。
それでも返事をしてくれたので“君付け”は彼にとって許容範囲なのだろう。
「今日も帷さまは遅くなるのかしら?」
「ええ、恐らく。調べものが上手くいっていないようで…」
「そう…」
「帷様が心配ですか?」
「ええ。だって、いつも帰って来るのが遅いのですもの…体を壊されないか、と心配だわ」
私がそう言うと、夕鶴君は微笑ましそうに笑う。
そして「良かった」と小さく呟いた。
「環様のようなお方が帷様の婚約者となられて、良かった…帷様は、ご自分の事に関して無頓着であられますから…帷様の分も、環様が心配してあげてください」
「え、ええ…」
私がぎこちなく頷くと、夕鶴君は安心したように顔をほっと息を吐く。
「……環様から見て、帷様はどのような方ですか?」
「私から見て…?そうね…」
私は目を閉じ、脳裏に帷さまの姿を思い浮かべる。
眉間に皺を寄せている帷さま。照れ笑いを浮かべる帷さま。優しく微笑む帷さま。
色々な帷さまの顔が浮かび、私は顔を綻ばせる。
「帷さまは、とてもまっすぐで不器用で…悪ぶっているけれど、本当はとても誰よりも優しい方だと思うわ」
「…環様は、帷様をよく見ていらっしゃるのですね」
私は夕鶴さんの言葉に動揺する。
その言い方だと、私がまるで帷さまをずっと見ているようではないか。
確かに見ていたけれど、それは婚約者としてであって…。
と心の中で言い訳をする。
「本来ならば、帷様がこんなに忙しくする必要はないのです」
「え?」
「もっと他の者――私や睦月さんに回せばいいようなことも、すべて一人でやろうとなさっている…見ていて、心配なのです」
「そうだったの…」
「私たちがいくら無理をしないようにと言っても帷様は聞く耳を持とうとなさらない。ですが、環様なら。環様の言葉ならばきっと帷様も耳を傾けてくださるでしょう。環様、どうか帷様に会えた時にでも、無理をしないようにと環様からも言って頂けないでしょうか?」
真剣な表情で私に頼む夕鶴君の瞳には、なにもできない自分への歯がゆさと、帷さまを心配する気持ちがゆらゆらと揺らめいているようだった。
「わかったわ」と私が頷けば、心底安堵したように微笑み、「ありがとうございます。帷様をお願い致します」と頭を下げる。
夕鶴君の言ったように、帷さまは私の話を聞いてくださるだろうか。
わからないけれど、私が出来ることならしたい、と思う。
夕鶴君や睦月さんが心配をしている、と伝えることくらいなら私にもできるから。
今日は満月だ。
秋も遠のき、本格的に冬の季節がやってきた。冷たい北風に少し体を当てただけで冷えてしまう。
普段ならば風邪を引かないように体を冷やさないようにするのだが、今日はなんとなく月を眺めたくなって、縁側からぼんやりと月を眺めていた。
冬の夜空はきれいだ。空気が澄んでいて、夜空に輝く星々がよりいっそう輝いて見える。
冬の星空は帷さまに似ている。冷たく澄んでいて、だからこそ輝いて見える。
(帷さまに会いたいな…)
ずっと顔を合わせていたのに、ここ最近は顔すら見たことがない。
近くにいる気配はあるのに、会えない。
日中は気にしないようにしていた。けれど、こうして夜一人でいると、寂しさが込み上げてくる。
私の話をじっと聞いてくれる帷さま。睦月さんも夕鶴君も話を聞いてくれるけれど、なにか違う。
私は、私の話を聞いて相槌を打つ帷さまの声が好きだった。
帷さまの声が聞きたいと、切に願う。
「…おい、環。環!」
「ん……」
誰かに揺さぶられて、ゆっくりと目を開けると、そこには久しぶりに見た帷さまの顔があった。
眉間に皺を寄せ私を見つめるその表情がとても懐かしい。
「…帷さま?」
「なにをしているんだ、こんなところで。風邪を引くだろう」
「帷さま…」
どうやら私はうたた寝をしてしまったらしい。
体が冷えきってしまっていて、寒さに震える。
まったく君は…、と呆れたように呟き、私に上着をかけてくださる帷さまの声。ずっと聞きたかった声。
「早く部屋に……環?」
「帷さま…」
「おい、なんで泣いて…」
戸惑った顔をして私を見つめる帷さまの顔が、ぼやける。そしてポロリと頬に雫が伝う。
一度零れ落ちた雫は止まることなく私の頬を流れる。
私はなぜ泣いているのだろう。泣いても帷さまを困らせるだけだ。そんなことわかっているのに、どうして涙が止まらないのだろう?
ぽろぽろと涙を流す私を帷さまは困惑した面持ちで見つめ、ぎこちない手付きで私の頬を流れる涙を拭う。
「泣くな。なんで泣いているのかわからないが…君が泣いているのを見ると、胸が苦しくなる。だから、泣くな」
泣くなと言われてはいそうですか、と止まるようなものではない。
それに、私の涙を拭う帷さまの手が温かくて優しく、それが余計に私の涙を誘うなんてことは帷さまにはきっとわからないだろう。
「頬がこんなに冷たい…君は一体いつからここにいたんだ?」
「…帷さま」
「なんだ?」
私を気遣うようにいつになく優しい声音で返事をする帷さま。
私はそんな帷さまの目をまっすぐ見つめた。
「心配、していたんですよ?睦月さんも夕鶴君も…帷さまが無茶をしていると」
私がそういうと、帷さまは顔をしかめ「あいつら…」と呟く。
そして私をまっすぐ見つめ、「心配は不要だ」と言う。
「僕は自分で出来る範囲のことをやっている。無茶なんてしていない」
「本当ですか?少し痩せたのではありませんか?食事は、睡眠はきちんと採っていますか?」
「…環。僕は…」
「心配なのです、帷さまのことが。頬が少し削げたように感じます…帷さま、無理をなさっているのでは?」
私は帷さまの頬に手を伸ばし、その頬に触れる。私の手が冷たいせいか、帷さまの頬が温かく感じた。
「だから、大丈夫だと言っているだろう」
苛立ったように帷さまは言い、私の手を振り払う。
その事に胸に痛みが走ったことに、戸惑う。
「ですが…」
「しつこい。それよりも早く部屋で温まって寝るんだ」
そう言って私を部屋に追いやろうとする帷さまに、私は抵抗する。
「環」
「帷さまは…帷さまは、私を避けているのではありませんか?」
私がそう叫ぶように言うと、帷さまの目が見開く。それが答えだとわかった。
自分で言ったことだけど、胸が痛む。
「私、何か帷さまに…」
「違う!」
私の言葉を遮るように、帷さまが声を荒げる。
驚きに目を見張り、帷さまを見つめると、帷さまは苦悩した表情で私を見つめていた。
「君が悪いわけではない。僕の問題だ。僕の、問題なんだ…」
「帷さま…」
「僕は、臆病なんだ。君のためだと言いながら、結局自分が傷つくことを恐れている…。想像以上に僕の中で君の存在が大きなものになっているらしい」
自嘲するように笑みを浮かべる帷さまの姿が痛ましく、けれど私はなんと言えばいいのかわからずに、唇を噛みしめる。
「僕のせいで君が傷つくところを見たくない…そう、思うようになってきたんだ。その気持ちに気づいたら、君と接するのが恐くなった。…僕の存在が人を傷つけるから」
「帷さま…」
この人は、いったいどんな過去を背負っているのだろう。
自分の存在が人を傷つけると思いこむような、そんな出来事があったのだろうか。
過去の帷さまのことはわからない。
だけれど、今の帷さまのことなら、近くでよく見てきたつもりだ。だから、私は胸を張って言うことができる。
「帷さま、人は誰かを傷つけずにはいられない生き物ですわ。生きるために、あるいは己の誇りのために名誉のために、誰かを傷つける。それが人です。例え悪意がなくても、受け止め方次第で人は簡単に傷つきます。ですから、帷さまだけが人を傷つけるわけではないのです」
「しかし…」
「帷さま、もし私が帷さまのせいで傷つくことがあるのなら…それは私が弱いからです」
「は…?」
「帷さまは誰かを傷つけようとすることはしないと、私は知っています。ずっと見てきましたもの。ですから、私がもし帷さまのせいで傷つくことがあるとしたら、それは私の弱さ故なのです。帷さまが気になさる必要はありません」
「…環」
「…それに、こうして避けられる方が、直接傷つけられるよりも私には辛いのです。しばらく帷さまのお顔を見ることができなくて、私はとても寂しかった…」
「環…その…すまなかった。そんな風に君が思ってくれているとは思わなくて…」
戸惑ったように言う帷さまに、私はクスリと笑いを零す。
「すまないと思うなら、もう私を避けないでください」
「あ、ああ。わかった」
少し顔を赤くして頷く帷さまを見て、私はすっきりとした気持ちになる。
言いたい事が言えて良かった。
そう思って、一番言わなくてはいけないことを言うのを忘れていたことに気づく。
「…色々言いましたけれど、最後にこれだけは言わせてください」
「…なんだ?」
「…お帰りなさい、帷さま」
私がそういうと、帷さまは目を見張り、そして戸惑ったように瞳を揺らしたあと、ぎこちなく笑った。
「……ただいま、環」
その笑顔を見て、私は思った。
私は月が見たくて縁側にいたわけではないと。
ここに居れば、帷さまに会えると知っていたから。だから、今日は縁側に出たのだ。
帷さまに「お帰りなさい」と言うために。
そして、すっと赤い物が視界の端に写る。
それを辿れば、私の左手の小指に行きつき、ほんの少し前まで白かった糸がうっすらと色づいていることに気づく。
私はそれを見て目を見開く。
「どうかしたのか?」
「な、なんでもありません。そろそろ部屋に戻りましょうか」
「あ、ああ…」
私は左手を後ろに隠しつつ、帷さまの背を押して部屋に戻る。
部屋の戸を閉めたあと、私はへなへなと座り込む。
そしてもう一度、左手の小指を見つめる。
つい先ほどまで白かった糸。
それが今では薄紅色へと染まっていた。
これが意味することは。
(なんてこと、なの…)
私は冷えた両手で顔を覆う。
上気した顔に、冷えた手が心地よく感じる。
覆った左手の端に垂れる糸。
そしてどくんどくんと激しく高鳴る心臓の音。
(―――私、帷さまに恋をしているの…?)
その疑問に答える者はなく。
ただ、左小指から垂れる糸がゆらゆらと揺れるのみだった。




