とある少年と老婦人の話
その人は、よく笑う人だった。
なんでもないことなのに、できて当たり前のことなのに、自分のことのように喜んで笑う、そんな人だった。
「運命の赤い糸を、ご存じ?」
ある日、いつものようにその人と縁側で談笑をしている最中に、その人は突然そう問いかけてきた。
その人は疾うに齢は五十路を超えているというのに、どう見ても三十路くらいにしか見えない。しかし、若々しい、という感じではなく、むしろ散っていく桜のような儚さを感じる人だった。
その人はいつも笑っていた。その時も、微笑んでいた。
「運命の、赤い糸?」
「ええ。人それぞれには運命の赤い糸が結ばれていて、その赤い糸を辿ると自分の運命の相手に巡り合えるのだそうですよ」
「へえ…」
「あらあら。興味がない、と顔に出ておりますよ、帷さま」
僕がしまった、と顔をすると、その人はころころと笑い声をあげる。
むっとした顔で睨むと余計に笑うのだ。
「だいたい、僕が誰かを愛せるわけがない。こんな、皆から畏れられている、この僕が」
「帷さま」
その人は笑うのをやめて、眉をひそめ僕の名を呼ぶ。
僕は俯き、膝の上で拳を握り締める。きつく握り締めすぎて、手が真っ白になった。
僕は生まれつき、見えないモノが視えた。人には視えない物の怪やあやかしの類を視るのは僕にとっては当たり前で、物心つく頃からなにもない場所に向かって話しかけたり、なにもない場所で急に怯えたり暴れだしたりする僕を周りの人間は大層気味悪がった。実の母ですら、気味が悪いと言った。
そんな僕の周りには当然誰も寄り付かず、話しかけてくれたのは、時折周りの目を盗むようにして現れる兄だけだった。
僕の世界は狭かった。ただ広いだけの人気のない屋敷の庭に一人で行き、ただなにをするわけでもなくぼんやりと過ごしたり、たまに物の怪に悪戯をされたりする日々だった。
そんな僕の日常を変えたのは、父に頼まれてやって来たという、その人だった。
優しく微笑み、「初めまして、帷さま」と僕の手を取ったその人の手は、とても温かった。
自分でも気づかないまま涙を流した僕を、その人は優しく見つめ、懐からハンカチを取り出して優しく拭ってくれた。
その日から、その人はいつでも僕の傍にいてくれた。
雨の日も、雷の鳴りやまない日も、あやかしに怯えて眠れない日も。物の怪に悪戯をされたら「まあ」と言って物の怪を追い払ってくれ、そして怪我をすれば丁寧に手当てをしてくれた。
人の温かさをいうものを、僕はその人から学んだ。
強く握り締めた僕の手の上に、その人は自身の手をそっと優しく乗せた。
柔らかくて温かい手。少し皺があるけど、白く滑らかな優しい手。
僕はこの手が大好きだった。
「帷さま。人は、誰かを愛さずにはいられない生き物です。帷さまはまだ幼い。まだこれからですのよ。今からそんな調子でどうするのです」
「…でも」
「でも、ではなくってよ。わたくしにはわかりますの。帷さまもいつか、運命の人に出逢い、その人を愛すると」
「…僕は、兄上と珠緒がいればそれでいい。運命の人なんて要らない」
「まあ、帷さま。お気持ちはとても嬉しいのですけれど、わたくしのような年寄りにそのようなことを言うのは勿体ないですわ」
その人――珠緒は切なそうに微笑んだ。
「わたくしももういい歳ですもの。いつ儚くなってもおかしくはありません。わたくしが儚くなる前に、ぜひ一度わたくしの孫にお会いして頂きたいのですけれど」
間に合うでしょうかねえ、と珠緒は苦笑する。
そんな珠緒の様子に、僕は嫌な予感を覚えて、思わず珠緒に抱き付く。
「まあ、帷さま」
「嫌だ。珠緒がいなくなるのは、嫌だ…」
「帷さま。わたくしはまだ、いなくなりませんよ。まだ、帷さまにお教えしたいことがたくさんあるのですもの。それに、孫に会って頂きたいのですわ」
「孫?」
「ええ、わたくしの孫です。とても可愛らしい女の子なんですのよ。帷さまよりも二つ年が上なのですけれど、お会いすればきっと仲良くなれますわ。とてもいい子なんですの。もうしばらく会っていないけれど…」
そう言って孫の事を離す珠緒はとても幸せそうで、そして切なそうでもあった。
僕は知っていた。珠緒はずっと僕の傍にいる。本来ならその孫と一緒に過ごせたはずの時間を、僕は珠緒から奪っていることを。
「……孫に、会いたい?」
恐る恐る珠緒に尋ねると、珠緒はいつも通りの優しい微笑みを浮かべて頷く。
僕は申し訳なくて、でも珠緒と離れるのが嫌で、二つの意見が頭の中で対決する。
僕が葛藤しているのを感じたのか、珠緒は僕の背中を優しく擦る。
「いいのですよ、帷さま。わたくしがこうして帷さまの傍にいるのは、わたくしが決めたこと。帷さまが責任を感じる必要はないのです」
「だけど」
「それに、恐れ多くもわたくし、帷さまのことをもう一人の孫のように思っているんですの。だから、良いのですよ。帷さまとこうして過ごせて、わたくしは幸せですわ」
「珠緒…」
とんとん、と優しく僕の背中を叩く珠緒に僕は次第に眠くなってきた。
そして、うとうとと微睡む最中に見た珠緒の顔は、不安げに揺れていた気がした。
「……間に合うかしら」
そう呟いた声は、夢か現か、僕にはわからなかった。