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日曜日、外で雨が降っているが、窓を開けて机に向かっていた。そろそろ学校の定期テストが近付いてきていた。
苦手な世界史の復習をしていたが、疲れてきて、飲み物でも飲もうと椅子を立った。丁度その時、スマートフォンの画面が光った。「志波」と表示されていた。電話らしい。態々電話で伝えたい用件があるのか不思議に思ったが、待たせるのは悪いので直ぐに取ってスクリーンをスワイプした。
耳に当てると、志波の、聞き慣れた声が聞こえてきた。
「死にたくないけど死にたい。やばい。心からヘルプミーだわ」
第一声がそれだった。
「はあ。勉強しすぎて気が狂ったか」
「いや、テストがやばいとかそう言うのじゃなくて、もっと深刻なんだよ」
「どんなふうに」
僕がそう言うと、志波は少し間を開けて、答えた。
「その、自分で言うのは厭だけど、俺はある程度幸せだろう。病気があるわけでもない、成績が悪いわけでもない、友達がいないわけでもない。将来の目標もある。でも、それでも、何か死にたい。いや勿論死ぬことが阿呆なことだってのは分かってるんだけどさ、何か、分からない。死にたいって言うよりはこれ以上生きて疲れたくないって感情の方が強いのかな。まあ、自分の生きてるっていう実感が、時々なくなるんだよ。俺は生きるに値するのか」
「それは中々。病んでるな。僕が思うに、医学的には違うけどさ、生きてなきゃ死んでる、死んでなきゃ生きてるって訳でもないんだし、辛辣に言うならお前は生きてないんだろう。ただ僕もそれが分からんわけでもない。たぶん生きるのがめんどくさいんだろう。お前はめんどくさがりだからな」
「そんな、ひどいな。確かに俺はくずかもしれないけどさ」
志波は笑って言ったが、少しだけ曇った声だった。僕は勉強に戻りたかったので、強くなった風のために雨が降り込んできていた窓を閉めて、電話を切った。終わり際に、「死んだら悲しむ」とだけ伝えたが、幾分心が晴れるだろうか。
所謂閉塞感という奴なのだろうか。志波が感じているのは。それとも、自己否定の果ての思い込みだろうか。はたまた、別の何かか。考えても分からなかった。
次の日、月曜日、朝校門前、気付いたら横に志波が歩いていた。
「おう」
声を掛けられ、振り向くと笑顔だった。
「朝から元気だな。昨日のは何だったんだ」
「俺みたいなくずなんかが悩んでも仕方ないだろう、と思ってね」
「そうか、気が軽くて良いな」
話しながら歩いていると、ぽつぽつと雨が降り出した。濡れるといけないので、小走りになり、そのまま会話は流れてしまった。
志波と僕は席が前後ろで、よく話す。というか、今年に入ってよく話すようになった。最初はノートを写させてくれとか、そんな会話ばっかりだったが、いつの間にか仲良くなっていた。結局、僕と志波は似たもの同士だということだろうか。
「で、昨日のは何だったんだ」
始業まではまだ時間があった。
「全く嘘ではないんだけど、まあ、お前に言ったのは気の迷いだったな」
「病んでるのか」
「いや、全然」
志波の、いつもの強い目力がこっちを見つめている。悩みがあるようには見えなかった。
僕が何か言おうとしたとき、木下が話しかけてきた。クラスメートだ。
「志波、すまん。古典のノート写さしてくれ」
いつものことだ。志波は良くその手のことを頼まれていた。
慣れたように、鞄からノートを取り出し、差し出した。
その日は一日中雨だった。だから何というわけでもないが、何となく気分が上がらなかった。志波とも朝以降はあまり話さなかった。
火曜日、志波は学校に来なかった。教師も理由を言わなかったので、学校にいる間は、志波が何故休んだか知りようもなく、少し心配だった。というのも、昨日一昨日のことがあったからだ。あいつは何か僕の知り得ないことで悩んでいるようだった。「自分は生きるに値するのか」とあいつは言っていたが、考えてみると、僕からしたら、いや、僕の方が、その疑問を持つべきだった。あいつが電話で言っていたのを、上から目線で何やら断じたが、僕自身、あの後、頭から離れなくなっていた。沼に嵌まったみたいだ、と客観的に見る自分もいたが、どうしても抜け出せない。
帰宅後、志波にラインを送ったが、いつまで経っても返事が来なかった。塾の帰りで十二時を回っていたので、寝てしまっているのかもしれないと思い、僕もベッドに入った。
水曜日も、志波は学校に来なかった。一日中、志波の机の上には古典のノートが、雑に置かれていた。
放課後バスの中で、スマートフォンの電源をつけると、通知が一つ入っていた。起動すると、志波からだった。
「刺されてた。入院中」
と、それだけ書かれていた。一瞬目を疑ったが、確かにそう書かれていた。信じがたく、うそだろ、と送ったら、今度は直ぐに返ってきた。
「マジ」と、写真が添付されていた。ベッドの上でピースをしている。声も出なかった。
金曜日、学校帰りに僕は志波のいる病院に寄った。行きだけで四百円程掛かり、痛かったが、やむをえない。
僕は病院の中をゆっくり歩いた。早く会いたくはあったのだが、足が進まなかった。暖色をよく使った小児科を抜け、白を基調とした、これも柔らかい色合いの志波のいる病室に入ると、志波の母がいた。軽く会釈をして、彼女の少し後ろに立った。
「ごめんなさいね、わざわざ」
笑顔で、でも強引そうだな、という印象を持った。苦手なタイプだ。
「そういえばお前、刺されたって詳しく教えてくれよ」
僕がそう言うと、母は志波の方を向いた。こちらからは見えないが、笑顔なのだろうか。喋り出した。
「あんた、友達にも言ってなかったの。あのね、」
こちらを向いた。
「この子、関係ないのに男の人と女の人の言い争いに首を突っ込んでたのよ」
「言い争いって言うか、一方的な脅しだったから」
志波が口を挟んだ。
「それで女の方から刺されてるの。こうずぶっと。神経とか傷つかなかったから良いけど、正義感があるのか馬鹿なんだか、分からないわね」
誇らしげな顔をしていた。
「それは災難でしたね」
そう言って、鞄を置き、持ってきたおかしを投げて渡した。一応のお見舞いだ。
「あ、雨止んだみたい。じゃあお母さん帰るね」
母はいそいそと荷物をたたんで帰って行った。
僕と志波だけが残った。暫く沈黙が続いた。
「お前が死にたいっていうのも分かった気がするわ」
「お母さんが原因だっていうのかよ」
すっとぼけたような声で言ったが、口元では苦笑を隠し切れていない。僕が思うに、原因は自分で承知しているのだろうが、言うのは避けた。
「お前、やっぱ死にたくてそうしたのか」
冗談半分、本気半分だった。いや、本気の方が大きいかもしれない。
「そうだな、正義感なんてこれっぽっちもないな。ただ、」
志波は頭を掻いて、にやけた面を下に向けて、黙っていたが、訥々と話し出した
「ただ、何というか、気持ちが整理された、気がする」
「やっぱ、痛みかな、強烈だったよ。刺されたのはお腹なんだけど、全身に感覚が広がって、死ぬほど痛かったんだけど、生命を喚起する情動が湧き上がってきた」
僕はなんと言えば良いのか分からなかった。友人の悩みが晴れたというのだから、喜ばしいのだが、僕の心は手放しでそれをすることが出来なかった。
「そんな勝手な。僕に心配かけさせておいて」
苦し紛れにそんなことを言って、目をそらした。先には、似つかわしくない熊のぬいぐるみがあった。
今日使っていたらしい教材の奥に置かれていて気付かなかったが、近付いて手に取ると、志波はバツの悪そうな顔をした。
「お前仲良い女子いたの」
廊下ですれ違った様な気がする髪がくるっとした女の子を思い出しながら訊くと、
「ああ、田熊さんね。昔から知り合いで」
「そうだったのか」
それから暫く雑談をして、帰ることにした。志波は、良く笑っていた。
外は、志波の母が言っていたように晴れていた。ただ、雲は残っていて、夕日を反射して橙に輝いて、大きく息を吸い込むと、水の匂いがした。後ろをふり返ってみると、ドアのガラスに反射して僕の顔が薄く見えた。後ろにいる人々とは大きく異なっているように感じる。
あいつの身に起きたイベント、(いや、あいつが起こしたんだ、)それがとても羨ましかった。僕は何もしてないじゃないか。
帰り道を歩いていると、水滴が頭に当たった。雨が振りそうだ。