イマジナリーフレンド Imaginary Friend ~愛子の場合~
イマジナリーフレンドとは直訳すれば『空想のお友達』。
その言葉の通り、本人の心の中のみに存在する友達のことだが、精神病のたぐいではない。全体の二 割から三割程度の子供が幼児期にイマジナリーフレンドを持つと言われている。
二歳から八歳ぐらいの間に現れることが多いが、そのほとんどが大人になると消えてしまう。
「ただいまぁ!」
あたしは靴を脱ぐと、雪でぬれた赤いランドセルを玄関に置いてリビングに急ぐ。
小学校からの帰り道、急に降り出した雪のせいで、耳と指先が寒くて痛い。
「おかえり。外は寒かったでしょう」
目的地にたどり着く前に、お母さんに捕獲された。
雪でぬれた毛糸の帽子と手袋を脱がせて、ふわふわのバスタオルで包んでくれる。
「おう。お帰り」
暖かなリビングに入ると、パジャマ姿のお父さんがソファーに座っているのが目に入る。
「ただいま、お父さん」
お母さんからタオルを受け取ったお父さんが、わしわしと髪の毛を拭いてくれた。ちょっと太めのお父さんの、がっちりした指が、あたしは好きだ。パソコンのキーボードを打つときは、魔法みたく早くてかっこいい。
いつの間にか台所に行っていたお母さんが、蜂蜜入りのホットミルクを入れてくれた。熱いから気をつけてねと渡されたのは、桃色のマグカップ。
湯気の出ているマグカップを両手で受け取ると、指先から解凍されるようだ。
「あったかい」
ほうっと息を吐き、視線を感じて、あたしは息をひそめた。
・・・・・・いる。
リビングの片隅、ローテーブルの向こう側に、あの子がいる。
お母さんにもお父さんにも見えない、不思議な男の子。
少し離れた場所からあたしの方をじっと見ている。
その子は、あたしより背が低かった。
半袖のシャツ、半ズボンから伸びた手足は枯れ木のように細かった。そのくせ、おなかだけがぽっこりとふくれている。
ぼさぼさな髪の毛、大きな目。
あたしの知らない顔のはずなのに、どこかで見たことがあるような気もする。
誰だろう?
男の子は、あたしを睨むように見上げてくる。
この子に会うのは今日が初めてじゃない。
一番初めはあたしの部屋、子供部屋に現れた。
風疹で学校を休み、お母さんが作ってくれたすり下ろしリンゴを食べさせてもらっている夜に、部屋の隅にぼうっと立っていた。
びっくりして声を上げた。「あの子は誰?」と聞いてみた。
けれど、お母さんにも、様子を見に来たお父さんにも、そこにいる男の子に気づかず、首をかしげるだけだった。熱があるから夢とまざっちゃったのかなと、お父さんは困った顔で笑っていた。
熱でぼうっとしながら、目を閉じた。起きたときには、その子はいなかった。
けれど、その時から、ときどき現れるようになった。
あたしの部屋に、リビングに。あたしたち家族とおじいちゃんと一緒に行った動物園にも彼はいた。
「イマジナリーフレンドだな」
数ヶ月に渡って男の子が現れたり消えたりするようになった後、あたしは我慢できなくて、おじいちゃんに男の子のことを相談した。
お母さんたちには相談できなかった。また否定されたら、こわいから。
おじいちゃんはタバコの煙を一回吐いてから、答えをくれた。
「いまじなりーふれんど?」
初めて聞く言葉。
おじいちゃんは外国で働いていた事があるせいか、難しい事をいっぱい知っている。
「そう。子供には自分にだけ見えるお友達ができることがたまにあるんだよ。別に変なことじゃないし、悪いことでもない」
おじいちゃんはあたしの頭をゆっくりとなでる。
「それで、その子とはどんなお話をしているんだ?」
えっ?
イマジナリーフレンドはただ立っているだけから、話そうとか考えたこともなかった。
ねぼけているのか? 本物か? この世のモノか? そこにいるのか? 突然現れて、突然消えるのは何故か? 色々なことが気に掛かって、話しをしようと思えなかった。
おじいちゃんにどんな話をしているのかと、イマジナリーフレンドの名前を聞かれて、あたしは答えることができなかった。
そのイマジナリーフレンド、ええい、長いな、省略してイフ、イフ君でいいや。そのイフ君が現れるのは家が多いけど、いつ現れるのかはわからない。
今度、会えたら話してみようと思ってだいぶ経ってから、やっと会えた初雪の日。
まだ口をつけていないホットミルクをローテーブルに置く。そして、そうっとイフ君の方へ押し出す。
リビングにはお父さんとお母さんがいるから、声をかける勇気はまだないけど、そうっと、そうっと。
イフ君がなんでここにいるかは分からないけど、寒い日のホットミルクは美味しいから、この子にも分けてあげたくなった。
イフ君は動かず、視線だけをホットミルクに動かした後、いつもと同じようにゆらりと消えた。
残されたホットミルクを再び手にとる。
口に運んだそれは、少し冷たくなっていた。
夕飯まで時間があったので、らくがき帳を広げてイフ君を描く。
お母さんは台所、お父さんはまだ少し熱があるからとベッドに戻ったので、リビングにはあたし一人だ。
誕生日にプレゼントされた三色ボールペンを動かす。
「・・・・・・ガキ、じゃないわよね」
お母さんの声。
絵を描くのに夢中になりすぎていたのか、後ろから近づいてきたのに気がつかなかった。
「ガキ?」
子供、という意味じゃなく感じた。
「ううん、なんでもないの。何を描いて」
「ねぇ、ガキって何?」
お母さんは話を変えようとしたけど、それは駄目。ガキはイフ君のヒントな気がするから。
「あ~、うん。ガキには似てないわよ。ただ、ちょっとおなかが出て手足が細いから」
「ガキって何? お母さん、教えてちょうだい」
「・・・・・・餓鬼よ。うんとお腹が空いているモノのことなの。さあ、夕ご飯にしましょう。お父さんを呼んできてちょうだい」
これでお終いというように、お母さんが立ち上がる。
イフはガキでお腹が空いている?
考えながら、自分の椅子に座る。いただきますをして、海老ドリアにスプーンをさす。
あの子はあたしが食べている前に現れたことが何度かあったけど、あの子が物を食べているのは見たことがない。
その夜、変な夢を見た。
真っ暗な部屋でイフ君が冷蔵庫を開けていた。
冷蔵庫の明かりを頼りに、何かを囓っている。
ガシガシ。ガシガシ。
あたしは驚かさないように後ろから近づいた。
彼がしゃがみこんでいるので、冷蔵庫の中がよく見える。中はほとんど空だった。ちょっとだけ入っているドレッシングの瓶と、何か分からない筆箱サイズの紙の箱が一個。
イフ君の周りには銀色の包み紙が散らかっていた。なんだ、チョコレートを食べているのかと、彼の肩越しに前をのぞき込んで言葉を無くした。
黄色いカタマリ。バターだ。
あたしは何度も瞬きを繰り返す。
イフ君に何かを言おうとした瞬間、お母さんの声で目が覚めた。
朝の食卓に並ぶパン用のバターをバターナイフで削ってなめてみた。美味しくない。
イフはお腹が空いているのかな。
椅子から降りて、冷蔵庫を開ける。
プリンのとなりに置いてある四角い缶を取り出す。
あたしのとっておきのお菓子。ハロウィンにもらったお化けやカボチャなどの形をしたチョコレート。あざやかな色の包装紙をそうっとむいて、大切に一個ずつ食べていたチョコたちだ。
それを片手でつかみ、スカートのポケットに入れた。
いつ、彼に会ってもいいように準備をする。
今度イフにあったなら、あたしの美味しいを分けてあげよう。
イフにとっておきを食べさせてあげる、そう決めたのに、彼に会えない。
あたしのポケットにチョコレートは入ったまま。着替えごとに、違う服に移動しているけど、ポケットにチョコは居着いている。
最後に見たのがバターを食べている夢だったから、心配になる。
イフはお腹空かせていないかな。
いつも気づけばいたから、あたしから会うにはどうしていいのか分からない。ただ、待って。待ち続けて。
あたしだけ、ごはんを食べていてごめんなさい。
どうしたら、彼に会えるのだろう。ううん。会えなくてもいいから、
「どうしたらお菓子を届けられるんだろう?」
「なぁに、クイズ?」
リビングのソファーでつぶやいたら、向かい側に座って本を読んでいたお母さんに聞こえたみたいだ。
「・・・・・・うん。クイズ。会えない人にお菓子を食べてもらうにはどうしたらいい?」
「仲良しのお友達に渡してもらう」
「お友達はいません」
「宅急便で届けるとか?」
「相手のおうちは分かりません」
「学校の先生に」
「小学校には行っていません」
「う~ん。そうだ。夢。夢で会って渡せばいいんじゃないかしら。夢なら、相手の居場所が分からなくても会えるから」
「・・・・・・夢?」
「夢路千里を走るって言ってね、夢なら時も場所も関係なく会えることがあるのよ」
「夢で会える?」
「そう。特に今日なんて朔旦冬至で、十九年に一度の太陽と月が同時に生まれ変わる日だから、すごい奇跡が起こるかもしれないわよ」
「さ・・・・・・」
「さくたんとうじ。カボチャを食べて、ゆず湯に入ったでしょう。明日から太陽が昇る時間が徐々に長くなって、明日からお月様が少しずつに丸くなるから、縁起がいい日なのよ。だから、願い事があるなら今日がチャンスよ」
お母さんの言っていることはよく分からないけど、今日がすごい日だってことは分かった。
だったら。
あたしはポケットの中のチョコレートを確認した。
ハロウィンのチョコレート。あたしが作ったおにぎり。おやつの残りのお煎餅。ペットボトルのお茶。
おにぎりは三角にならなかったけど、美味しいからいいよね。
それらを布製のエコバッグに入れて、バッグを持ってベッドに入る。
今日は特別の日だから大丈夫。あたしからイフを探しに行こう。夢で会えたらバターじゃなくて、美味しい物を沢山食べよう。
バッグを抱きしめて眠りにつく。
探せ、探せ、イフ君を探せ。
探して、見つけて、美味しいをあげよう。
強く願い、祈ったまま、あたしは眠りについた。
寒々として、散らかっていて、開け放たれて冷蔵庫からもれる明かりのみを光源とした暗い部屋。
知っている。
この部屋をあたしは知っている。
イフ君がいた部屋だと、とびはねたくなるくらい嬉しかった。
エコバッグもちゃんと持っている。後はこれをイフ君に渡せば。
「イフ君?」
前回は冷蔵庫の前にしゃがみ込んでいた。今回はどこだと見回して。見回して、まさかと走り出した。
冷蔵庫の前に置き捨ててある毛布。まさか、ここに。かくれんぼ?
おそるおそる毛布をめくる。いた。でも。
「ねぇ、寝ているの?」
生きているの?
目を閉じて、横たわっている。前に見た時よりも顔色が悪い。前に見た時よりも細くなっている。
冷蔵庫の中をみる。ドレッシングさえなくなって、正真正銘からっぽだ。
「息。息は?」
どこかで見たアニメをまねて、口元に手をかざす。あった。よかった。呼吸はしている。
小さな息を吐き出す唇は、かさかさで、ひび割れていて、痛そうだった。
ペットボトルのキャップを開けて、お茶を飲まそうとして、分からなくなる。寝ている彼の口にいれていいのか。
試しに口元にこぼしてみたが、お茶のほとんどが床にこぼれて落ちて、床をぬらすだけだった。
肩をゆすってみる。
起きない。
「ねぇ、イフ君。起きて。起きてよっ。ハロウィンのチョコあるよ」
ここ数週間、持ち歩いていたチョコをイフの手のひらの中に押し込んだけど、反応がない。
動かない。それに冷たい。
そんな人間を前にして、小学生のあたしができることなんて、ただ一つだ。
「イフ君、起きて、起きてっ。生きてよ。ねぇ。返事して。
誰か助けて~っ!助けて、誰かぁっ! お父さん、お母さん、イフを助けて。
誰か来てぇっ!」
泣いた。
大声で、あたしは泣き叫んだ。
誰か助けて、誰か気づいてと、声を張り上げた。誰かが助けてくれると信じて、ただただ声を上げた。
イフ君と連呼して、この子がイフ君ではないことを思い出す。イフはあたしが勝手につけたあだ名だ。あたしは男の子の名前さえ知らない。
けれど、
「誰かこの子を助けてっ!」
あたしは叫ぶ。
お願いだから生きていて。
自分の悲鳴で、目を覚ます。
「大丈夫だ、愛子。お父さんはここにいるから」
声はあたしのだけじゃなく。ベッドの上で、お父さんに抱きしめられていた。
敷き布団の上には、エコバッグからこぼれ落ちていた。つぶれたおにぎり、割れたお煎餅、散らばったチョコレート。
あの子に届けようと思った物が、そのままゴロンと転がっている。
悲しみが突き上げてくる。
あげられなかった。届けられなかった。あの子は今でもお腹が空いたままで。
お父さんのパジャマを両手でつかんで、泣く。
「どうした、怖い夢でも見たのか?」
お父さんがあたしの頭を撫でてくれるけど。
首を横に振って、訴える。
「あの子にチョコをあげたかったのに」
できなかった。
「あの子? それって誰だ?」
「男の子。冷蔵庫の前で、バターを囓っていたの。チョコをあげたかったの。あたし、その子の前でいっぱい食べちゃっていたから」
お父さんがベッドの上のチョコを手に取った。
「これをあげたのか?」
「あげたかったの。でも、目を覚ましてくれなかった。あの子、あのままじゃ、きっと」
死んでしまうという言葉は、怖くて声にすることができない。
「大丈夫だよ」
お父さんは深い声で断言した。
「その男の子は目を覚まして、お茶を飲んで、チョコを食べた。だから、大丈夫」
「だって、あんな暗い部屋で、あんな冷たい部屋で、」
「助けが来たから、大丈夫」
お父さんの言葉にはなんの根拠もない。
けれど、お父さんは、あたしの髪を撫でながら、何度も何度も大丈夫と繰り返した。
お父さんの体温と、言葉がしみこんでくる。
「・・・・・・本当に?」
「家族と一緒に幸せにくらしているから大丈夫だよ」
お父さんの声は限りなく優しかった。