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小説と創作論と文頭の一マス

「文章の作法ってなに?」

「文学とエンタメは違うから、そんなかたっくるしくなくていいっしょ」

「文学性なんて求めてない。面白けりゃそれでいいというのが私の考える小説の肝要」


 というコメントをみかけたことは一度や二度ではありません。

 実際に口にされているのを聞いたことも、それこそ山のよう。

 みなさまも、似たような事を考え、あるいは感じたことは一度や二度ではないでしょう。

 でも、そこで思考を止めていたら話にならない。


 そもそもなぜ「文章作法」というものがあるのか。


 文学とエンターテイメントの違いって?


 文学性とおもしろさって違うものなの? 


 さらにいうなら、そもそも小説って何なの?


 それらを理解することの役に立てたらこれ幸いと、これから語り始めますのは小説や文学。エンタメやラノベを創り出していく上でも役に立ち、さらにはそれらを読み解き、解体する上でも役に立つ。


 ――『創作論』のお話です。


 ◆◆◆


 さて、まず第一回という事で簡単で根本的なところからいきましょう。

 そもそも、『小説』とはなんなのか、と言うお話です。


 皆様はこの『小説家になろう』というサイトを訪れておりますから、少なくとも小説は読んだこと、触れたことのある方ばかりでしょう。

 それは紙媒体かも知れませんし、ネット上の電子の海を漂っている文字の羅列かも知れませんし、あるいは朗読かもしれません。一番多い方は教科書か、場所柄的にはライトノベルでしょうか。


 "小説"という言葉の由来は、古く中国の『荘子』という書物などに遡るとされています。

 意味は簡単に言ってしまいますと「取るにたらないお話」という程度のものです。

 市中で話されていた噂話や論議を集めた報告書のようなもの、あるいはそれをまとめる人のことを小説や小説家と呼んでいたのが古代中国世界であり、"小説"という言葉の使われ方だったとされています。

 これが現在のような使われ方を始めるのは、明治維新後に海外の言葉を翻訳していた諸先生方の努力の結果であり、坪内逍遥が英語の"Novel"という単語に対して"小説"という訳を当てたからだとされています。

 現在使われている多くの語がこのように、実は外国の単語に対して当てられた漢語で、古典の使われ方と違うのはよくある話で、例えば"Love"という単語に"愛"という単語を当てたことによって"愛"という感じの持つ意味が大きく変わったのは有名な話です。

 一番割を食ったのは、たぶん直江兼続ですかね。愛戦士。


 さて、"小説"という単語が"Novel"の意味を宿したのは明治維新後ですが、さらに、物語が今、読まれている口語文(わかりやすくいうなら、口頭で喋っている語をそのまま音で表した文章です。昔の文章中の言葉は古典的な言葉が多く使われていたので、大変分かりづらかったのです)の形を取りますのは、二葉亭四迷という作家が「言文一致体」と呼ばれる(読んで字のごとく、ようするに、喋っている言葉と、文章の音が一致しているということ)文体で一斉を博したから。それ以前にも、一応、言文一致の文章はあったのですが、二葉亭四迷ほどの影響力を持って世に出たことはなかったのです。


 こうして、"小説"は「言文一致体」で書かれた「Novel」であるという立場を得ていくわけなのですが、それ以降は日本文学史に譲ることしまして。

 これ以降、小説が書かれるにつれて、様々なやりとりが日本文学史において交わされていくのですが、そのやりとりの中で確立されていったもののうちの一つが「文章作法」と呼ばれる、いわば文章を読みやすく、あるいは物語を巧く描くためのテクニックです。

 日本語という文章は、よく言われることですが、大変曖昧な言語です。意味の限定がとても難しいうえ、同じ意味の言葉がいくつもあったり、漢字のそれ自体にまで意味が込められていますから、大変、理解するのが難しい。言語学の話になりますが、日本語はそのバラエティー豊かな表現から「世界で有数の美しい言語」と言われる一方で、「アルファベットを使用した言語に比べて未整理未発達な原始的言語」などとも言われたりします。

 そうした、難しい言語ですから母語話者である所の日本人からして、日本語を正しく正確に読解していくのは難しいと言わざるを得ません。ですから、できる限りわかりやすく、効果的な表現方法が模索されていった訳で、その内の文章における模索結果を作法としたのが「文章作法」なわけです。


 文章で物語が書かれていればそれは「小説」であると言えてしまうのが、この世界ではありますがその小説がわかりやすい内容であるかは、ある程度この「作法」が守れているかどうかで読み取れます。

 皆さんが一番慣れ親しんだ作法で言いますと「原稿用紙の使い方」でしょうか。

 文章の段落を変更するときは必ず、文頭を一マス開けなさい、と口酸っぱく言われた経験が皆さんお有りのはずです。

 これは、文頭が一マス空いているのと、空いていない場合とでは文章を目で追いかけるとき読みやすさが違うために言われている作法です。

 具体例を挙げますと、このような感じでしょうか

 以下、引用は拙作であるVRMMO介入小説 『No-win situation』より抜粋です

 ◆◆◆


VRMMO『終焉のヴァンガード』はデスゲームである。

仮想現実空間の構築とそれに対する脳波干渉によるダイヴ技術に関する超国家プロジェクトの一つとして計画され実行・運営されていたこのVRMMOは開発者に参加していた"主義者"たちによってデスゲームと化す。

全世界に存在したアクティヴユーザー200万人を巻き込んだ死のゲームと化したこの装置は、第一の犠牲者として開発主任の一人で在りこの事件のトリガーを引いた厳島の死を以て停止方法の分からない200万人の牢獄となった。

解決手段を模索する主要国政府は、その過程でこのゲームに仕組まれた自動終了プログラムの存在に気が付く。

約束された終末因子の発動まで残り半年――それまでにこのゲームを終了させなければ200万人は一斉に死亡する。

調査の末に発見された停止方法はただ一つ、ゲームクリア時に全プレイヤーに強制的に表示されるスタッフロールムービー。そのムービーデータが実行される瞬間にハッキングを行いデスゲームの根幹である殺人システムを終了させること。

政府は公募によって新たな参加者を募る。

それはVRMMO世界の救世主にならんとするプレイヤーを欲するという事。

デスゲームに対する外部介入者として募集されたそれには、元軍人や、ゲーム内に家族が取り込まれたものなど様々な者たちが集まる。

その中に、主人公である大神一心はいた。

彼はオンラインFPSゲーマーの中では都市伝説的存在である。

ゲーム情報を取り扱う掲示板に書かれた彼に関する逸話は真実と虚偽を判別することが難しく、ネット界隈では都市伝説として扱われている。

大神一心に関する、唯一確定している戦績。

それはキルレシオ1:100。

斯くして。


一人を以て百人を殺しうるとされる、ゲーマーがVRMMOの救世主となるため、仮想世界に舞い降りる。


 ◆◆◆


 VRMMO『終焉のヴァンガード』はデスゲームである。

 仮想現実空間の構築とそれに対する脳波干渉によるダイヴ技術に関する超国家プロジェクトの一つとして計画され実行・運営されていたこのVRMMOは開発者に参加していた"主義者"たちによってデスゲームと化す。

 全世界に存在したアクティヴユーザー200万人を巻き込んだ死のゲームと化したこの装置は、第一の犠牲者として開発主任の一人で在りこの事件のトリガーを引いた厳島の死を以て停止方法の分からない200万人の牢獄となった。

 解決手段を模索する主要国政府は、その過程でこのゲームに仕組まれた自動終了プログラムの存在に気が付く。

 約束された終末因子の発動まで残り半年――それまでにこのゲームを終了させなければ200万人は一斉に死亡する。

 調査の末に発見された停止方法はただ一つ、ゲームクリア時に全プレイヤーに強制的に表示されるスタッフロールムービー。そのムービーデータが実行される瞬間にハッキングを行いデスゲームの根幹である殺人システムを終了させること。

 政府は公募によって新たな参加者を募る。

 それはVRMMO世界の救世主にならんとするプレイヤーを欲するという事。

 デスゲームに対する外部介入者として募集されたそれには、元軍人や、ゲーム内に家族が取り込まれたものなど様々な者たちが集まる。

 その中に、主人公である大神一心はいた。

 彼はオンラインFPSゲーマーの中では都市伝説的存在である。

 ゲーム情報を取り扱う掲示板に書かれた彼に関する逸話は真実と虚偽を判別することが難しく、ネット界隈では都市伝説として扱われている。

 大神一心に関する、唯一確定している戦績。

 それはキルレシオ1:100。

 斯くして。


 一人を以て百人を殺しうるとされる、ゲーマーがVRMMOの救世主となるため、仮想世界に舞い降りる。


 ◆◆◆


 これらは、このように長文を書いた際に役立つテクニックですから、皆さんが経験してきた原稿用紙一枚や二枚くらいだと書いている本人側としては実感がしがたいものです。

 ですが、一クラス、30人~40人(いまはもっと減ったのでしょうか)の生徒の書いた、文章になってない場合もあり、漢字もひらがなの頻度もまちまちで、口語体や文語体の入り交じるカオスな文章を読み続けなければならない国語教師の苦労を考えますと、口酸っぱく言いたくもなろう、というものです。 


 ――ただ、この国語教師が読者だと考えるとどうなるでしょうか?


 数多くの、クオリティもまちまちな30人の書いた作品が目の前にあるとして、読者が好印象を"持ちやすい"作品は、果たしてどれでしょうか?

 いや、内容によるでしょうそりゃあ、という意見をお持ちの方も多いと思います。

 では、こう言いかえましょう。


 内容を、正しく素早く正確に理解してもらえ、読み飛ばされないですむ作品は、はたしてどれでしょうか?


 国語教師は義務感から30人分の作文を全て、可能な限り読み解こうとしてくれます。ですが、仕事時間には限りがあります。

 30人の書いた作文を読むのに与えられた猶予が四時間しかないとしたら、240分を30人で均等に分割したとして、一人当たりの作文に駆けられる時間は、せいぜいが8分です。

 8分で、内容を正しく理解して貰える文章は果たしてどのような文章でしょうか?

 また、30人の初めの方に読んでもらえる生徒はともかく、先生も数時間ぶっ通しで読んでいるわけで、頭もゆだって疲労困憊。さっさと仕事を終わらせたいな、と思い始めた終盤辺りで、適当に読み飛ばされないですむ文章とは一体……?


 読者だって暇は有限です。無限ではありません。ニートだって、小説以外に娯楽は一杯あります。ゲームだってやりたいですし、動画サイトだって見て回りたい。音楽だって聴きたいし、ショッピングサイトで通販もしたい。一本の小説に割いてもいい自分の時間は余りに短い。


 文頭の一マス。

 されど一マス、です。


 この一マスを空けないために読みづらいとされて読まれない小説が、この世の中にはたくさんあります。

 創作術、文章作法とは、つまり、そういうこと。


 貴方の書いた作品が、どうか読み飛ばされないように。どうか一人でも多くの人に読んでもらえるようにする心配りなのです。


 どうか、この役に立つかも分からない創作術が、貴方の『文頭の一マス』に慣れましたらこれ幸いです。


 今回はこれまで。

 おつきあい、ありがとうございました。

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