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桜の咲く頃に

作者: 那由多

「今年も咲いたね、兄さんの桜」

庭に立つ一本の桜を見ながら、私は荷造りを手伝ってくれている母に言いました。

「そうね」

母はただそう言っただけでした。

でも、横目で母を見ると、母も庭の桜に目を向けていました。その顔は感慨深げでもあり、寂しげにも見えます。

「兄さん」

この桜を見ると、兄を思い出さずにはいられません。だからきっと、今の私も母と同じような顔なのでしょう。


 私には十歳離れた兄がいました。これだけ離れていると、いがみ合いの対象にもならないのか、私は可愛がってもらった記憶しかありません。だから年を経ても私は兄が大好きでしたし、兄も変わらず私を可愛がってくれました。

 兄は、あまり体が丈夫でなく、少しのことでも熱を出したりして、すぐに調子を崩していました。

 外に出るよりも、読書を好むようなところがありましたから、弱りこそすれ、丈夫になることはありませんでした。大好きな兄でしたが、そこだけはもう少しどうにかしたほうが良いのでは、と心配したものです。

 その兄が庭弄りを始めたのは、本当に突然のことでした。頑として理由を語ろうとはしませんでしたので私と両親は揃って首をかしげたものです。

 祖父が生きていた頃は、手入れも行き届いていましたが、祖父が亡くなってからは手入れするものも無く、すっかり荒れ果てていました。そこに足を踏み入れたのが兄でした。それまで庭など触れたこともありませんでしたから、その作業姿は危なっかしくて、返って庭を荒らしているようにも見えたものです。

 それでも作業をしている兄は、一生懸命であり、楽しげにも見えましたから、私も両親も何も言わなかったのです。

 庭との相性が悪かったのか、庭自体が悪かったのか、おそらくは前者でしょう。兄の植える植物はなかなか庭に根付いてくれませんでした。兄が何となく焦った表情を見せるようになり、私もお手伝いしようとしたのですが、兄はいつも同じ事を言って結局は手伝わせてくれませんでした。

「それじゃあ、そこの縁側に座って見ていておくれ」

 自分の力でどうにかしたかったのでしょう。でも、私に対して素気無くするのも申し訳ない。兄なりに精一杯考えた言葉だったと、今になって分かるようになりました。


 あるとき兄が、一本の桜を庭に植えました。もともと然程広い庭ではありませんから、その桜は随分と大きく見えたものです。兄が二十五歳、私が十五歳の冬のことでした。

当時の我が家は、大黒柱である父が病の床に臥せっており、母もその看病で心身ともにすり減らしておりました。兄は家計の助けにと、仕事に尽力するようになり、私も学生の身ながら、家事などに進んで励んでおりました。

お医者様の話では、風邪を拗らせたせいで肺炎になりかかっている、との事でした。何度か入院を勧められたのですが、何しろ頑固者の父は頑として首を縦に振ろうとはしませんでした。

 その父の横たわる部屋から、一番良く見える場所に兄は桜を植えました。

「父さん、春になったら凄いものを見せてやる。だから早く元気になれよ」

「凄いって言ったって、ただの桜じゃないか」

 父は無関心な口ぶりでしたが、実際のところ、息子が自分のために植えたようなことを言ったものですから、嬉しくて仕方なかったことでしょう。

母は、父の見えるところにわざわざ植えたのはいいが、枯れたら縁起が悪いと眉をひそめていました。確かに、それまでの兄の実績から言えば、その心配も仕方の無いことでしょう。事実私も同じ種の不安を抱いていましたから。

 ところか、当の兄は堂々としたもので、心配する母に向かって真剣な顔でこういってのけました。

「大丈夫だよ、母さん。枯れさせやしないさ。売ってくれた人に寄れば、そんなにやわな桜じゃないらしい。母さんも楽しみにしていてくれ。春になったら吃驚させるよ。僕もこの桜には賭けているところがあるんだ」

 賭けている、というのが良くわかりませんでしたが、何かしら思いつめたものを感じました。私はその言葉を信じることにしました。母も懸命な息子の言葉に、何も言い返そうとはしませんでした。

 なんだかんだで長年連れ添った夫婦ですから、父が倒れたときに最も心配したのは母でした。だから、少しでも父の元気の助けになるのなら、それをわざわざ遠ざけたくは無かったのでしょう。私の中で、兄の桜はちょっとした希望の卵のようなものになりました。この桜が根付けば、幸せが来るような気がしたのです。


 あの知らせを受けたときの事は忘れもしません。春のある日、丁度午後の最初の授業の真っ最中でした。なれない家事に疲れを感じていたのでしょう、陽光麗らかだったことも相まって、私は不覚にもうつらうつらと舟を漕いでいました。

 教室のドアが荒々しく開けられ、私の担任が顔を覗かせました。

「和泉!!」

 私の名前が呼ばれました。全く予想だにしなかった展開に驚いた私は、一瞬返事をするのも忘れ、担任の顔を見つめていました。

「和泉、ちょっと来てくれ」

 再度名前を呼ばれて、ようやく我に返った私は、招かれるままに慌しく教室を出ました。そのまま応接室まで連れて行かれたとき、さすがの私にもただ事ではないと予感することが出来ました。真っ先に浮かんだのは、やはり父の容態でした。ところが、担任の口から出てきたのはまったく別の名前だったのです。

「お兄さんが交通事故に遭われたそうだ。今、お母さんから連絡があった。ご両親も向かっているそうだから、君もすぐに行ったほうがいい」

 何かの聞き間違いかと思いました。昨日まで笑いあっていた兄が交通事故に遭ったなんて。何が何だか分からなくて、私はすぐに動くことが出来ませんでした。

「和泉、大丈夫か?」

 担任が私の肩を軽く揺すりました。

「え……あの…はい」

 すぐに言葉が出てきませんでした。まるで喉が言うことを聞いてくれないのです。

「気持ちは分かる。ショックだろうな。良かったら、病院まで僕の車で送っていこうか?」

 私は担任の申し出を受けることにしました。私ひとりで向かっても、到底辿り着ける自信が無かったものですから。


 車を病院の前に横付けしてもらい、私は担任に満足な礼も言えぬままに病院に駆け込みました。受付にいた看護婦に声を掛け、手術室の前に行くと、長椅子に座る両親の姿が見えました。病身の父も、さすがに寝ていられなかったようで、弱々しい風貌のまま長椅子に腰掛けていました。母は既に涙を抑えきれずに泣いていました。

「お父さん、お母さん」

 私が声を掛けると、両親は絶望的な面持ちで私のほうを同時に見ました。

「兄さんは?」

 私が訪ねると、母は再びハンカチに顔を埋めてしまいました。母がとても喋れそうにないのを見て、父が口を開きました。

「外回りでな、トラックとあいつの乗っていた車が正面衝突したって事だ。あいつの車が対向車線に出たらしい。居眠りでもしていたんじゃないかって警察は言ってる。容態も最悪だ。医者も分の悪い手術だって」

 目の前が真っ暗になりました。確かに最近忙しく働いてはいましたが、そこまで疲れているなんて思いもしませんでした。むしろ、少しは丈夫になってきたのかしらと、嬉しく思っていたほどです。変わりなく笑っているように見えたのに。

 ハンカチ越しに嗚咽を漏らしている母の隣に私も腰掛けました。とても立っていられなかったのです。涙が溢れて止まりませんでした。


 兄の葬儀は親族のみで慎ましやかに行われました。生前と同じ笑顔を浮かべる兄の遺影を見るのは奇妙な気分でした。胸が痛むのと同時に、せめて遺影では幸せそうな顔をしてくれて良かったとも思いました。

私も母も、おそらく初めて父の号泣する姿を見たように思います。それを見るにつけ、両親を、私を悲しませる兄を恨めしく思わずにはいられませんでした。


 涙というのは、なかなか枯れてくれないもので、兄の死んだ日以来、ことある事に私の目は涙に濡れました。それは母も同じで、二人ともみっともない顔をしていたと思います。我が家には埋めようの無い空虚が訪れ、それは私と両親を確実に蝕み始めていました。父は葬儀が終わると同時に再び床に臥せってしまいましたし、母もため息をつくことが多くなりました。かく言う私も心にぽっかりと開いた穴を埋めることが出来ず、漫然と砂を噛むような日々を過ごしていました。

 葬儀から二週間ほど過ぎたある日、私は兄の部屋に入りました。兄の死後、立ち入るのは初めてでした。生前となんら変わることの無い兄の部屋を見回しただけで、どう仕様も無い寂しさに襲われます。机も、本棚も、何もかもがそのままなのに、兄がここに戻ってくることは二度とないのです。

 ふと、本棚の隅に一冊の日記帳を見つけました。兄は几帳面なところもありましたから、日々の出来事でも書きとめていたのでしょうか。些細な好奇心から、私はその日記帳を手に取ってしまいました。生前の兄が何を書き認めていたのか、知りたいと思ったのです。

日記は比較的新しく、日付は一年ほど前から始まっていました。兄はどうやら一人の女性とお付き合いをしていたようです。大学時代の同期生で、立花桜という名前の女性が書かれていました。どうやら兄は相当思いを寄せていたようで、日記を読み進めるにつれて結婚という文字が出てくるようになりました。

 兄が行動を起こしたのは、丁度兄が庭弄りに精を出し始める少し前のことでした。両親にも私にも内緒で、どうやら彼女の実家に行ったようでした。彼女のご実家は島根県にあって、お父様が庭師をなさっている、というようなことまで書いてありました。日記に寄れば、どうやら兄はあまり良い印象を持ってもらえなかったようです。どうにか心象を良くしたい、といった悩みが書かれてありました。

 なんとなく合点がいきました。突然庭弄りを始めたのも、いろいろな花を植えようとしたのも、全てはこの立花さんのためだったのです。

 それに、立花さんと同じ名前の桜を植えたことも…。この日記を読んだ後なら、賭けている、という言葉の意味も何とはなしに分かります。日記にも「特別な桜」とわざわざ書かれていました。

 わざわざ父から良く見えるところに植えたのは、父を元気付けたいという想いもあってのことでしょう。それでも一番の理由は、この立花さんとやらにあったと思うのです。


 日記を読み終えたあと、私は一人で庭に出ました。気になるのは桜です。以前は桜の見えるところにいた父も、桜が見えると兄を思い出して泣けてくる、という理由で一つ隣の部屋に移っていました。

 久しぶりに見る庭は、毎日手入れしていた頃に比べるとやっぱり少し荒れていました。その中に立つ桜にも変化が訪れていたのです。

「お母さん!!」

私は思わず叫んでいました。

「桜、見て」

私のその声に重たそうに足を引きずりながら、縁側に母が出てきました。

「まあ…」

 大声を出した母は、暫く桜を見つめたまま呆然としていました。

「お父さん、ちょっと来てください!!」

 それから、母は桜を見つめたまま、慌てたようにふすま越しに父に声を掛けました。背中でふすまの開く音がして、部屋から父が出てくる足音がしました。

「おお…」

 父も驚いた声を上げています。

私達が驚くのも無理のない話しでした。だって桜から青々とした葉が出てきていたのですから。それはつまり、桜がこの庭で生きているということです。

「兄さんの桜が根付いたよ」

 そういいながら私が振り返ると、そこにあった父と母の顔には、お葬式以来久しぶりに嬉しそうな表情が浮かんでいました。

「花は無いな…」

 父がぽつりと呟きました。私はハッとしました。そう言われればそうです。根付いたことが嬉しくて、私もすっかり忘れていましたが、桜は花が散ってから葉っぱが出るもの。花より先に葉が出てきたのはどういうわけでしょうか。

「そんなのいいのよ。あの子が植えたのが根付いたんだから、それだけで充分よ」

 母が少し震えた声でそういいました。確かに、そうだといえばそうなのですが、せっかく根付いた桜の花を見られなかったというのは悔しい話です。

 私達の気づかない間に、桜は咲いて散ってしまったのでしょうか。いいえ、そうではありませんでした。

 私は納得できず、桜の木に近づいてみました。そして、よくよくその枝を見て驚きました。そこには葉っぱも生えていましたが、それと同じ色の花が咲いていたのです。

「お父さん、お母さん、来てよ。花が、花が咲いているよ」

 私ははしたなくも興奮して大声を上げながら、父と母を手招きで呼びつけました。

 私の興奮振りに何事かと駆け寄ってくる両親も、すぐに葉と同じ色の花が咲いていることに気付いたようで、桜の木を見上げたまま立ち尽くしてしまいました。

「緑色の…桜?」

 母が呆けたようにポツリと呟きました。父は無言で桜を見上げています。

「兄さん」

 呟くと同時に、私の瞳から涙が溢れ出しました。それと同時に、母のしゃくりあげる声が聞こえてきました。それがすぐにくぐもった声になったのは、きっと父が胸を貸していたからでしょう。しばらく、私と母はそこから動くことも無く、ただ静かに泣き続け、父はその傍に黙って立っていました。


 あれから五年の月日があっという間に過ぎ去りました。桜は毎年花を咲かせました。この花は緑からゆっくりとピンクに変わってゆきます。その珍しい色から、ご近所でもちょっと評判になっています。

 この特別な桜が「御衣黄」と呼ばれる桜だと知ったのは、それからもう少し後のことでした。それと、島根県の三刀屋という辺りでは有名な桜であるということも、あわせて知りました。兄が吃驚させる、といったのは花の色だけではないのでしょう。その裏側には、立花さんの存在があったことは言うに及びません。

 日記ではそのあたりに触れることは無かったのですが、ひょっとしたら、花の咲く頃にあわせて、立花さんを連れてくるつもりだったのではないでしょうか。苦しみの中にあった我が家を、少しでも活気付けようという、兄なりの演出を企んでいたように思えます。


 結局それまでの失敗が嘘のように、御衣黄桜は我が家の庭に根付きました。それはまるで、兄の魂が乗り移ったように感じられ、我が家にあってその桜は本当に特別な存在となりました。

 父の容態は、あの日を境に快方に向かい、一月も経たぬうちに回復しました。お医者様も驚いていましたが、そのおかげで母の表情にも明るい光が射すようになりました。

 そして私は学生生活を終え、つい先日まで某社の事務員として働いていました。

「母さん、ちょっと庭に出てくるね」

 母に断りを入れ、私は庭に出ました。桜の木の袂までゆっくりと歩いていきます。この五年間、辛いときも苦しいときも、それから楽しいときも、私は時間があればこの幹にもたれかかっていました。

でも、それも今日からはあまり出来なくなるのでしょう。薬指にはまった指輪を右手でいじりながら、私は桜の幹にもたれかかりました。今はまだ緑色の桜を見つめていると、いろいろなことが思い出されます。

「今まで、ありがとう。…兄さん」


 ざわり、と桜が揺れました。


                               了


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― 新着の感想 ―
[一言] 非常に私好みなリズムとちょっとしんみりな中にある温かいお話をありがとうございます。 立花さんのお父様と桜さんの様子を知りたいと思うのは読者のわがままでしょうね。 これからも期待しておりま…
[一言] 初めまして。お兄さん思いの妹さんですね。歳の差があると、兄妹とはいえ感情的に動く事はないとありましたが、語られる言葉にも敬いがあり、それが一層感じられました。  庭の桜と日記の内容を通して…
[一言] んとですね、ぶっちゃけた感想を申しますと・・・少々退屈です。 臨場感に欠けてるからかな? ほとんど少女の「説明」になってしまってるからだと思います。話的には「いい話」なのですが、迫って来るも…
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