怒りのニュルキ
仕合後、担架で運ばれたヨードリヒが向かった先は、医務室のベッドではなく、氷塊の浮かぶ水風呂だった。
「なにしろ火傷ですから。冷やさなくては。あぁ、医務室にお風呂がありませんでしたので、倉庫で勘弁してくださいね」
看護師の女に冷たい視線で射抜かれて、ヨードリヒは仕合前にデートの誘いなどするのではなかったと、少し後悔した。
春とはいえ、氷塊の浮かぶ水風呂は堪えたし、ましてやヨードリヒは火傷の身である。赤くなった肌に冷水が針となって突き刺さった。反射的に悲鳴を上げかけたが、口の中まで出かかったそれを歯を食いしばって抑え込む。なにしろ、目の前に看護師がいる。
にこり、と今のヨードリヒにできる最大限の爽やかさで笑顔を作ったが、看護師には鼻で笑われてしまった。
どたどたと、大きな足音が聞こえてきた。ヨードリヒは、この足音に聞き覚えがある。己に対して絶対の自信を持つ者だけが出せる種類の足音で、ヨードリヒのよく知る足音だった。この足音の持ち主は、声も大きい。
「ヨードリヒッ、勝ったの?」
「負けました!」
「うが~!!!!!」
水風呂に雷が落ちた。ニュルキがやってきたのだ。
看護師は、突然の光景に動転している。
「あなた、もういいわ」
「は、はい!」
ニュルキの言に、足早に去っていく看護師。倉庫には、ニュルキとヨードリヒだけになった。
「私がぼろんぼろんに痛めつけてやったのに、なんで負けてるのよ!」
「だだだだってあいつつつつよかったし……」
ヨードリヒはニュルキに怯えて声と体が震えている。心なしか一回り小さくなったように見えるのは、ヨードリヒから自信や覇気といったものが全く失せているからだろう。
「まったくッ、あんたって、やつは!」
「うわわわわああああああんッ!」
連続の電撃。当たるたびにヨードリヒの身体は水風呂から跳ね飛び、見栄も何もない悲鳴が上がる。
「お許しください、当主様ッ。この次こそは必ず、オーガスタめを仕留めてみせます!」
「う、る、さ~い!」
特大の電撃。
「いつ来るかわからないあんたの雪辱戦より、次よ次ッ。明日の三番勝負は誰が出れるの!?」
誰が『出る』ではなく、誰が『出れる』という言い方に、AMUの厳しい内部事情がにじみ出ていた。
「つ、次は、ゾーグさん、です」
水風呂のなかでがたがた震えながら、ヨードリヒは答えた。
「いよしッ。勝った!」
固く拳を握りしめ、ニュルキは笑う。
「見栄えよし、実力よし。文句なしにウチの勝ちね」
「でもあの人おっかねぇよぅ」
水風呂に首までつかり、手を縁にかけた格好で、ヨードリヒが呟いた。
「だまらっしゃい!」
降り注ぐ怒りの電撃。
「ガハハハハハ。大将、そのへんにしておこう。あまりいじめるとヨードリヒの肝っ玉がすり減って無くなってしまうぞ!」
倉庫に笑い声が響く。酒と煙草でがらがらになった喉が出す、特有の声をしていた。
「おぉ、ゾーグじゃないのッ。明日は頼むわよ!」
「おう、任せておけ。ガハハハハ」
ゾーグは長い鼻を天に掲げて、大笑いしている。ゾーグは、象頭人身の獣人であった。
「聞けばオーガスタとやらは鬼の出という。異人対決ということだな」
「オーガスタは強かったよう」
「「だまらっしゃい!!」」
ヨードリヒの小声は、二人の大喝で吹き飛んでしまった。
(うぅ、おっかねぇなぁ)
ヨードリヒやロッシュは、『売り物にならない』性格をしている。そういう魔導士は、私的な空間以外では、性格を作っている。それに対して、ニュルキやゾーグは、『売り物になる』性格をしている。そういう者たちは、公的な場でも私的な場でも、性格は一貫していた。しかし、公的な場で受ける言動が、私的な場で受けるとは限らない。そういう意味で、ヨードリヒはゾーグを苦手としていた。
「明日の仕合が楽しみだぜ、ガハハハハハ」
ロッシュと肩を並べる高身長、ロッシュを凌ぐ重量。押し出しの強い体格と性格で、AMUの看板を背負って立つエース格の一人。それがゾーグだった。